2008年11月29日土曜日

05001■古代アンデス文明研究家・天野芳太郎

秋田県男鹿市出身「天野芳太郎」が古代アンデス文明研究家として報道されています。73年前マチュピチュ遺跡に日本人として初めて立った人。リマの天野博物館には10万点の収蔵品。
秋田工業高校の先輩でもありますが、現在にペルーを駆け巡っている渡邊広勝さんの友人として、シンクロニテイを感じています。



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2008年11月19日水曜日

01007■クロマンタレポート2-(7)

第4章 悠久の時の流れ

古代十和田の祭り
オルガノの大地

ここは太古代、壮大な祭りの区域だった。それは、子孫繁栄と子供を授かるための大切な行事であった。古代子供は部族全体の財産だった。そのため子供を得ることは女性だけでなく男たちにとっても必要であった。部族の中だけでは近親結婚が多くなり、其れは多分に警戒されるものとなる。また何らかの原因でなかなか子供を生む条件が満たされない夫婦も居たであろう。原因がどちらともわからない古代では、女性が子供をもうけるために他の男性と契ることは仕方ないことであった。また風俗習慣が異なる原始社会において、他の集落との行き来は少ない。血を濃くしないためには他の種族の血を求めなければならない。ただ相互の行き来はその思想信条から、なかなか思うようにならなかったであろう。

カガイの祭りはそれらの問題を統一の神の名の下におこなう大切な行事であった。そしてカガイ祭りのように神の領域で授かった子供は神からの贈り物として大切にしたのである。(あるいはキリスト生誕に関わる秘密かもしれない。)

 黒又山を中心とするこの領域はホスピタルと同時に年に一度その祭りを行うこの地方の大切な区域であったと考察される。


以下は原文をスキャナーで掲載します。



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以上です




01006■クロマンタレポート2-(6)

第3章 縄文科学の謎にせまる

ここでは多くの頁をクロマンタの存在について示した。しかし黒又山、いわゆるこの種の山つまりクロマンタの本当の姿には達していない。なぜ発光したのか、なぜ不審火が出たのかそれらの理論的解明を必要とする。ここに鉱体電池理論がある。以下は20077月に示した鉱体電池レポートである。

発光と腐らない水

昭和17年クロマンタの上空に紫の光る雲が出現したこと。神社が過去二度に渡って不審火で消失していること。近くにある尾さり沢鉱山は千数百年前火の鳥の伝説のあること。その他の山-福島県・石川県-での発光現象はUFOとして報告されている。

古代からの伝承、御伽噺、絵画などにはよく紫雲という言葉がでる。あるいは古代この紫雲は比較的良く見られたものであったかもしれない。クロマンタの研究はこの問題を説くことでもある。


以下は原文をスキャナーで掲載します。



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2008年11月18日火曜日

01005■クロマンタレポート2-(5)

クロマンタレポート2
~ストーンサークルのこと~

クロマンタラインとは外れますがストンサークルについて私の調べたことを記しておきます。少し長くなりますが地中探査レーダーのデータも含めてその謎を追ってみます。

「ストンサークル」その存在が世に出るには県道を作るときと聞いています。昭和16年から17年頃(1941-1942)のようです。マウンド状の丘の下から石列が出たのです。そして全部出してみると現在のような姿が出てきました。実は多くの石が持ち去られて行ったといわれています。この遺物が何なのか、現今の考古学者はなかなか立ち入ろうとしません。なぜでしょう。そして謎のまま祭祀遺跡として現在も続いています。それなりに訳はあるのでしょうがここでは省きます。そのためいろいろな人が大勢行っていて、そしていろいろなことを言っています。だから私もいろいろな人の一員にさせていただきます。

 10年ほど前、鹿角市の担当者秋元信夫氏の許可を得て、地中探査レーダーのデータ収集を実施しました。

以下スキャナーで原文掲載します。


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01004■クロマンタレポート2-(4)

クロマンタレポート2
~草木神社のこと~

鹿角黒森山と黒又山を結んだ線平面図では北から南に水田地帯に向かいます。インが水田に達する場所に草木神社があります。さて黒森山からクロマンタのラインは草木神社に一直線と言われていましたが、諸研究者の文を検討すると精度に付いて大変無頓着です。それほどのラインであるなら精度も検討するべきですが、していないようです。そこで精度の高く求められる25000分の1地図で見ました。すると黒又山・草木神社ラインでは、黒森・黒又ラインに対し、微妙に東に折れてしまいます。ラインを直線にするとどうしても神社の西側になってしまいます。


以下原文をスキャナーで掲載します


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01003■クロマンタレポート2-(3)

ロマンタレポート2
-鹿倉薬師のこと-

 クロマンタの北側、黒森山との間に大湯温泉があります。この温泉地区に西側から入る道筋の南に、斜面が水晶のように屈折した鹿倉山があります。この山の屈折した部分に、薬師堂があり鹿倉薬師が祀られています。ただし目で見える薬師堂は仮の場所なのです。正確には薬師堂に向かう細い道の脇に今にも転げそうな石の碑があります。


以下は原文をスキャナーで掲載します。


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01002■クロマンタレポート2-(2)

クロマンタレポート2 
 ~黒又山のこと~
 
 秋田県鹿角市にストンサークルがあります。古代の謎を秘めた遺跡として知られています。その遺跡の北東に、小さな三角に見える山があります。本当は半円形の山ですが、木によって三角に見えるのです。この山の名を黒又山といいます。頂上には本宮薬師が祀られています。この山は地元の人には畏敬と愛称をこめてクロマンタと呼ばれています。   

以下は原文をスキャナーで読み込んだものです。


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~鹿角黒森山のこと~

























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01001■クロマンタレポート2-(1)

クロマンタレポート2
を著者の渡辺広勝氏の要請を受け掲載します。


クロマンタ薬師神社の周りがゼロ地場であることを確認する渡辺さん。































 「昔、大地には天の水と地の水があった。あるとき天の水が地を覆った。」

                       アラブ物語・旧約聖書より

今なぜクロマンタなのか。

クロマンタレポート-1は単純に黒又山などの踏査や調査を踏まえて記録したものでした。あれから10年ほどの歳月が流れました。この間私たちの生活も、環境も激しく変化しています。黒又山やその他の関係する土地を見ていると、歳月の持つ自然の力を知ることが出来ます。

今、日本は大陸からの不気味な底知れぬ不安を人々は抱いているのではないでしょうか。だからこそ、無為な事柄が多くの事象を支配しているような気がします。クロマンタレポートはただ単にそのことだけでなく、私たち日本人が保たなければならない自然文化の元を見つめなおすものにしていきたいと、僭越ながら思っています。

クロマンタレポート、ここに示す時代は日本では縄文文化時代から以前のことを考えています。

10年ほど前の調査のある日、森に囲まれた日のよく当る小さな草原で寝込んでしまいました。そのとき私はなんとなく太古代の旅をしたようでした。その時から日本の太古・縄文時代は土器と狩猟だけの国土だったのだろうか、本当は現代のように地球規模で文化の伝播がすばやく行われていたのではないだろうか、あるいはそれ以前はどうだったのだろうか、疑問が多々感じられるようになりました。そして類似する多くの物件を見るようになり、今までとまったく違った角度から歴史を見たいと思うようになりました。

エジプト王家の谷とその周辺で見たものは、膨大な黄金産業文化の存在でした。ナイルの奥地、スーダンには未調査の鉱山遺跡が無数にあると聞きます。エジプト文化のシンボルとなったツタンカーメンの黄金のマスク、から始まる無数の黄金製品はここから始まったのではないでしょうか。ナイル川の堆積した砂の中には、水晶の砂礫が無限にあるのです。これは上流に含金鉱床の存在を示しています。

黄金はそれだけを見ていれば美しい金属です。しかしこれを生産する工程は水と火が重要となります。水がなければ金を選別できません。火力が無ければ加工に適した金塊を作ることが出来ません。また、金塊の元である金を岩盤から取り出すには、多くの人力、工作力、科学知識を必要とします。そして水です。水を求めるには水路が必要です。水路を作る技術はやがてナイル運河の建設にもかかわって行きます。私たちが始めて歴史を学ぶとき古代4代文明(5大文明)といいますが、これは食つま

り農産物に基く分類です。鉱業は文明を形成することなく隠れた文明としてはるか以前から存在しそれは4代文明形成への基本となったのです。

4大文明の栄えるはるか以前、氷河期の終わりの頃です。食より以前、人類は死の恐怖がありました。それは信仰となり、死のない腐食しない普遍のものとして金がその地位を得たのです。金を求め所持することは人を死後の世界への安らぎを約束する物だったと見られます。このため金を岩塊から取り出すことは必要だったのです。このため黄金生産は様々な工夫と、産業を生み出し発展させました。ですから水路・運河の技術は鉱業から発達したものと考えられるのです。農業や食でさえ工夫されたかもしれません。

火力は基本的に樹木に頼ったでしょう。太古氷河期が終わり、氷河が後退した跡に植物がどんどん浸入しやがて広大な森を作ります。サハラ砂漠ももとは草原や森林が栄えたと見られます。やがてこの森の自然採取から人類は組織的な集団になって行きます。そして信仰が統一され金の需要が多くなります。金1トンは約5万トンの金鉱石を必要とします。5万トンの金鉱石を得る為さらにその何倍かの母岩を処理するでしょう。母岩の処理のためより広大な区域の土地が処理さます。そのためにも膨大な水が必要となる。水路建設の技術はいやがうえにも高まります。そして溶解のために森林は次から次へと伐採されていったでしょう。鉱山の開発が進めば、当然あってはならない鉱毒害も発生します。これもまた森林や草原を蝕んで行ったとみられます。いまサハラの砂漠化はただ単に自然環境の中で始まったのではないと考えられるのです。

 私は中東のバビロニア遺跡、インダスのモヘンジョダロ遺跡に行ったときその大地を見て唖然としました。見渡す範囲の広大な地域が陶器の破片で埋め尽くされていたからです。それは広大な空間が足元を忘れさせ、歩く途中で感触から地面を見て驚いたものなのです。硬く、薄く美しい文様の土器片の山は、これを焼くために処理された膨大な森林の存在を推測させました。4代文明など近時代文明は森

林の破壊により洪水と気候変動で消滅したことを考察させました。これはその後訪ねるアンデスの各文明の結末も同じと見られたのです。

古代、中東から中国にかけて膨大な陶磁器や金属製品が製作されていました。ヨーロッパから中国にかけてエジプトをしのぐ金や銀、銅が生産されました。膨大な森林と水が必要となったはずです。もし農業だけであるならこんな極端な砂漠化はなかったと思います。ヨーロッパの大地は草原となり、中東は砂漠化し、中国黄河流域は荒廃した台地となりました。

このとき大気が汚染されのです。ヨーロッパからインド、中国にいたる広大な地帯の土器、金属の生産は大気を汚染するに充分な力を持っていました。それまで陸地氷河の温度で保たれていた自然環境は加速する大気の汚染による温度の上昇が始まり氷河も溶け出したのである。シベリヤから北ヨーロッパでは溶け出した氷河は徐々に海水面を上げだしていきました。もともとゆったりとした平原地形は溶けた氷河を適切に海に流すことが出来ました。北極海・北米のカナダやアラスカでは恐ろしい状況が始まっていた。複雑な地形は溶けた氷河を速やかに流すことなく氷河が氷河をふさいで巨大な氷河湖を作り出していたのです。これが天の水です。

なぜ氷河期が来るのでしょうか。現代の科学の情報をまとめると、一つの仮説を作ることが出来ます。それは宇宙粒子です。高密度の宇宙粒子は、今太陽のファラオの力で地球に到達する量は少なのです。しかし太陽の活動は数万年単位で変動しているといいます。弱くなれば当然地球には氷河期が来ます。そして宇宙粒子の数も増えるでしょう。生物の多くは宇宙粒子によって死滅するでしょう。人類も分けもなく突然隣の人が死ぬのを見れば、神のなせる業として恐怖におののくでしょう。金の密度がある種の宇宙粒子から身を守るとしたら人々は争って金を探すかもしれません。しかしそれらのことも、太古の人類の生存した証明もやがて氷河によって

跡形もなく消滅すでしょう。太陽の活動が弱まると宇宙粒子が盛んに太陽系に入り惑星の中心部に到達し中心部の高密度

組織と衝突、爆発活動を促すようになると思います。やがて太陽の活動が力をつけるに従い宇宙粒子は太陽系の外へと追いやられるのです。生き残った人類や生物は氷河との共棲を始めるのです。また氷河の少ない赤道付近は人類の文明が盛んになる場所でも有りました。宇宙粒子は地球の核にも浸透し核の活動を活発化させやがて地球の地殻活動を促すでしょう。それはやがて世界に火山活動と造山運動の様子を見せるのです。氷河湖は北極海面上にも出来ていました。これは理論的に可能なのです。寒冷化した地球上で雪が降る。北極の氷はデーブル状に海に浮いているがその上を雪が積層し高さ何千メートルの平原を作っていきます。(現南極の陸地氷河は2000-3000mあります。)おそらく氷山ブリッジに氷河平原が出来たと見らます。

太陽内部に到達した宇宙粒子は太陽の重水素と衝突し太陽の活動も活発になる。地球の地殻活動も活発化し、巨大火山が世界のあちこちでたゆまなく爆発します。温度は徐々に上がり植物や動物は氷河の交代と共に北上していくのです。氷河期は終了しました。北極の氷河平原が溶け出し巨大な氷河湖を作っていきます。ある日北極海上にあった巨大な氷河湖の底が抜けました。天の水といわれた膨大な量の氷河湖が瞬く間に広がっていきます。そして海水面を一気に数十メートル以上上昇させます。この上昇はさらに地球規模で各大陸の沿海氷河に影響を与え海水面上昇はさらに加速した。北アメリカの氷河湖やタクラマカン氷河湖も一気に崩落し海に流れ込んでいきます。恐らく一週間程度のうちに世界の海岸線は百数十メートル上昇した。太古文明、大半の人類は赤道に近い大陸棚からそこに近い平原に生存していました。太古文明は一瞬にして消滅しました。これは氷河期近時点での災害です、世界にある洪水伝説でもあるのです。その確証は富山湾や男鹿半島沖にあるという海底森林です。海底森林は少しづつの海水面上昇では存在しません。静かな水面の続く海など考えられ

ません。一瞬で海の中に入り、根元の土が波浪などで侵食されなかったためなのです。おおよそ馬鹿馬鹿しい事ですが,人類はこの種の災害を過去何度も繰り返し経験してきた可能性が高いのです、ノアの神話がそれを物語ります。ノア

の神話とは何回か前の氷河期の物語だろうと考えています。同じことが起こるたびにノアの方船を言い伝えていたのではないだろうか。100万年の間に人類は何回このような経験をしたのでしょうか。しかし、大地にとって100万年はほんのひと時に過ぎないのです。氷河期が去って、植物や動物が大地を豊穣の世界としたとき、それを破壊したのは生き残った人類でした。人類は再び文明を起こし、大地を蚕食し始めたです。

 さて日本、氷河期が過ぎ去った、太古の日本です。これら大陸文明の発展時のしわ寄せは、偏西風に乗ってやってくる汚染された大気です。日本の大樹は汚染され、木々は枯れだしました。この国の人々は良質な水を求めて自然活性化や人工的活性化つくりを行ったのである。

 日本人は大陸の動きに敏感に反応してきました。それは太古からこの国に無頼のやからが多く来たことによるのです。それは大陸の環境変化が起因していました。そのため日本人となった人々は大陸の状況に敏感になったのです。インドや中国で大氣が汚染されれば日本が真っ先に被害を受けるのです。日本国土の「産土の神」はその都度我々の祖先をいろいろな方法で救ってくれました。またこの国に迷い込んだそれらの人々も抱きこんで、新しい日本国土の民を形成してきたのです。近時代では弥生時代前後の西日本はまさにそのような状態でした。僭越ですが、クロマンタを研究することは、あるいは近い将来再び発生するかもしれない弥生戦国時代の到来から真の日本人を守ることの基礎になるかもしれないと思っています。

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2-(2)につづく


2008年11月13日木曜日

01102■クロマンタ調査隊



11月5,6,7日雑誌「ムーのクロマンタ調査隊に同行しました。
ムーのM晴編集長、フオーチュンカウンセラーK氏、ライターA氏、地質調査のW氏です。



錦木塚で








ストーンサークルで

新しい発見がいっぱいありました。
「ムー」への掲載が楽しみです。






01303■錦木塚について





錦  木  塚 について



紅葉が見事でした。


















錦木塚です
二つの気づきがありました

















①永年の凍結・風化で塚石がだんだん小さくなっているようです。







































②昨年度に案内板ができていました。謡曲「錦木」はもちろん、政子姫の伝説まで世阿弥が創作したものだと書いてありました。政子姫の物語はこんな山奥の伝説としては奇異なものです。都人の物語ですよね。これでよくわかりました。






















                錦  木  塚  伝  説

今から千数百年程前、都からきた狭名大夫(さなのきみ)という人が錦木あたを治めていた。それから八代目の狭名大海(さなのおおみ)には美しい娘がいて名を政子といった。姫は狭布(けふ)の細布を織るのがとても上手であった。

その頃、草木の里に錦木を売るのを仕事にしている若者がいた。ある日若者は赤森の市で政子姫を見て、心の底から好きになってしまった。
 当時、男は女を妻にしたいと思うと、その女の家の前へ錦木を立てるならわしがあった。それを家中へ取り入れると嫁(とつ)いでもいいということであった。若者は錦木を姫の家の前へ雨の日も、大風の時も、吹雪く日も毎日立て続けた。政子姫は機織りする手を休めてそっと男の姿を見ているうちに若者が好きになっていたが、錦木は取り入れられなかった。
 父が身分の違いを理由に反対したためであった。もう一つのわけもあった。五の宮嶽の頂上に大ワシがすんでいて、付近の村から幼い子たちをさらっていった。或る時古川で托鉢(たくはつ)に立ち寄った旅僧は、若い夫婦がわが子を失い泣いていたので、そのわけを聞き、鳥の毛を混ぜた布を織って着せれば、ワシは子どもをさらえなくなると教えてくれた。
 鳥毛をまぜた布はよほど機織りが上手でないと作れない。政子姫はみんなから頼まれ、親の悲しみを自分のことのように 思い、三年三月(みとせみつき)の間観音に願をかけ身を清めて布を織っていたのである。そのために嫁にくという約束は出来なかった。
 若者はそうとも知らずにあと一日で千束になるという日、女の家の門前で降り積もった雪の中でかえらぬ人となった。姫もそれから間もなく若者の後を追うようにこの世を去った。姫の父は二人をあわれに思い若者の亡骸(なきがら)を貰(もらいうけ千束の錦木といっしょに一つの墓に夫婦としてほうむった。その墓を「錦木塚」といっている。

「錦木」「けふの細布」は平安後期歌枕として詠まれ、室町時代には世阿弥(ぜあみ)によって謡曲「錦木」が作られた。錦木塚伝説は世阿弥の創作に由来するといわれている。鹿角は伝説の里で知られている。

「十和田湖と八郎太郎」「だんぶり長者」とこの「錦木塚物語」は、鹿角の三代伝説といわれている。

平成十九年十一月建立     

十和田地域伝説継承事業「錦木塚の伝説実行委員会


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(まとめ)
・なぜ、鄙の鹿角で歌枕に詠われた「錦木」「けふの細布」があったかが不思議です。
・その延長線上で、錦木伝説は世阿弥の創作されたという不思議。

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