2011年11月17日木曜日

■「積もる木の葉」の下は縄文文化

二宮尊徳翁の歌に「古道に積もる木の葉をかきわけ・・・」があります



1、落ち葉の山道
昨年と同じ日に同じアングルで撮って、同じことを書いていますから余り進歩がないようですが!!
ちょっと違うのが、蝦夷感が180度とは言いませんが、90度変わったことです。
蝦夷は我々の先祖のことと思っていました。だからアテルイはわれわれの輝く星と思っていました。
ところが・・・・
この落ち葉はかなりのものです!

2、二宮尊徳翁の歌
「古道に積もる木の葉をかきわけて 天照らす神の 足跡を見ん」
「古道」とは日本固有の大道をいうんだ(縄文文化)。「積もる木の葉」とは儒教、仏教、科学などなどの事ですね。日本固有の大道を見るには、木の葉のような書物をかき分けかき分け探さないといかんのだよ。お前たちが落ち積もった木の葉に目を奪われるのは大きな間違いだ。」
・・・・でも一般には理解できないでしょうね、外国では、ヨーロッパでは、アメリカではこうなっている。というのが日本の姿でしたから。でもこれからは再び日本の原点を見直さないと生きていけませんよ!!


3、「蝦夷」という木の葉
①わらび座の「アテルイ」は東北人の魂の北極星とうたっている。
 我々東北人の先祖が蝦夷であって、誇りにかけてそれを守った。われわれの英雄である!!
坂上田村麻呂は朝廷からわれわれの先祖である蝦夷を征伐に来た・・・よくあるストーリーの悪代官である。私もわらび座のミュージカルを二回も見て、ついこの間まで「そうだよなあ!」と思っていました。
田村麻呂伝説といって、田村麻呂が行ってもいない秋田、山形、青森にも伝説がいっぱい残っているのは、朝廷が東北を治めるために、歌枕などとともに広めたものであるという、荒俣宏の説が正しいと思っていました。
 

②もう一方は「アテルイ=悪路王=鬼」と捉えている。
アテルイが悪路王、モレが赤頭、更には大嶽丸(大竹丸など)が坂上田村麻呂将軍と戦った。
ところが歴史学者・白柳秀湖説をみると
(鬼とは「粛慎」「渤海」「韃靼」「蝦夷」などは同じ、まとめて「大韃靼人」が北東北を征服したという説)
日本書紀に記されている
「蝦夷」「粛慎」「靺鞨」「女眞」「刀夷」「蒙古」後の「満州」は皆違うのか・・・
白柳秀湖は「それは単一民族ではないが、血統、地縁、人種その他の要因によって
「大韃靼人」として包括される

4、糸のほつれがとれた
①阿倍比羅夫が田村麻呂の150年も前に、なぜに180艘もの船団を引き連れて秋田、能代にまで来たのか、征伐対象の粛慎(みしはせ)とは何者か・・・なんで突然・・・誰も分かりません。

②坂上田村麻呂が秋田まで追いかけてきて寺内(高清水)で征伐した、蝦夷の大嶽丸とは何者か
田村麻呂伝説は伝説だけで、本当に秋田に来ていないのか。それにしては我が寺内(高清水)には伝説に係わる地名がたくさん残っているのは・・どぷしてか。

③秋田城へ「渤海」から使節団が何度も訪れている、何故この辺鄙な秋田が外交の拠点とならなければならなかったのか。大きな外壁を備えた、立派な城を築き、迎賓館まで用意したその「渤海」とは何者なのか。

これがみんな「大韃靼人」(タタール)でくくられれば、すべてほぐれた糸が解けました。

落ち葉の頃になると、古道に積もった木の葉をかきわけたくなります。少しは縄文文化が見えてきたでしょうか。



阿倍比羅夫将軍




2011年11月15日火曜日

■なぜ南部は馬産地か


一戸二戸・・・みな馬の産地、なぜ南部は馬の産地なのか?



1、日本の馬はどこから来たか
【引用】
http://www.jtng.com/thrc/p70nanbu/p70-08.html


史以前の日本には「原種」と言えるような馬はいなかったと言われていますその根拠は、3世紀に中国で書かれた『魏志倭人伝』によります。すなわち
「この国に牛馬、虎豹、羊鵲なし」


という一節です。これは魏(いわば当時の中国政府)から派遣された文官による日本視察レポートで、「牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギといった中国ではポピュラーな動物が、日本には棲息していない」という報告をしています。では和種馬はどこから来たのでしょう?

いくつかの説がありますが、ここでは江上波夫氏の学説を紹介します。氏は戦後『騎馬民族による日本統一』説を唱えました。それを土台に、4世紀の初めに朝鮮半島を経由して日本に上陸したツングース民族がもたらした馬が始祖であろうと言われています。いわゆるモンゴル馬です

っとも『魏志倭人伝』そのものが邪馬台国論争のタネになっているように、その記述にはあやふやな点が多々あります。また、そこに記述された倭(日本)は、近畿以南の地域を指しています。ですから東北や北海道には、西日本とは違う系統の馬がいたということも考えられます。
いずれにせよ、和種馬はどれも体型や体高が似ていて、モンゴル馬ともきわめて近い外形をしています。伝播と時代の違いはあったにしても、元をただせば同じアジア産であることは間違いないでしょう。

は南部馬の祖先はどこまで辿ることができるのでしょう。
枕歌に有名な「末の松山」は現在の岩手県二戸市にあって、そこでは先住民の遺跡が見つかっています。その中には、魚の骨や貝殻に混じって馬蹄の化石や、食料にしたと思われる馬の骨も出土しています。
わが国で馬が家畜として扱われるようになったのは5~6世紀と考えられます。二戸の古墳は、東北地方の山野には南部馬の祖先ともいうべき馬が、狩りの獲物として古代から存在していたことを物語っています。

具の出土品は8世紀から見られます。その時代に作られたと考えられる鹿島沢古墳群(主理研八戸市)で、金銅製の杏葉(馬の装身具)や馬具の一部と思われる金具などが見つかっています。埋葬されたのは、おそらく土地の有力者だったことでしょう。副葬品の馬具がこの地方で実際に使用されていたものかどうかは不明です。馬の飼育や利用方法についても判っていません。






2、南部馬

牧馬地方の春の歌

 現在も岩手県は北海道に次いで全国二位の馬産地ですが、この地域は伝統的に中世の頃から、良質の「南部馬」の産地として知られていました。
 このあたりで馬を飼う農家の人々が、まるで家族のようにその馬を大事にする姿勢は、人と馬が一つ屋根の下で暮らす「南部曲がり家」という家の造りにも表れています。また、信仰や芸能としての「チャグチャグ馬コ」や「南部駒踊り」などの存在も、この地方の人々の生活において、いかに馬というものの存在が大きいかということの証だろうと思います。
 このような旧南部藩領地の北上山地の高原こそ、まさに日本における「牧馬地方」と呼ぶにふさわしい地域と言えるでしょう。
 そして岩手に生まれ育った賢治が無類の「馬好き」になったのも、このような背景からして自然なことと思われます。
 1924年4月19日、農学校の仕事を終えた賢治は、盛岡から外山高原を目ざして、夜を徹して歩きました。この間の状況は、『春と修羅 第二集』の中の一群の作品に記録されています(「外山詩群」参照)。
 そして4月20日の朝に外山に着いた賢治は、近隣の村から農家の人々に引かれて次々と集まってくる、何百頭という馬を目にしました。実はこの日、外山にある「岩手県種畜場」で、「種馬検査」が実施されることになっており、賢治が苦労してここまでやってきた目的も、まさにこれを見るためだったのです。




3、こんな縄文まで遡るのもあります

http://ameblo.jp/jyoumon-no-uma/entry-10290469955.html
謎のパンツルック土偶 
青森県「合掌土偶」のパンツ姿のナゾ

国宝指定を受けた風張1遺跡「合掌土偶」が注目を集めています、 でも“安産を祈る姿”とだけ説明されていて、このまま定着しそうな気配で心配です。

でも、ちょっと待ってください。このパンツ姿は明らかに乗馬衣装でしょう・・しかも女性です。

亀ヶ岡遺跡の遮光土偶「シャコちゃん」も、函館市著保内野遺跡の「中空土偶」もパンツ姿の乗馬スタイルです。

東北の各地の遺跡からパンツ姿の土偶が数々出土していますが、すべて女性ということも、なんとなくイロっぽく、誰かに、助けを求めているようにみえませんか??

このパンツ姿の素敵な女性たちを、歴史学上見逃すわけにはいきません。当時の生活、習慣などを検証してみる価値はあります。

現代人も乗馬人口の8割は女性ということですので、縄文の女性も乗馬の趣味があったとしてもおかしくないですが、縄文の女性たちが、なぜ、ここまで乗馬に凝ったのでしょうか。暮らしが豊かであったように見えます。
 
 

古代のパンツルックは騎馬民族 

 パンツルックは歴史学的、考古学的にみても、騎馬民族ということが定説です。ウクライナ、アラブ、スキタイ、モンゴルなど大陸の古代騎馬民族の騎兵はパンツ、歩兵はスカートです。

「合掌土偶」の衣装は皮の服    衣装に注目しましょう 布に刺繍したデザインという見方が一般的です。はたして、そうでしょうか?これは明らかに皮を加工した衣装です。このような皮衣装でなければ、年間をっ通じて厳しい北国での生活はムリです。特に、バックスキン(毛皮を裏返し使用)です。デザインを意識した高度なテクニックが活かされています。ここまでの技術を得るまでに、どの位の年月を経たか、とても興味がわきます。

 肩と膝、腕のパットは何を意味しているのでしょう、現在の乗馬の安全防具と見間違うほどよくできています。全体のデザイン、カッテングは皮加工しか考えられません。

しかも、実用服ならもう少しアッサリとしたデザインでもよさそうですが、細やかなところまで手がはいっているのは工芸分野で高度な技術が高まっていたのです。趣味であればあるほど、当時の豊かさが感じられます。

大陸騎馬民族の実用的なパンツルックより、むしろ蝦夷のパンツルックデザインの方が遥かに芸術的です。それよりも、騎馬文化においても蝦夷の騎馬文化の方が大陸より早かったかもしれません。

風張1遺跡から同時に発掘された、漆で仕上げられた弓矢の遺跡は、縄文の騎馬人がいたことの証明を、さらに強力に裏づけてくれます。この新しい説が本物になれば蝦夷の縄文文化でメシが食えるウマ学者、考古学者が出てくるかもしれません。(漆文化の起源でも)

さて、東北各地からこんな勇壮なパンツ姿の女性土偶がぞくぞくと出土していますので、このまま見逃すことはできません。馬がいたからこそこのような素晴しい文化が生まれたのです。何としても、ここは「縄文の馬」の存在を考古学的な見地から立証してあげなければなりません。

そこで、“北のまほろば”が世界遺産登録にむけて、さらに前進するためにも、蝦夷の「縄文の馬」文化を裏付ける作業開始の宣言をしなければならなかったワケです。ご理解いただけますか。




■田道・比羅夫・田村麻呂将軍のつながり

秋田には田道・比羅夫・田村麻呂の三将軍が来ています。なぜ来たのかわかりません?



1、三将軍の足跡

①田道将軍
仁徳天皇55(331年) : 蝦夷の反乱、上毛野田道が派遣されるが伊峙水門で敗死(伝説)・・・・・・・・・・・・・・・・鹿角市


















②阿部比羅夫
明天皇4658年) : 阿倍比羅夫が遠征
明天皇6年(660年) : 阿倍比羅夫は、粛慎に攻められた渡島の蝦夷を助ける・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋田市,能代市












③坂上田村麻呂
天平 5年(733年) : 秋田城(出羽柵を移動)設置
延暦13年(794年) : 征夷副将軍坂上田村麻呂による蝦夷征伐
延暦16797年) : 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任官。
延暦20年(801年) : 坂上田村麻呂、閉伊村まで平定。
延暦21年(802年) : アテルイ、モレら降伏、処刑
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋田市他?























2、役目は何だったのか、全く分からない

阿倍比羅夫将軍の粛慎征伐が天から降り、地から湧いて出たことのように皆目見当がつかない。
下記の引用が普通のみ方でしょう!!

【引用】
東北遠征の理由
阿部比羅夫の大群はそのための陸奥遠征だった。
その当時、大和朝廷の勢力は越の国(こしのくに)、現在の新潟県・山形県まで及んでいた。
新潟を出発して山形沖を通り、秋田沖へと到着した、ということらしい。
彼が寄ったのは秋田だけではなく、青森の沿岸線をぐるり辿って戻ったようである。
水軍の演習も兼ねた、長期征夷遠征というのが彼らの目的だったと推測される。
だが実際はさしたる戦闘もなく、各地の長から盛大なもてなしを受けて楽しんで帰ったようだ。


(演習で180艘もの軍団を出せる日本だったのでしょうか??)


3、三将軍の接点は何か

・上毛野田道将軍は蝦夷征伐

・阿倍比羅夫将軍は粛慎征伐

・坂上田村麻呂は大韃靼人(蝦夷)討平


従って、蝦夷、粛慎、大韃靼人が同じなのか、違うのか!!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本書紀に記されている
「蝦夷」「粛慎」「靺鞨」「女眞」「刀夷」「蒙古」後の「満州」は皆違うのか・・・

白柳秀湖は「それは単一民族ではないが、血統、地縁、人種その他の要因によって
「大韃靼人」として包括される
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・











・このようにみな同じく「大韃靼人」でくくれることになれば、田道将軍も比羅夫将軍も、田村麻呂将軍もみな同じ敵(大韃靼人)と戦って、日本、特に東北を救ってくれた神将であることになります。

4、これで糸のもつれがほぐれた

これが解らなかったので、古代日本国を悩ませた東北の蝦夷を、アイヌとばかり思い込んでいたので、田道将軍から阿倍比羅夫、坂上田村麻呂まで、其の戦役の実態がまるで見当がつかなかったが、これで糸のもつれがほぐれたように明らかになった。











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 田道将軍と田村麻呂の関係
【引用
津軽 猿賀神社
坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐で苦戦に陥った時、田道の神霊が現れ大勝に導いたので、此の地に祠を造って祀った。それを桓武天皇の奏上し、勅許により、大同二年(807年)奥州猿賀深砂(しんしゃ=神蛇)大権現として勧請した。



■やはり田村麻呂将軍は東北の「神」であった!

われわれの先祖と思っている蝦夷が、そうではなく大韃靼人であったという話



【引用】(太田龍『縄文日本文明1万5千年史序論』より)出典は白柳秀湖説

1、阿倍比羅夫将軍と「蝦夷」
従来の日本の歴史は、幸徳・斉明両朝の革新政府を悩ました東北のいわゆる蝦夷なるものを、アイヌとばかり思惟してきた為に、阿部比羅夫将軍の粛慎征伐が天から降り、地から湧いて出たことのように皆目見当がつかなかったのだ。

阿倍比羅夫将軍








2、なぜ蝦夷が騎馬戦術に長けているのか
アテルイが率いるいわゆる蝦夷が、縄文原住民の生き残りだとすると、なぜ、その蝦夷が騎馬戦闘に熟達しているのか、全く説明できない。

これに対して、ドイツ生まれケンフェル(ケンペル)の「日本志」では
・日本の二つの害難
 ①桓武天皇の時の大韃靼人の侵入・・・これが東北へ
 ②後宇多天皇の時における同じく大韃靼人(蒙古人)の襲来・・・これは九州‥教科書に載る


「日本の地は自然と堅固にして、今に至るまで、外寇の恐るべきもの、極めて少なし。稀には犯し、襲うこともありといえども、未だ寡って、敵に利ありしことなし。およそ勇猛無敵の国民は未だ寡って他人の命令聴くことなし。


一千年前なる桓武の御宇に当たって、大韃靼のその地広大なるより、大軍を挙げて、しきりに日本の浦に打ち寄せたり。攻撃火急にして、敵軍は早くも陸地を取りて、基地としける程に、日本人もこれを退落することははなはだ難なりけり。その故は、毎々に挑戦して、しばしば敗戦して、その勢大に衰滅せしかども、韃靼より日を追って、新軍を送り備って、勢いを助ける程に、ついに、一五〇年の久しきに堪えて、猶も日本の地に居て動かざりけり。

しかるに、七九九年(延暦18年)国の守護神(田村麻呂)の威力冥助と、日本軍兵の鋭き多勢力と一斉に起張して、ついに彼らを抜き滅ぼしけり。」

つまり
孝徳天皇、斉明天皇の御代から桓武天皇の御代まで約150年、大韃靼人は大軍を日本(奥羽東北地方)に送り、打ち破られてもまた新手の軍勢を増派してくる。彼らは日本(奥羽)に確固たる武力による支配権を打ち立ててしまう。


3、やはり田村麻呂将軍は東北の「神」であった

「しかるに当の日本では、ちょうどこの時代のことを記録した国史『日本後紀』の一部が湮滅して伝わらぬ為、田村麻呂将軍の英邁を以ってして、わずかに打ち勝つことが出来た大韃靼人の奥羽地方における動静及び官軍との戦況を、詳しく知ることが出来ない。だから当の日本の歴史には、坂上田村麻呂の東征ということが、一面著しく魯鈍で、お人好しでありながら、多面その固有の血統と文化に対する矜持のいたずらに高いために、千年一日の如く進歩なく、発展なき発展なきちっ粛たる生活を送ってきたアイヌの気まぐれな反逆かなどのように、軽く取り扱われている。」






















4,東北の隠された歴史


①日本の原住民第一号が縄文人である。

②東北・日高見に占拠した民族は従来漫然と断定されてきたアイヌ人ではなかった。満州東部の日本かい沿岸から沿海州にかけて蕃衍していたウラル・アルタイ種の各派が、日本海を渡って、わが北陸道の沿岸から両羽地方に漂着し、そこからアイヌ人を主とする先住民を追い払い、脊梁山脈を越えて三陸・日高見に進出した。

③田村麻呂将軍による奥羽平定のあと、奥羽地方の蝦夷(韃靼人)は日本民族に同化された、そしてそれは、日本民族にとって最後の異民族同化であった。









■ケンペルが消された日本の歴史を紹介



ドイツ生まれケンフェルの「日本志」が重要なことを書いています!



1、ケンフェル(ケンペル)とは
エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempfer現代ドイツ語読みではエンゲルベアト・ケンプファー1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師博物学者ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。

ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。

また、『日本誌』のオランダ語第二版(De Beschryving Van Japan)(1733)を底本として、志筑忠雄は享和元年(1801)にこの付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。

2、平田篤胤の紹介
平田篤胤が「古道大意」で述べています

ケンペルを紹介しています。
 「まず日本国の幸せでうらやましいことは、異国の人と交易しなくとも、全く困ることがないことである。それはまず地勢に恵まれていて、外国の産物を取り寄せなくてもよいからです。わがヨーロッパ諸国の者どもが、外国まわりをして、交易をもっぱら行うのは、だいたい物が不足しているからです。例えばここに一つの国があって、天地を造られた天ッ神さまが世にも特別なお恵みをかけられて、生命を保つべき一切のものが不足ないようになされて、国もはなはだ強く、その国民の勇気がすさまじく、外国から攻めてきたときなどによく防ぐ手段を持っていて、外国のものを受け入れなくとも事欠かずに済むならば、外国と交易しないほうが国の風俗は乱れないで、かえって国の大きな利益となることです」と、著者はここらのことを詳しく説いています。
「そんな国はこの地球の内を探してもどこにあると思いますか、それは世界万国に知られた日本であるのです」

3、白柳秀湖が見だしたケンペル

歴史学者白柳秀湖がケンフェルの「日本志」の中に見出したのが
「田村麻呂将軍によって根こそぎ討平された蝦夷が、大韃靼人であったことを主張するのは、一人この著者(秀湖)ばかりでなく、ドイツ生まれのオランダ人ケンペルも、その著書『日本志』の中にこれを韃靼人であったと力強く記述している」と書いている。(太田龍「縄文日本文明1万5千年史」より)


4、田村麻呂将軍のおかげで救われた!
白柳秀湖の文より
桓武天皇の時(781~806)における大韃靼人の侵入と、後宇多天皇の時における同じく大韃靼人(蒙古人)の襲来(1274,1281)とを、日本の二大外難として相対照している」とまず書いている。
すなわちケンフェルがヨーロッパ人として、虚心に見た眼によると、この二つの外難は同じ程度に強くはげしく日本国家の存立を脅かした大事件であったのだ」とつづけ、さらに

「しかるに当の日本では、ちょうどこの時代のことを記録した国史『日本後記』の一部が湮滅して伝わらぬ為、田村麻呂将軍の英邁を以ってして、わずかに打ち克つことが出来た大韃靼人奥羽地方に於ける動静及び官軍との戦況を、詳しく知ることが出来ない

原文を載せます
「日本の地は、自然と堅固にして、今に至るまで、外寇の恐るべきもの、極めて少なし。稀には犯し、襲いし事もありといえども、未だかって、敵に利ありしことなし。およそこの勇猛無敵の俗人(俗人は国民の誤記か)未だかって他人の命令を聴くことなし。一千年前なる桓武の御宇に当たって、大韃靼の無庭(その地広大なるをいう)より、大軍を挙げて、頻りに日本の浦に打ち寄せたり。攻撃火急にして、敵軍は早くも陸地を取りて、基地としける程に、日本人もこれを退落する事ははなはだ難なりけり。その故は、毎々に挑戦して、しばしば敗軍して、その勢い大いに衰滅せしかども、韃靼より日を追って、新軍を送り備わって、勢いを助ける程に、ついに五十年(百五十年の誤記か、阿部比羅夫の粛慎人征討から坂上田村麿の奥羽さい定までちょうど百五十年)の久しきに耐えて,なおも日本の地に居て動かざりけり。
 然るに西暦七百九十五年国の守護神の威力冥助と、日本軍の鋭き多勢力と」一斉に起張して、ついに彼らを抜き滅しけり。」

要約
「つまり、孝徳天皇、斉明天皇の御代から桓武天王の御代まで百五十年、大韃靼人は大軍を日本(奥羽東北地方)に送り、打ち破られてもまた新手の軍勢を増派してくる。彼らは日本(奥羽)に確固たる武力による支配権を打ち立ててしまう。」
   孝徳天皇 645年 大化の改新
   桓武天皇 800年

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【まとめ】
すごいことがかかれています!!
①蒙古(大韃靼人)襲来は、田村麻呂時代(桓武天皇時代)と鎌倉時代の二度あった。
②虚心にヨーロッパ人の目で見た、日本の国家存亡をかけた二大外難だった。
③「日本後記」の一部が亡くなっている。
④田村麻呂将軍の英邁を以ってして、打ち克つことが出来た・・・やはり神様です!
⑤これで、田村麻呂将軍が第一期で10万人の軍勢、第二期で4万人の軍勢を引き連れてきて、アテルイと胆沢だけで遊んで(問題ありますね!)いる訳はないと思っていた疑問が解けました。
⑥蝦夷が大韃靼人であった。
⑦田村麻呂将軍によって蝦夷(大蒙古人)が根こそぎ討平された。


2011年11月14日月曜日

■白柳秀湖の「大韃靼人」論


1,白柳秀湖とは
白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年1月7日 - 1950年11月9日)は、日本の小説家、
社会評論家、歴史家。
静岡県生まれ。本名は武司。早稲田大学哲学科卒。在学中から堺利彦の社会主義思
想に影響を受け、1904年直行団に加入、1905年中里介山らと火鞭会を創立。1907年
隆文館編集記者となり、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を発表
、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。1910年の大逆事件以後、社会主
義思想と縁を切り、文学も離れ、社会評論家、歴史家として活動した。


2、日本書紀に記されている

「蝦夷」「粛慎」「靺鞨」「女眞」「刀夷」「蒙古」後の「満州」は皆違うのか・・・
白柳秀湖は「それは単一民族ではないが、血統、地縁、人種その他の要因によって
「大韃靼人」として包括される

3、ヨーロッパではタタール(タルタル)
ジンギス汗の時代、モンゴルはユーラシア大陸の過半を征服する未曾有の大世界帝国を
建設したが、ロシアはその時、モンゴル帝国の中に包摂された。ロシア人はその時代を「タ
タールの頸城」と呼んでいる。つまり、ロシア人、ひいてはヨーロッパ人総体にとって、タター
ル人はすなわちモンゴル人を意味した。


4,タタールのくびき
タタールというのはモンゴル系の遊牧民族であり、一応モンゴル人とは別とみなす
べきであろう。しかしモンゴル軍の西方遠征に多数のタタール人が加わっていた
ため、またモンゴル軍が大きな恐怖をヨーロッパ人に与えたため、ヨーロッパ人は
タタールとギリシャ語のタルタロス tartaros(地獄)とをかけて、モンゴルをタルタ
ル Tartar と呼ぶようになったという。
ロシア語ではタタールィ татары というが、キプチャク・ハーン国を形成したモンゴ
ル・テュルク系の諸民族、およびその末裔を無差別にタタールと呼んだ(こんにちの
ロシアのタタール民族はその一部だが、モンゴル系ではなくテュルク系)。
タタール(キプチャク・ハーン国)によるルーシ諸公支配を、ロシアでは «タタールの
くびき» と呼んでいる。その実態は間接統治で、貢納さえ怠らなければ各地の公の
存在が許されていた(厳密にはいろいろな制約や義務があったが)。
上記のように、ノーヴゴロトを除く全キエフ・ルーシがモンゴルに蹂躙され、その結果
として全ルーシ諸公がキプチャク・ハーンの宗主権下に置かれることになった。


■渤海国とは

秋田城と外交があった渤海とは



渤海国
【WIKIより】

渤海(ぼっかい、698年[1] - 926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシア沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹)によって滅ぼされた。
新唐書』に、渤海は本来粟末靺鞨であり高句麗に従属していた、姓は大氏である(渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏」)と記す。
旧唐書』と『新唐書』では渤海靺鞨の指導者大祚栄に関する記述は異なる。『旧唐書』では渤海靺鞨大祚栄は出自は高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也「渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり」)としているが、『新唐書』では粟末靺鞨の出としている。
『大金国史』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。
渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。
渤海の名は本来、遼東半島山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである(→「渤海 (海域)」)。初代国王大祚栄が、渤海沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。
以下、本項では歴史上に存在した国家としての「渤海国」を扱う。民族としての「渤海民族」については、別項渤海人を参照。




満州の歴史
遼西郡箕子朝鮮東胡粛慎濊貊
遼東郡
遼西郡
遼東郡
前漢遼西郡衛氏朝鮮匈奴
遼東郡
漢四郡夫余沃沮高句麗
後漢遼西郡烏桓鮮卑挹婁
遼東郡
玄菟郡
昌黎郡公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋平州
慕容部宇文部
前燕平州
前秦平州
後燕平州
北燕
北魏営州契丹庫莫奚室韋勿吉
東魏営州
北斉営州
北周営州
柳城郡靺鞨
燕郡
遼西郡
営州松漠都督府饒楽都督府室韋都督府黒水都督府渤海国安東都護府
上京道
中京道
東京道
女真東丹国
定安国
東京道
東京路
上京路
東遼後遼大真国
遼陽行省
遼東都司奴児干都指揮使司
建州女真海西女真野人女真
清朝満州

東三省
ロシア帝国東シベリア総督府
沿アムール総督府
中華民国
東三省
極東共和国
ソ連
極東
満州国
中華民国
東九省
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区
朝鮮半島を中国とみなす記述
Portal:中国
Portal:朝鮮

目次

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歴史 [編集]

690年に即位した武則天が執政した時期は羈縻支配地域に対する収奪が激しくなり、唐によって営州都督府の管轄下にあった松漠都督府(現在の遼寧省朝陽市)の支配地域に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、粟末靺鞨人は指導者乞乞仲象の指揮の下で高句麗の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で「渤海郡王」に冊封された。
国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。これに対し大仁秀は北方諸部の攻略と郡県の設置を行った。特に渤海に対し独立した勢力を保有していた黒水部を攻略することに成功し、黒水府を設置した。これにより黒水部が独自に唐に入朝することはなくなり、その状態は渤海の滅亡直前まで続いた。他にも鉄利府、定理府、安辺府、懐遠府を設置し、遼東半島などをのぞいて旧高句麗の領土をほぼ回復し、「海東の盛国」と称されるようになった。


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これだけでは何がなんだかよくわかりません

大韃靼人を御覧ください