2009年7月30日木曜日

01317■世阿弥は錦木を見たのか







世阿弥はどうして、こんな鹿角の鄙の、というより蝦夷の奥地のことを知っていたのでしょうか。

よりどころは何なのでしょうか。

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ウイキの錦木から

(貼り付け)

世阿弥の錦木

ある僧が、従僧と共に狭夫の里にやって来る。そこへ錦木を手にした里の男と細布を持った女の幽霊が現れ、錦塚のいわれを説明し、塚の中に消える。里の者にいわれを聞いた僧は、塚の前で読経をすると、2人の幽霊が次々に現れ、感謝を述べて、今度は女は男の求婚を受け入れ、男の幽霊は感謝の舞を踊る。朝になると、そこには塚があるだけだった。

ただ、伝承も謡曲も小野小町深草少将との百夜通いの逸話と異口同音であり、袖中抄などから創作されたものと考えられている。
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(まとめ)
・世阿弥は鹿角まで来てはいません、やはり袖中抄などから創作したのですね。
・歌枕も謡曲も都人の創作ですね。でも枕詞となれば別です、枕詞には根拠がありますから。
・でもなぜ、この地が歌に詠まれる必然性があったのでしょうか。
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2009年7月26日日曜日

■運命の石・スコットランド

エハン・デラヴイ氏の「地球巡礼者」に不思議な石のことが載っていました。
「運命の石」です。ウイキペデアには「スクーンの石」で出ています、同じことです。

スクーンの石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウェストミンスター寺院に置かれたスクーンの石

スクーンの石 (Stone of Scone)。代々のスコットランド王が、この石の上で戴冠式をあげた。運命の石 (Stone of Destiny) とも呼ばれる。聖地パレスチナにあって聖ヤコブが頭に乗せたという伝承がある。

運命の石は、500年ごろ、スコット人ファーガス・モー・マク・エルクによってアイルランドから持ち込まれた。ファーガスはキンタイア半島付近に上陸し、ダルリアダ王国を建国。ファーガス2世となった。

846年ケネス1世オールバ王国の王を兼ねるようになると、運命の石もダルリアダ王国の首都ダンスタフニッジより新首都スクーン(現在のパース)に移された。これより、スクーンの石と呼ばれるようになる。

スクーンの石は、1296年エドワード1世によってイングランドに奪い去られ、木製の戴冠いすにはめ込まれウェストミンスター寺院に置かれることになった。その後、代々のイングランド王の戴冠式に用いられた。

スクーンの石がイングランドに奪われたことは、スコットランドの人々にとってはイングランドへの敵対意識を高めることになった。

1996年トニー・ブレア政権によりスクーンの石は700年ぶりにスコットランドに返還された。現在は、エディンバラ城に保管されている。

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もっと詳しくは、hatena..brtishstudiesさんからです


しかしこの「運命の石」とは、いったいなんだろうか。史料をさかのぼっても、その起源は実に曖昧なものであるようだ

 この「石」に関すると思われる記述が登場するのは、1370年代に書かれたフォーダンの『スコットランド人の年代記』における、1249年の即位式についての記述であるという。

いかなる王も、まず最初にスクーンにあるこの石の上に着座して王と呼ばれなければ、スコットランドを統治することはけっしてできない。

 これは「運命の石」についての最初の歴史記述ではあるが、具体的な固有名詞として「運命の石」や、「スクーンの石」といった表記は出てこない。それは単に「石」や「王座」と呼ばれているだけである。だから、それが、現在の「運命の石」かどうかはわからないのだが、少なくとも現代の「石」の正統性を、こうした歴史が裏付けていることは事実だ。

 「運命の石」という名づけの起源と考えられるのが、1304年から6年のあたりに記述されたと思われる歴史書で、その著者は不明である。そこには、スコットランドの出自神話として、以下のような予言が書かれている。「アイルランドに向かうシモンに対して、スペイン人の王である父ミロは、ゲール=グラスがエジプトから運んできた「この平らな石」をシモンに与え、「この石が置かれたところを、おまえの子孫が支配するであろう」。石はエジプトから運ばれてきたのだ!w

もちろんこれは、「天照大神が~」といった類の、神話にすぎないが、この部分が後代の歴史書によって繰り返し引用、復唱されることによって、運命の石」という名づけが、いつのまにか出来上がっていた、らしい。先ほどのフォーダンの『スコットランド人の年代記』における、上の場面の記述は簡潔である。

運命が欺かないなら、この石が置かれている、その土地をスコットが支配するであろう。

 このように、「運命の石」と呼ぶべきかどうかはわからないが、何らかの石がスコットランド王の即位式に用いられていたことは事実らしい。しかもその石は当時から「神話」を纏い、スコットランドという国家の独立性を担保するものであったようだ。


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(まとめ)

・壺の石碑を調べている途中ですので、「運命の石」が気になりました。スコットランドのことですが、どうでしょうか。

・ホツマではイナナギ・イザナミのことがアダムとイブと同じだとでていますので、こちらもどうかと思ったわけです。

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2009年7月19日日曜日

01210■ストーンヘンジの「五芒星設計」と大湯環状列石(1)


2008年02月12日


147.ハリーポッターの原典

ストーンヘンジの「五芒星設計」と大湯環状列石〔1〕

ストーンヘンジ★五芒星は現文明の黎明期まで遡ります★   
★ハリーポッターを産んだ魔法使いの国・イングランドはソールズベリーにたたずむ世界遺産「ストーンヘンジ」。
★この遺跡は数々の研究者がその謎の解明に取り組んできましたが、未だ多くの不思議に満ち満ちているそうです。※私がこの遺跡と向き合ったのは、ここ数日ストーンヘンジ五芒星設計間。
★詳しくはリンク先を読んでいただき、それから図Ⅰ図Ⅱをご覧ください。
★遺跡をよく観察すると、円形広場の隅に4個の基石(キーストーン)と思われる石〔A・B・C・D〕があり、線分ABと線分CDはストーンサークルの中心点で交わります(45度)。
★さて線分ABを直径とする円を描き(Cもこの円に乗る)、この円に内接しAを頂点とする五芒星を描くと、図中・緑色五芒星が得られます。そしてこの五芒星の内包五角形に外接する円を描くと、中央ストーンサークルの外周と一致します(とにかく図を見てください)。
★同様に線分CDから桃色五芒星が得られ、ズレは9度で全周の1/40です。
★そして東北の「参道」にご注目ください。夏至の日の出を指すといわれるヒールストーンに向う参道幅と両五芒星から延びる中軸線が一致します。
★これよりストーンヘンジは、五芒星が創る外・内円と、9度を1単位とする40分度器により設計されていそうです。
★この遺跡は「魔術師マーリンが造った」との伝説があるそうですが、その通りの「星型魔方陣」ですね。
★私の分析はこれまで。あとは皆さんがこの五芒星から謎を解いてみてください。

大湯万座環状列石
★さてこの五芒星ストーンサークル、どこかで見ましたね。そう、秋田・大湯にある万座環状列石と同種の構造です(図Ⅲ
この列石分析では、近くにある「五本柱建物」と合わせて「季節を知り、生計を営むカレンダーマップ装置」と位置づけましたが、ストーンヘンジにも同様の機能がありそうですね。


    次回はこの共通する遺跡「発生の謎」を追求します    
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(まとめ)
・ストーンヘンジと大湯のストーンサークルの共通点が見えましたね。
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011054■大円寺略伝記



1744年普門山大円寺略伝記(大円寺落慶記念誌より)


原文は古紙をコピーしたもので、汚れがひどく、判読ができなけるところが多く・・・・・・。

若干の解説を述べて参考に供します。

1、千手観音

千手観音霊佛を安置するとあるが、大円寺が毛馬内より移転する以前に観音の道場があったことになっているので、開闢本尊として現存して観音像があったことを示している。これは樹齢二千年と云われる門杉が存在することによっても証明されることです。





2、千手音の恩恵・・温泉
千手観音の恩恵は霊湯を湧出させ、赤石の間に金気を生ずるということから、霊湯は衆病を医する故に大湯と名付けたことになる。


3、千手観音の恩恵・・砂金
金気赤石の間に生ずるということは、寺の沢川では大正時代まで椀掛けをして金を採取する人があったという伝承からも証明されることです。


4、清水寺と坂上田村麻呂
千手観音像は定朝作という伝承は詳しく書かれているが、清水寺は坂上田村麻呂が建立した寺として有名な寺である。また、定朝作となれば、現在、宇治の平等院の仏像が唯一国宝になっているものがあるだけである。どうして大円寺に定朝作として伝わってきたのか、今後、真偽の程を確かめるひつようがあることになります。

その他、千手観音の霊顕の数々が、この辺地にあって凶魔降散 武民優平の鎮として普門山に飾られていることが記されています。



 中央の堂には、名匠、「定朝」(じょうちょう)作の丈六の木彫「阿弥陀如来像」本尊阿弥陀如来像が蓮華座の上にひっそりと安座しています。この像は、天平期(奈良時代)に見られる像とは違ったおもむきがあります。何と言っても、豊満な肉付きの阿弥陀仏は「豊さと温かさ」のある仏像です。「仏の慈悲」とか「仏の愛」をじんわりと感じさせ、自然に手を合わせたくなるから、不思議です。

定朝は平安時代の有名な匠(たくみ)で、仏師「康尚」(こうしょう)の子です。頼通の父、藤原道長が「法成寺」を建てた時、彼は総ての像の制作を担当、その功により「法橋」(ほっきょう・僧の位)が授けられています。

更に、興福寺再興では「法眼」(ほうがん)の位を授かりました。しかし、残念ながら、彼の造った作品のうち、現存するものは平等院の鳳凰堂の本尊、「阿弥陀如来仏」だけだそうです。

少し伏目に優しく私達を見下ろしてくれる。鋭さや仏教の厳しさは全く感じさせない。これは、この時代(平安時代)の極楽往生を願う人々の要求にぴったりの仏像であったに違いありません。
これ以降、平安末期の仏像は「定朝型式」の影響を受けたものが多いと、美術家は力説する。台座、後背、天蓋も彼独特の創意がみられ、その以降の、平安美術に大きな影響を与えたそうです。将に、非凡なる匠「定朝」でした。


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まとめ)
・千手観音の恩恵で温泉・・・これから癒しと塩
・金(砂金)採取があったこと・・・これは重要
・定朝・・・清水寺・・・坂上田村麻呂・・・田村麻呂伝説か?
・定朝・・・国宝・平等院・・・なぜ

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011053■大円寺以前の観音道場


大円寺は1643年に現在地に移ってきたものです。

1、その昔は観音道場
(「大円寺落慶記念誌」より)

現在の大円寺の建っている場所に、その昔は観音の道場があったといわれている。証しとして、開闢本尊があり、二千年の樹齢を誇る門杉がある。
(開闢本尊は京都清水寺の定朝が作ったと伝承される)

大円寺は北国八十八ヶ所霊場五十五番札所であり、鹿角三十三観音二十五番札所であった。
民間信仰の中で観音信仰は特に盛んであった。江戸時代の中期から明治、大正の頃まで続いたが、現代はほとんど行われていない。
鹿角三十三観音中で大円寺の御詠歌は
・・・欠けもせず余りもせずに円かさよ広き世界に一つの輪の月・・・

観音信仰が盛んだったころは、白装束の巡礼姿で、杖をつきながら参道の杉並木を列を成して歩いた昔が偲ばれる。








2、観音信仰とは(山折哲雄「仏教用語の基礎知識」
観音菩薩は慈しみ深い女性のイメージを濃厚にもった親しみやすい菩薩で、日本伝来以来、古くからいまにいたるまで広く信仰を集めている。
観音は、聖徳太子の建立した法隆寺にも救世観音や百済観音が安置されており、古くから信仰を集めていた。
観音信仰を説く代表的経典である、いわゆる観音経は、法華教第二十五品(普門品)である。観音信仰はこうした経典とともに七世紀ころから、多くの変化観音への信仰という形で広がっていった、と考えてよいであろう。たとえば十一面、千手、如意輪などの変化観音が、それぞれの造形的特徴から醸し出されるであろう現世利益が期待されて、信仰を集めたのである。

観音をまつる霊場も、はやくから知られ、石山寺や長谷、清水などは、平安時代以来、有名な観音道場であったし、後世、坂東、西国をはじめとした観音霊場が設置されて巡礼もさかんになった。


3、観音菩薩の浄土「補陀落(ふだらく)」
観音菩薩は南インドのボータラカ(補陀落山)という山にいるという伝承がある。それにより、中国では東シナ海の舟山群島、日本では熊野を観音浄土に見立てる信仰が生まれた。熊野には死者の魂がすむという。また補陀落は海上はるかにあるといい、紀伊半島那智の海岸から浄土往生の死を求めて小舟でこぎ出していく行為も生んだ。それを補陀落渡海という。
補陀落渡海は、魂が海上はるかにある常世国に帰るという日本古来の他界観と観音信仰が結びついたものとみられる。

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まとめ)
・古くからの観音信仰の道場があったこと。
・千手観音が開闢本尊であること。
・開闢百本尊は清水寺の定朝がつくったもの。
・清水寺が観音信仰の霊場であった・・・清水は坂上田村麻呂の創建。
常世の国の名が出てきました・・・これも気にかかります。
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011052■大円寺の大仏さん



大円寺の大仏さんが完成しました。
県内では赤田の大仏さん、鎌の沢の大仏さんに続いて三つめです。

1、大円寺大仏


位牌堂に鎮座した大仏さん。
阿弥陀如来座像
高さ5.22m
平成19年12月17日開眼供養

知らない時はなんでこんなピカピカの大仏が・・と思いましたが。
理由があるのですね。













2、洪水で流れ着いた大仏の首


大湯には何度も洪水があった。
1768年の洪水(白髪洪水)のとき、山門に大仏の首が流れついたとのいわれがある。















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(まとめ)
・大円寺は大湯の町の中では高い処にあります。
・土蔵の梁木が観音堂に打ち上げられたといわれます。これはりかいできます。
・でも、これほど大きな大仏の首が流れてくるのは・・・何かいわくがあるのでしょうね。

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2009年7月18日土曜日

011051■大円寺の門杉


1、大円寺230年ぶりの改修



・平成20年11月25日230年ぶりの落慶法要

・大湯温泉郷の温泉街の東に、曹洞宗普門山大円寺がある。
大円寺護持会が設置した立派な案内板によれば、開創は大永2年(1522)、開山は山形県東村山郡黒滝村の向川寺9世春林禅冬大和尚(私注:現在、該当する地名なし。山形県北村山郡大石田町横山字黒滝の向川寺を指していると思われる)。その後、寺地を幾度か変えて、現在地に移ったのは寛永20年(1643)のこと。
大円寺が移ってくる前、ここは観音信仰の道場だったらしい。大杉は、既に移転前から立っていたのだろう。(2000年はちょっとオーバーな気がするが)
富山県ではしばしば「門杉」の名を耳にするが、その名が秋田県でも使われることは知らなかった。(私が住む新潟県ではまったく耳にしない) 門杉というからには、一対のスギのはずである。案内板には、もう1本の方は江戸時代中期の大洪水で流失したとある。
事実だとすれば、現在の参道のスギは、その後に植えられたものと考えられる。このスギだけが杉並木の列から少しだけはずれていることも頷ける。
訪れたのは8月初旬。西日本では猛暑だったようだが、鹿角市は雨模様。まだ本格的な夏の暑さの前である。ちょっと季節は合わないが、浅井小魚の「秋立つや大樹の梢おのずから」の句碑が大杉の偉容を讃えていた。
県天然記念物であり、これだけの大杉でありながら、環境庁調査から洩れてしまったのが不思議である。


2、200年の門杉


名称 大円寺門杉 (だいえんじもんすぎ)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 スギ
樹高 42m(注2)
目通り幹囲 9m(注2)
推定樹齢 2000年(注2)
所在地の地名 秋田県鹿角市十和田大湯字大湯
〃 3次メッシュコード 6040-36-46
〃 緯度・経度 北緯40度17分26秒
東経140度49分54秒
秋田県指定天然記念物(1955年1月24日指定)
撮影年月日 2007年8月7日

注1)大杉を所有する大円寺が設置
注2)上記案内板による





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(まとめ)
・あちこちの文献を見ていくと、大円寺の名前がよくでてきます。
・大円寺の場所が重要な位置を占めているようでもあります。

・個人的にも、近年、妻の方の実家で菩提寺となっていただきました。
・巡堂工房としても、大悲寺の本堂の大きな看板を寄贈させていただきました。「円如大虚」ですから、大悲寺に最もふさわしい看板でした。

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01209■縄文北極星(ペンタさん)



古代ペンタクロス文化さんからです。

縄文北極星「天帝」のお話
         
★こぐま座β星「天帝」が極点離角4.5度内に落ち着くBC1700年頃に、中国では「」が興ります。そして4.5度外に去るBC300年頃は「戦国時代」の真っ最中、そして「秦・始皇帝」の登場です。またβに変わりαがこの4.5度に入り込む7世紀には「大唐」が興ります。不思議ですね。

★このの直前、に使者を送った「天多利思北孤アメノタリシホコ」(聖徳太子?
)は、「以天為兄、以日為弟」の後に「私は夜だけ仕事をして、昼間は弟に委ねる」()としています。名前からしても北極星ですね。

縄文北極星と北緯









★最後に「大国主命」。縄文晩期の日本海沿岸を制したとされていますが、縄文遺物は遠くロシア・沿海州にまで帆を運んだことを物語っています。(日本海交流

★さて日本海沿岸航海では明るい時間に岸を見ながら進めば良いのですが、ロシアへの北渡海となると「夜間航海術」も要求されます。ここでの船位置確認は「」しかありません。しかもここは北上なので「緯度確認」が重要です。をご覧ください。北極星は「緯度表示星」でもあります。船が揺れても水平線上の星との関係を把握していればOK、北を目指してあとどの程度進めばよいのかが解ります。

縄文北極星は、大国主命にとって「繁栄を導く
」だったことでしょう。☆出雲大社は(多分)これを拝します。


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(まとめ)

・大国主命はスサノオの子で出雲の神様ですね。その大国主命はのちに津軽の岩木山に追放されるのです。津軽において素晴らしい国づくりをして、また復権しています。だから日本海交流はお手のもの・・・。
岩木山神社は顕国魂命(うつしくにたまのみこと)=大国主命=オオナムチが岩木山に降臨したとなっている。これが上記のことです。降臨とは空から降ってくるのではなく、お国替えとなったことです。
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2009年7月16日木曜日

01208■大湯温泉が塩の源(ペンタさん)



大湯村生活圏









































★主な縄文集落の分布を見ると、その地理特徴からおよそ次の二つに別けられます。
①「縄文海岸線」に沿った入江地域
②「火山・温泉地帯」の山麓地域
★中でも際立った「文明」を徴した所で前者では石川・真脇遺跡青森・三内丸山遺跡、後者では長野・尖石遺跡当ブログ紹介秋田・大湯遺跡があげられます。
★さて人間が生きてゆくために欠かせないのが水と塩です。日本
列島では、水については至る所で入手できますが、問題は塩。この点①縄文沿岸
部での縄文文明は当然のこととして受け止められますが、やはり問題は②山岳地帯。「山の民」はどのようにして「塩」を入手したのでしょうか。





★「内陸の塩」といえば「岩塩」ですが、
日本列島では雨量が多いためか岩塩はないそうです。そこで摂取対象として考えられるのが動物血液ですが、海水の塩分濃度が3%強に対して陸上動物のそれは1%程。常時摂取対象としては無理があります。

★ここでもう一度「大湯村」の構造を観察してみましょう(ⅠⅡ図参照)。大湯村は十和田湖外輪山の南麓にある名前どおりの温泉地帯です。源泉は万座から黒又山(クロマンタ)を挟んでちょうど反対側にあり、村の隠し湯のようです。両地帯をつなぐのは大湯川。万座の川岸には「集宮」という、神様が集まったとされるところがあります。そしてこの温泉は「食塩泉(ナトリウム塩化物泉)です(岩塩が雨で溶けたものか?)。


★さてこの日本列島にはこの食塩泉が最も多く分布しており、中には海水の3倍もの塩分を含む温泉(月山)もあるそうで、「塩」の文字を使った温泉地も多々見受けられます(鹿塩、塩原、塩沢などなど)。


★推理です。縄文人はこの食塩泉を製塩原料として活用したのでは。海水を超える濃度なら沿岸部よりはるかに効率的な製塩が可能です(中には析出塩の直接利用もあったかも)。このように縄文の火山麓地帯では、豊富な食料・森林・鉱産資源や良水に加えて「濃塩水」が確保できます。ここに「縄文文明都市」ともいうべき集落が出現しても決しておかしくはありません。縄文土器の夥しい出土がそれを物語っています(単に食物の煮炊きだけではないでしょう)。※注口土器は「濃塩スープ」用か?※湧き出す熱水から塩が析出される状況の観察で、「製塩」のヒントが得られるでしょう。

★大湯に戻ります。今までの分析からは「非常に高度な生活文化」を持っていたようです(※当ブログ「縄文時代」参照)。この大湯を支えたが、クロマンタの背後に隠された一大製塩地だったのでは。「塩」は温泉入口の「大円寺」(二千年杉で有名)付近から大湯川を使って集宮まで運ばれ、ここが縄文・鹿角の中心地として栄えたのでは。
大湯遺跡は「世界文化研究遺産」として早急に保護すべきです

★「火山地帯と縄文」といえばもうひとつ「黒曜石」があります。この石は「天然のナイフ」ともいうべき利器で、この時代の交易品として列島全体に流通していました(有名な所では和田峠(※尖石遺跡)や神津島)。これが日本最高級の強食塩泉を誇る月山にも見られます。「塩鉄論」ではありませんが、「塩と黒曜石」が入手できればまさに「鬼に金棒」。縄文都市形成の原動力になったのでは。
※月山などは温泉水を使った製塩で「縄文塩」として売り出してみては?



■大湯温泉の成分
 ・温泉の歴史 上の湯(1658) 下の湯(1469) 川原の湯(1624)
 ・成分 食塩泉 59度C  PH7.9



 「塩化物泉」の特徴

海水の成分に似た食塩を含み、塩辛く無色透明の湯です。
以前は塩化物泉が日本で一番多い泉質だったのですが、掘削技術の進んだ現在は次々と温泉が誕生し、単純温泉が一番多い泉質となってしまいました。


塩化物泉は高齢者向きでよくあたたまります。
入浴することにより、皮膚に塩分が付着し、汗の蒸発を防ぐため、保温効果がよく、湯冷めしにくい事から「熱の湯」といわれるのです。
神経痛、慢性リューマチ、冷え症等の症状に効果があるます。
また、飲用することにより、胃腸の消化液分泌及び運動を促進し、胃腸病や慢性便秘にも効果があります。
ただし、食塩制限のある疾患、高血圧、心臓病、腎臓病、浮腫(ふしゅ)のある時等は控えた方が良いでしょう。


 「塩化物泉」の特徴を一言でいうと

「温まりの湯」(湯冷めしにくい)
「傷の湯」(塩分の殺菌効果)

 「塩化物泉」の浴用の効能

血液の循環を促進させ殺菌力が強くて痛みをやわらげる鎮静効果があります。
切り傷、火傷、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病、消化器、便秘、筋・関節痛、打撲、捻挫、冷え性、月経障害、不妊症、病後回復などに効能があります。


 「塩化物泉」の飲用の効能

胃液の分泌を促すので、胃酸欠乏症、慢性消化器病、慢性便秘、慢性胃カタルなどに効果があります。



 「塩化物泉」の禁忌症

飲用禁忌→循環器疾患(ナトリウムが体内に水分の貯留をきたすため)高血圧症、腎臓病、心臓病、むくみのあるときは、飲泉は控えましょう。

 「塩化物泉」の注意事項

アレルギー体質で皮膚の弱い人、虚弱体質で皮膚の抵抗力の衰えている人は、湯ただれを起こすことがあるので、高温浴や長時間湯船に浸かることを避けましょう。
また、強食塩泉の場合、湯あたりの恐れがあります。
さらに、強食塩泉の飲用は害になるので避けるか、薄めて飲みましょう。


 泉質別効能早見表

泉質別効能早見表

 泉質・効能別全国温泉地リンク集

泉質・効能別全国温泉地リンク集


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まとめ)
・いつもすごい刺激を与えてくださいます。感謝申し上げます。
・図ー2はすごいですね。
・内陸の塩の源が大湯温泉だった。
・こにも「大円寺」がでてきます。大円寺さんとは大きなご縁ができました(檀家となったこと、本堂の看板を寄贈したこと)。
・クロマンタ探求にこの大円寺がキーポイントの一つとんる予感がします。

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