2011年2月13日日曜日

■「錦木塚」は「神のつぶて」か!

「壺の碑」第一段階「いしぶみ」は「つぶて」でした。もう一歩進んだら錦木塚までたどりつきました。


1、荒俣宏の「歌枕」謎ときの旅による碑の変遷
俣宏さんの本から「壺の碑」の変遷をまとめました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

①「いしふみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。
②和歌の時代:石文は「想いを相手に伝える」手段
新古今集:いしふみは「石碑」。歌枕「壺の碑」慈円が      
④西行は恋文から「蝦夷地の奥」という歌枕に。
⑤京で日本の境にあり「日本中央と奇妙な遺蹟」
⑥水戸光圀が大日本史編纂で碑の発掘を決心
⑦多賀城で発見された碑を光圀が「碑と認定した」
⑧昭和24年、南部で「日本中央」碑が発見された。

2、「石のつぶて」は「神のつぶて石」とも
地元の資料によれば「神のつぶて石」とも言われた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【美の国秋田ネット】秋田県鹿角地域振興局HP


神様たちは、八郎太郎を追い出すことに決め、石ころを投げて八郎太郎と争った。今でも、毛馬内の陣場のあたりには大きな石や小さな石が多くあり、これらの石は、「神のつぶて石(神様の投げた石)と言われ、八郎太郎を追い出すために神様たちが投げた石と伝えら
ている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

























人間なら上図のような小粒の石しか投げれませんが、タジカラの神やサルタヒコなどの怪力の神様たちなら下のような巨石も投げれたかもしれませんね!!







3、各地の「つぶて石」は大きい
山形の「つぶて石」です。

人が投げる大きさではないですね! 「神のつぶて」となれば理解できます!!





















4、通信手段としてのつぶて
歌枕の変遷の

①「いしふみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。
②和歌の時代:石文は「想いを相手に伝える」手段
「石つぶて」なら辞書のとおり、飛礫として使う、更には合図として使うことまでは理解できます。
「神のつぶて」なら、縄文時代は精神文化の時代です、目に見える文字を書いていなくても、神が何かを伝えたいためなのかもしれません。

5、「神のつぶて石」は昔はたくさん見られた
鹿角の「神のつぶて」の眼疾ははこちらと同質です。
このような巨石は、筆者が鹿角に転勤となった昭和44年頃には、集宮の辺りにたくさんありました。
田の耕地整理で今は道路沿いでは見られなくなりました・・・でもまだあるようです。


















6、錦木塚はもしかして・・・
突如ひらめきました!!
大きさからして、またどうしてこんなところに・・・
これは「神のつぶて」ではないでしょうか。
そうすればいろいろつながってきます・・・・













7、エリア配置図
今も残っている毛馬内や陣馬と言うのは錦木塚のすぐ隣です。








・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
8、「石文(いしぶみ)」
石文は想いを相手に伝える手段とあります。
神々の想いを伝える手段とすれば、「神のつぶて石」はすべて「石文」となります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



■「八郎太郎伝説」動画文庫完成

動画で紙芝居、こざくらの丘動画文庫として「八郎太郎伝説」をYouTubeへアップしました。

1、八郎太郎


















2、南祖坊



















動画はこちらからどうぞ!!






石井巡堂はこの「こざくらの丘動画文庫」で新しい境地を開拓できました!!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2011年2月10日木曜日

■壺の碑(いしぶみ)は「つぶて」

壺の碑・・・多賀城か日本中央碑かだけでは解決しません。八郎太郎伝説を調べていたら「石のつぶて」にたどりつきました。

1、荒俣宏の「歌枕」謎ときの旅による碑の変遷
荒俣宏さんの本から「壺の碑」の変遷をまとめました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

①「いしふみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。
②和歌の時代:石文は「想いを相手に伝える」手段
新古今集:いしふみは「石碑」。歌枕「壺の碑」慈円が      
④西行は恋文から「蝦夷地の奥」という歌枕に。
⑤京で日本の境にあり「日本中央と奇妙な遺蹟」
⑥水戸光圀が大日本史編纂で碑の発掘を決心
⑦多賀城で発見された碑を光圀が「碑と認定した」
⑧昭和24年、南部で「日本中央」碑が発見された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・「いしぶみ」の最初は「つぶて」だったのです!!

2、「つぶて」とは何か
上記①によれば「いしぶみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。











つぶてとは - 漢字表記は「」または「飛礫」。 投げつける小石。また、投げつける小さなもの。 「



3、全国各地に「つぶて石」が



山形県











石の大きさは3mはあるだろうか。結構大きい。
河床がむき出しになった、比較的岸に近いところ
にあって歩いてそばまでいける。
付近に遊歩道が整備されていて、河床の奇岩を見て
歩けるようになっていた。

以下 石碑に書かれていた由来です。

鎌倉時代初期の物語。勇壮無比の坂東武朝比奈三郎義秀
が、朝日岳の頂上から左手で投げた石が山々を軽々と
越えてこの川原に落ちた。
大きい手形はその時のものだという。
余りにも飛ばないので右手で投げたら白鷹山を越えて
山形市の礫石(つぶていし)まで飛んだという。

だそうです。

山形市の礫石がどこにあるか知りませんが
天童市のジャガラモガラに行く入り口近くの道路の
路肩に礫石と書いた看板と石があります。
大きさは1m無いくらい。

4、鹿角にも「石のつぶて」がありました
こざくらの丘動画文庫「八郎太郎伝説」の一コマです。
「八郎太郎が十和田湖を追われ、鹿角の男神・女神のところを堰き止めて湖を作ろうとしたとき、鹿角の四十二人の神々は集宮に集まって評議した。「石のつぶて」を使って八郎太郎にぶつけ瑠事の決めた・・・・」
「石のつぶて」をまたの名として「神のつぶて」とも言ったとあります。
筆者も昭和42年に鹿角に転勤となり、毎日この集宮地区を通っていました、図のような巨石がたくさんありました。田の耕地整理が行われて無くなりましたが。




















「いしぶみ」の最初の「つぶて」までたどりつきました。これからまた本当の「いしぶみ」とはなにかさらに探訪して楽しみます!!ご期待ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2011年2月1日火曜日

■胡桃館遺蹟

胡桃館遺跡」37年目の大発見
~当時出土した木簡の解読に成功、人名の記録が明らかに~
このほど、文化遺産の総合的な研究を行っている独立行政法人奈良文化財研究所の調査・研究によって、鷹巣町の胡桃館遺跡(平安時代中期の古代家屋遺跡)の遺物から、貴重な発見がありました。
発掘が行われた37年前に出土した木簡の文字の解読に成功し、人物などの記録が明らかになったのです。その内容を、同研究所の研究員と、町の担当者の説明でご紹介いたします。
▲木簡の表面
出土直後ともいうべき1968年頃に撮影されたガラス乾板が残されており、今回の木簡解読のきっかけとなった 
▲木簡の裏面
表面と上下逆向きに文字が記されている
▲解読できた部分(表面-赤外線デジタル写真)
帳簿の書き出しにあたる部分で、赤外線デジタル写真には文字が鮮明に写っている


胡桃館遺跡発掘当時のようす(昭和40年代)
■胡桃館遺跡とは?
胡桃館遺跡は、現在の鷹巣中学校のグランド整備中に発見された、今から千年前(平安時代)の遺跡です。1967年から3年間にわたり秋田県教育委員会と鷹巣町教育委員会によって発掘が行われました。当時の発見を憶えている方も多いと思いますが、平安時代の建物がそのままの形で出土したことで有名になりました。(→出土遺物の一部 →復元模型

■なぜ残ったのか?
普通、建物の柱や板などの木材は地中に埋まっていると腐ってしまいます。なぜ当時の建物が残っているのでしょうか?その理由は十和田火山の噴火にあります。現在の十和田湖は約千年前(一説によると915年)に噴火しました。その噴火の規模は有史以来の日本最大級のものと言われています。

鷹巣には火山灰はあまり降らなかったようですが、米代川を大量の土石流(シラス洪水)が流れ、流域の村々を飲み込んでしまいました。火山灰を含んだ土に埋もれたことで腐らずに残ったようです。よっぽど被害が大きかったのか、その様子は「八郎太郎伝説」として現在まで語り継がれています。
■どんな人が住んでいたのでしょう
平安時代、この地域の人々は『蝦夷(えみし)』と呼ばれていて、天皇の支配が及んでいない土地でした。そのような地域に、胡桃館のような高度な建築技術で建物がみつかったり、遺跡からは「寺」と読める文字を書いた土器や、お経を読んだという記録の落書きがみつかっています。ということからもこの地域を治めるような人物が住んでいたのではないでしょうか。

(鷹巣町教育委員会生涯学習振興課主事 榎本剛治)

以下は、広報たかのす3月1日号に掲載させていただいた、奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部・山本崇研究員の寄稿です。
●よみがえった文字
1967年に胡桃館遺跡から出土した木筒について、2004年、あらためて解読を試みた結果、出土から37年をへだてて文字を読み取ることに成功しました。

なぜ今になって解読できたのか、その理由は大きく分けて二つあります。一つは、木簡の解読に用いる機器が進歩したことです。墨は赤外線を吸収する性質をもつため、木簡の解読には、赤外線テレビカメラ装置や、赤外線デジタル撮影が有効です。
これらの機器を駆使することで、当時は読み取れなかった文字を解読することができました。もう一つの、より根本的な理由は、比較検討するための類例が格段に増えたことです。木簡が出土した1960年代末の段階には、全国出土の古代木簡は、2万2千点余りで、胡桃館木簡のような特異な形状のものはほとんど知られていませんでした。
現在、全国出土木簡の総数は32万点以上、古代木簡だけでも23万点を超えています。出土数が増えるにつれ、文書や荷札に限られない、豊かな木簡利用の実態が明らかにされています。今回の木簡解読は、数十年に及ぶ調査研究の蓄積に支えられているのです。
●木簡が語ること
今同解読できた木簡は、一辺約22㎝のほぼ正方形の板材で、四隅に孔があります。この孔は釘孔のようで、木簡が建物のどこかに打ちつけられていたと推測されます。胡桃館木簡には、表裏両面に文字が書かれています。表面には、一行に13文字以上、少なくとも6行以上の文字が残っており、裏面には表とは上下逆さに3行分、文字が記されています。

ただ、裏面の文字は墨が薄れてしまい、現状ではほとんど読み取ることができません。表面1行目は、「月料給出物名張」と読めそうです。「張」は「帳」の意味で用いられますから、この木簡は、ある月に支給した物の名を記した帳簿と考えられます。2行目の下部には「玉作麻呂/米一升」の文字もみえます。他に「玉作」「建マ(部)」と読める可能性のある人名、「米三合」「五合」などの品目と数量がみえ、表面には、人名+「米」+支給した米の量を列記しているようです。
同じ頃の出羽国に、「玉作宇奈麻呂」や「玉作正月麻呂」という人物が活動していたことは、文献資料から知られていました。「玉作」姓の人が、木簡という、古代の生の史料からも確認されたことで、今後、新たな事実が浮かび上がる可能性を秘めています。まだすべての文字が解読できた訳ではなく、詳しい内容は今後の調査にまたねばなりません。
もちろん、胡桃館遺跡で注目される遺物は文字資料だけではなく、出土した建築部材は、古代の建物を考える際の良好な資料群といえます。これらの資料の総合的な検討により、遺跡の性格が明らかにされていくと期待されます。なお、この木簡の詳しい内容は、今月刊行れる『秋田県埋蔵文化財センター研究紀要』第19号に紹介しています。興味をもたれた方は、図書館などで是非ご覧下さい。
●鷹巣の宝として
木簡は、千年以上もの間、地中の豊富な地下水に守られてきました。そのため、見た目は丈夫でも実際には非常にもろく、空気中に放置すると、急速に乾燥して壊れてしまう恐れすらあります。現在、乾燥を防ぐために、防腐剤を含む水に浸した状態で保管しています。

しかし、木簡を水漬け状態で保管することは難しく、孫や曾孫の代まで伝えていくためには、保存処理を行なう必要があります。胡桃館木簡は、近々保存処理の作業に入る予定です。処理を終えた木簡は、生木に近い色調に仕上がります。現在黒ずんでいて読みとれない文字の解読にも、期待がもたれます。さほど遠くない将来、処理を終え、より解読の進んだ木簡を、北秋田市民となられている鷹巣町の皆様に、お披露目することができるでしょう。
胡桃館木簡は、鷹巣の古代史を今に伝える生き証人であり、学術的にも極めて高い価値を持つ、貴重な文化財といえます。今回解読できた木簡が、周辺に今なお埋没していると推測される遺跡とともに、町の「宝」として長く保存され、活用されることを願っています。

(奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部研究員・山本崇)