2014年7月24日木曜日

■歴史の改竄(かいざん)は縄文時代から

常識としての歴史は正しいのでしょうか・・・みんな「ウソ」のようです!!
(とりあえず縄文時代)

1、縄文時代は本当に文化が低かったか

「考古学はまやかし」より
http://ameblo.jp/calseed/entry-11894455636.htmlから

歴史常識的には低いとされている日本の縄文時代や弥生時代の文化度は、実は高かったのではないか、と考え直すようになります。
古代人は横穴式住居や竪穴式住居に住んでいて、縄文時代は狩猟民族、弥生時代は農耕民族と変化して徐々に文化度が高くなって行った、とされている歴史の定説に、どうしても疑問が生じました。
古代は科学技術が現代のように発達していなかったのは間違いないのですが、あの壮健な出雲大社は、太古はより巨大な建物として存在していたことが明らかになっています。重機を使わずして、あれだけの建築物を正確に造る技術とは、我々想像している縄文時代や弥生時代の文化度とは全く異なるのです。

2、貝塚は縄文集落で文化が低い証拠?

モースが、1877年に大森で貝塚を発見して以降、各地で同様な貝殻の堆積物が見つかり、縄文時代の集落の跡とされてきました。
これは事実なのでしょうか?
確かに、貝塚が見つかった場所の周辺には古墳があったり、住居跡があったりと、古代に集落があったことは間違いないと思います。

しかし、貝殻の堆積層が見つかったから、縄文時代は狩猟民族で、文化度が低かったと結論付けていいのでしょうか?


3、「考古学」で洗脳

古代(神代終了後の上代)の人達は、かつての神々を崇めるため神社を創建して祀ってきたのです。江戸時代までは、日本神話は普通に歴史の一環として教えられていたはずです。

ところが、そのことを隠したい阿修羅(増上慢偽明治天皇)は、明治維新を機に、すべての常識をひっくり返すために、歴史も変えていったのです。

その洗脳のツールとされたのが考古学という概念です。

4、縄文時代

阿修羅の目的は、神代を縄文時代に改竄することです。そして、上代を弥生時代に。

そのために、化石として残り易い貝殻の堆積層を貝塚と定義し、文化度の低い縄文時代という歴史概念を創りだしたのです。モース以降、考古学という欺瞞の学問によって、皆さんは洗脳されてしまったのです。哀れな事です。

2014年7月16日水曜日

■逆説・田村麻呂とアテルイ・・・秋田城

日高見防衛戦争から
http://khuriltai2.jimdo.com/%E6%97%A5%E9%AB%98%E8%A6%8B%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%88%A6%E4%BA%89/


 田村麻呂は武力では制圧できずに謀略を仕掛ける

 「北鑑 第十二巻 十九」の阿弖流為の記事も、田村麻呂による謀略について描いている。「江刺の翁(おきな)、物部但馬(たじま)という人物から聞き書きしたものである」という寛政六年九月十三日の秋田孝季の署名がある。
 「丑寅日本国の五王に通称アトロイという王がいる。大公墓阿弖流為または阿黒王、悪路王と倭史は記している。
 大和朝廷の朝議は、相謀(あいはか)って坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。すでに官軍は討伐行を羽州から鬼首(おにこうべ)峠を越え、日高見川において千三百三十六人の兵を殉死させ、阿弖流為軍は八十九人の殉死あるのみで、官軍は全ての兵糧を奪われた。よって田村麻呂は軍謀について和睦を先としていた。田村麻呂曰く。
 日本将軍五王に朝議の趣旨を申す。互いに戦いの原因を作ることなく、和をもって東西の睦みを護ろうではないか。よって率いてきた者が宿泊する柵の造営を許可願いたい、と多賀城、玉造柵、伊治城、雄勝(おがち)柵、胆沢(いさわ)柵、徳丹(とくたん)柵、払田柵、秋田城跡に市場を築くことを請うた
 ときに阿弖流為はひとり合点(がてん)がいかず、日本将軍の安倍安堯(やすあき)に申したところ、市場ならばとして、濠がなく、柵がないように築くという条件を約束して許可を得た。しかるに阿弖流為が一見要塞としか見えない市場造りに不審をいだいて、これぞ倭朝の議に偽りがないかと田村麻呂に何度か問うたが、田村麻呂は曰く、我も倭の大王に言わしめれば蝦夷なり、何事あって丑寅日本を憎むだろうか、とその都度答えた」
これを裏付けるように田村麻呂によるしたたかな慰撫作戦、謀略作戦が実行されたのである。田村麻呂は仏法に公布を装って、武装移民を多賀城や胆沢柵に進駐させ、和睦と称して、阿弖流為を拉致し、胆沢から京都へ引き連れる策略を考えていたのである。
 『總輯 東日流六郡誌 全』[田村麻呂奥州経略]においても、田村麻呂が蝦夷征略の一切を任せられ、武器を持たない民団を派遣し、日之本将軍安倍安東から日高見国での駐在を許され、各地に神社仏閣、城柵を建設した。これに阿弖流為、母礼が「戦いなき心の侵略」「日高見はみな倭のようになってしまう」と疑念をもち、それを安倍将軍に告訴したが、聞き入れられなかったとしている。
 延暦年間には安倍安国、安東、国治(東)、安堯らの日之本将軍の名が『日之本文書』に出てくるが、安倍一族の年譜と照らし合わせると時代的なズレが見られ、その存在自体が希薄に感じられる。田村麻呂と直接対峙していないためか、日之本将軍による彼に対する警戒心が乏しかったように感じられる。大和朝廷による攻勢によって、荒覇吐国家と日之本将軍の統率力が弱まったようにも感じられる。日之本将軍の田村麻呂に対する警戒心が足りなかったことが、大きな悲劇を生み出すことになったのである。

2014年7月7日月曜日

■逆説・東日流外三郡誌と菅江真澄

東日流れ外三郡誌の世界さんから引用
秋田県に関することを抜き出します


東日流外三郡誌の世界


☆ 目 次 ☆

1、はじめに
2、「東日流誌」の成り立ち
3、綴史密命之事
4、東日流外三郡誌附巻
5、述言
6、総結編二序言
7、十三湊脚渉記
8、北辰懐古
9、孝季の手紙より
10、菅江真澄殿、津軽藩捕らわれの事


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1、はじめに

  ツ ガル 
 「東日流誌」とは、その昔蝦夷と呼ばれた人たちの記録集である。
1789年蝦夷直系である秋田家(三春藩五万五千石、郡山市近辺)の当主秋田千季(ユキスエ)は、息子の秋田孝季(タカスエ)に蝦夷関係資料の収集を命じた。孝季(秋田県、土崎)が義弟の和田長三郎(津軽、五所川原市飯詰(イイズメ)と二人で、三十三年間にわたり収集記録したのが「東日流誌」群である。ここには、蝦夷一族に関連した歴史、宗教、言語、風俗習慣その他、集められ得る限りの資料が収められている。なお、菅江真澄(スガエマスミ)も一時期この収集に参加している。

 現在、これらの資料は、津軽飯詰の和田家に保存されており、
「東日流外三郡誌」(弘前市、北方新社)(東京、八幡書店)、
「東日流六郡誌絵巻」(弘前市、津軽書房)、
「東日流六郡誌」(津軽書房)
などが発表されており、「東日流内三郡誌」は未発表である。

 この東日流外三郡とは、ほぼ津軽半島部にあたり、内三郡はそれ以南の津軽の内陸部にあたる。「東日流誌」をみての最大の驚きは、蝦夷と呼ばれ蔑まれ続けた人たちが、思いもよらぬ人間的で豊かな文化を持っていたこと。またこの一族が、荒吐(アラハバキ)族-安倍氏-安東氏-秋田氏と名を代えながらも明治維新、そして現在に到達しておりそこに信じられぬような歴史を持っていることである。

1、「東日流誌」のはじめに! 

 初代津軽藩主、大浦為信(タメノブ)は、徳川家から藩政を預けられて以来、津軽の地に古くから残る安東氏関係の事物を総て消滅さすことを計った。そのため、古記録の消却処分、安東氏の信仰したアラハバキ神の壊滅、安東(藤)氏関係の民謡、民話の禁止を命じた。津軽藩では古記録を提出した者を藩士として取り立てる約束、アラハバキ神関係の石塔を地雷で爆破する行為まで行なっている。

 大浦氏の行為の中でいちばん安東一族を怒らせたものは、十三湊に安東水軍の基礎をつくった藤原秀栄(ヒデヒサ)を、大浦氏が自分の祖と語ったことといわれる。このため安東氏唯一の後裔である秋田家では、大浦氏の偽を発くため証拠書類を揃え徳川家に提出したという。しかし徳川家ではこの書類を全く無視し、あまつさえ秋田家の国替えを命じた。徳川家、大浦氏に対する怒りが、「東日流誌」作成の引金であり、それを完成に導いた刺激剤といわれる。

 一説には、天明五年(1785年)三春藩城下に火災があり古資料が失われ、そのため改めて記録が収集されたともいう。しかしいずれにせよ、秋田孝季(タカスエ)によって提出された記録は、徳川家にとってあまりにも過激だったため、とうてい受け入れきれず返却されている。

 「外三郡誌」の出発時点(1789年)で、秋田孝季は五十才前後、和田長三郎は三十才前後と考えられる。したがって孝季は五十才頃から八十才までの三十三年間を、この「東日流誌」の完成のために捧げたことになる。


2、「東日流誌」の成り立ち


寛政元年(1789年)、私は父、千季(ユキスエ)に呼ばれ三春(福島県郡山市近辺)に出かけた。父は人払いをし、安東一族の故事来歴を諸国を巡り綴るよう申しつけた。もとより文筆つたない自分であるので断わったが許されず、若干の費用を授けられた。自分は秋田の住まいなので急ぎ帰り、津軽に住む義弟、和田長三郎を呼び相談した。まず津軽六郡を巡り、多くの祖歴を得た。更に渡島に渡り原住民にその歴史を尋ねたが、正史に記されたものと実際が余りに違っているのを知り怒りを覚えた。その後六十余州を巡り、一族縁者から史書を得て、ここに「東日流外三郡誌」とし、更に「東日流内三郡誌」を綴った。

  


 


9、「孝季の手紙より」

 菅井殿が訊ねてきて、たまたま荒吐族が話題になった。菅井殿の史観は我々と違っていて、荒吐神とは源九郎義経のアラハバキ、すなわち膝当てのことと強情を張って譲らない。拙者は笑止千万と、どなりつけたいのを我慢し、菅井殿には帰ってもらった。これもいた仕方ない事である。(菅井殿とは菅江真澄のことである。)


10、「菅江真澄殿、津軽藩捕らわれの事」

 薬師菅江真澄は、我々とともに荒吐神、安倍・安東の古事を探り巡っていたが、この秘密を津軽藩関所で発見され捕らわれた。これによって、彼が長年にわたって記述してきた史伝書三十八巻も消却されたのは、誠にやるかたない。本巻の著書に彼の記名があるが、これは本巻成立の証人としてのみ記して置いたものである。

      

2014年7月6日日曜日

■逆説・田道将軍の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します


上毛野田道は大敗するが大蛇が仇を撃つ伝説を創作する

 第十六代目の仁徳天皇紀では、公認史においても、上毛野田道(かみつけぬのたじ)将軍は、朝貢しない新羅を攻撃し、潰走させるほどの名将であったが、「蝦夷」には敗北して戦死している。たしかに「蝦夷」は「勇猛で」「一をもって千にあたる」ような手ごわい存在であった。『日本書紀』仁徳紀は田道の敗北は認めざるをえないが、以下のように彼の墓から大蛇が出てきて、報復する物語りに仕立てあげられている。現人神(あらひとがみ)の皇軍が、連戦連敗では格好がつかないのである。
 「(仁徳)五十五年、蝦夷が叛いた。田道を遣わして、討伐させた。そのとき、蝦夷に敗れて、伊峙水門(いしのみと)で死んだ。そのとき、従者がいて、田道が手にまいていた玉を取り収め、その妻に届けた。そこで田道の妻はその玉を抱いて縊死(いし)してしまった。時の人は、これを聞いて泣き悲しんだ。その後、また蝦夷が襲ってきて、人民を略奪した。そのとき田道の墓を掘ると、大蛇がいて、目をいからして墓から出てきて咬(か)んだ。蝦夷は、ことごとく蛇の毒をうけて、多くの者が死んでしまった。ただ、一人か二人が、免れることができただけであった。そこで、時の人は、『田道は死んでしまったけれども、ついに (あた)に報いた。どうして死んだ人に知覚がないといえようか』と言った」
 「日之本東日流古事録 一」では上毛野田道将軍の征夷について、次のように展開されている。具体的な地名や派遣軍の数字も出てくるので『日之本文書』のほうが史実に近いだろう。
 「我が丑寅の国は、金銀銅鉄みな保有している。これが倭国に聞こえが高かったので、丑寅日本国を討って略取するべく征夷を起こしたのは、上毛野田道である。彼は三万の軍人を率いて船で塩釜に上陸し、伊津水門に攻めてきたが、日本将軍安倍安国がこれに応戦し、一日を経ずして討伐した。伊津水門とは、現在の伊豆沼あたりのことである。この時から倭人が秘密に入りそうな要所に関を設けたり、柵を造ったり、飼馬を軍に用いることも、山靼人の戦法で、騎馬軍が大いに活躍した」
 『日之本文書』にあるように、征夷軍は船で塩釜にまで至り、上陸して栗原郡の伊豆沼あたりまで侵攻するが、一日ももたずに討伐軍のほうが「討伐」されてしまう。エミシは散発的なゲリラ戦しか展開できない未開人ではなかった。むしろ荒覇吐国として高度な戦略戦術を有した強力な国家が存在し、彼らは山靼人の騎馬軍戦法を採用していたので、倭国の征夷軍をもってしても、歯が立たない存在であった。ただし、「日之本東日流古事録 一」の文章に出てくる「日本将軍安倍安国」は、もう少し後代の王なので、この部分の記述は誤りであろうと思われる。
 伊峙水門については、上総国夷隅(いすみ)郡か、陸奥国石巻(いしのまき)に比定される場合もある。『東日流外三郡誌』では泉の伊津水門とか、東日流の中山伊津水門(いしのみと)とか書かれているが、宮城県の塩釜から上陸して、伊治の伊津水門で討たれたとするのが妥当ではないか。
 このほかに「蝦夷征伐」に上毛野形名(かみつけぬかたな)、上毛野朝臣小足(かみつけぬのあそんおたり)など上毛野氏がしばしばし登場している。彼らは陸奥国司、陸奥守などとして、北関東(群馬県)を拠点に、大和朝廷による陸奥と越経営の先陣部隊の役割を果たしたのであろう。彼らもまた坂東エミシの末裔であったのか。
                 

■逆説・高志王国の成立

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

高志王国の位置


 高志王国の成立

三内・亀が岡文明の南下

高志王国とは何か。どのようにして形成されたのか。どのようにして展開されたのか。
 『日之本文書』には「越(こし)の国」とか「加賀」と出ているが、越というのは、もともとは高志ないしは古志と表記され、越前、越中、越後に分かれ、一般的には越前が福井、越中が富山、越後が新潟と考えられている。越という呼び方は、比較的新しいので、本書では高志という呼び方をする。
白山王国と高志王国は、明白に亀ケ岡文化の影響を受けているが、亀ケ岡人が高志王国、白山王国に移住してきたからである。これらは考古学的な見地からも、さまざまな納得のいく共通点を指摘できる。高志王国の中心地は、糸魚川下流の長者ケ原遺跡であり、ヒスイの集積、加工基地が寺地遺跡であろう。大型住居跡のある不動堂遺跡も高志王国の勢力圏にあっただろう。
 亀ケ岡文化圏は、東日流(つがる)の荒覇吐王国の支配圏と重なるが、亀ケ岡文化圏は、荒覇吐一族が拡大したものである。白山王国、高志王国から多数の亀ケ岡土器が出土している。その勢力圏は近畿にも広がり、九州にも影響を与えた。
 『日之本文書』には、八甲田の火山噴火により、三内丸山人が大挙して、石神地区や十腰内地区に移動し、最終的に亀ケ岡に定着したことが記されている。亀ケ岡人はもともと三内丸山人であったのである。三内丸山人の巨木建築技術は、亀ケ岡人を通じて、高志王国、白山王国に持ち込まれたものである。
 『日之本文書』には、紀元前千年頃から紀元前数百年頃の間には、白山王国、荒覇吐(あらはばき)王国、高志(越 こし)王国、出雲王国、信濃王国が次々と形成され、それらが、奴奈川(ぬながわ)氏、三輪氏(阿毎氏)、出雲氏、荒覇吐氏の血縁で結ばれていたことが、はっきりと記されている。彼らは耶馬台国国家連合、耶馬台五王国を形成していたのである。 
耶馬台国五王国への流れは、次のように示すことができる。これまで、考古学的に東北の縄文文化と北陸の縄文文化は、互いに影響しあってきたことは、指摘されてきたが、『日之本文書』の記述を見ると、三内丸山文化から十腰内文化、石神文化を経由して亀ケ岡文化への人と文化の流れがあり、亀ケ岡文化の拡大に大きな役割を果たした荒覇吐王国から高志王国、白山王国、出雲王国、信濃王国へは、人的な移動と血縁による結びつきがあったことが理解されるであろう。

  三内丸山文化(津保化族)
                          
     十腰内文化 石神文化
                          
     亀ケ岡文化(荒覇吐王国と重なる部分が多い)  
                     
         高志王国(奴奈川姫)→黒姫
                        ↓
  白山王国(白山姫)  出雲王国(大国主 奴奈川姫)
           
  信濃王国(建御名方命)

 荒覇吐王国と高志王国

 荒覇吐王国とは、東日流(つがる)に亡命した耶馬台族と、大陸から渡来した晋一族と、土着の阿蘇辺、津保化一族が、融合して形成された荒覇吐族、彼らが紀元前七世紀に石塔山で建国した王国のことである。
 東日流とは、晋の君公子一族が、この国を賛美して、東の方に日が流れる国のゆえに、東日流と称された。これが東日流のはじまりだとされる。津軽藩が東日流を占領するようになって、津軽と表記されるようになった。
 白山王国が紀元前千年前後に創建されたとすれば、縄文晩期と時期的にほぼ一致し、亀ケ岡文化ともほぼ一致することになる。白山王国が亀ケ岡文化と併存していたことになる。さらに東日流に荒覇吐王国が建国されたのが、紀元前六六一年頃なので、白山王国と荒覇吐王国も長い間、併存していたことになる。そして、白山王国は高志王国とともに、亀ケ岡文化、荒覇吐王国から強い影響を受けたことは、後述の『日之本文書』でも明白であるし、考古学上からも証明することができる。
 『白山 自然と文化』(白山総合学術書編集委員会編)の「白山のはじまり」という論文では「晩期では東北地方の亀ケ岡土器が、近畿まで強い影響を与えた時期で、北陸では直接的ではないまでも、東北日本系の特徴を持ち、土着色の濃厚な御経塚式土器(野々市町御経塚遺跡)が成立する」と、亀ケ岡土器と白山王国の土器とのつながりが指摘されている。  
高志王国、白山王国、信濃王国、出雲王国に多大な影響を与えてきた荒覇吐五王国の構図は、以下のように示すことができる。
 
 『日之本文書』が描く荒覇吐王国と高志王国、白山王国

 『日之本文書』には、東日流と高志王国と白山王国とのつながりを示す地図や記述がたびたび出てくる。特に『東日流外三郡誌 第一巻』には、頻繁に出てくる。
 『東日流外三郡誌 第一巻』[荒吐族南押領録]には、荒覇吐五王がポロチャシを配置した地域として、西海の魚津(富山)、糸魚川、岩船(以上、新潟)を記している。同書は[日高見国城柵]として磐舟柵(岩船 新潟)、渟足柵(ぬたり 新潟)を挙げている。同書[東日流内三郡誌大抄 上の巻]では、北方からやってきた民族として「越国なる那賀美化族」を挙げている。同書[秋田家訓義]に描かれた東日本の地図には、越後として磐舟柵と渟足柵が描かれている。同書[日高見国実史雑抄]の神州国之図には、日高見国と日本(やまと)の間に古志と描かれている。同書[耶馬台日下(ひのもと)王安倍氏]では、耶馬台五王に属する八氏として、越氏を挙げている。同書[王政処移宮之抄史]では、西分倉として岩船(新潟の村上市の岩船だろう)、黒崎(新潟市の黒崎町だろう)、怒足(ぬたり)、加茂(新潟の加茂市だろう)を挙げている。    
 『總輯 東日流六郡誌 全』にも、東日流と越国の結び付きが記されている。高志王国も耶馬台国を構成していたのである。以上が高志王国に関する記述である。
 『東日流外三郡誌 第一巻』[耶馬台王国之治国]では、耶馬台国の分倉(わけぐら)を敦賀の野坂山に、県主(あがたぬし)を越前の白鳥に置いたとしている。野坂山は野坂山脈の主峰で野坂岳、敦賀富士ともいう。標高九一四メートルで、頂上が三峰になっている。越前もまた、耶馬台国の圏内に入ったのである。以上が敦賀に関する記述である。
 このように、阿毎族の耶馬台国、荒覇吐族の荒覇吐王国、安倍一族の日高見国を通じて、越国(越後、越中、越前)は、彼らの勢力圏であり続けたといっても過言ではないだろう。したがって、石川県のチカモリ遺跡、御経塚遺跡のみならず、能登の真脇遺跡も含めて、日之本国を構成していたと考えてよいだろう。これで真脇遺跡が、濃厚に東日流の縄文文化と類似していたかが理解できるであろう。倭国の公認史は、これらの事実を隠し続けてきたのである。

 『日之本文書』が描く荒覇吐王国と高志王国、白山王国

 『日之本文書』には、東日流と高志王国と白山王国とのつながりを示す地図や記述がたびたび出てくる。特に『東日流外三郡誌 第一巻』には、頻繁に出てくる。
 『東日流外三郡誌 第一巻』[荒吐族南押領録]には、荒覇吐五王がポロチャシを配置した地域として、西海の魚津(富山)、糸魚川、岩船(以上、新潟)を記している。同書は[日高見国城柵]として磐舟柵(岩船 新潟)、渟足柵(ぬたり 新潟)を挙げている。同書[東日流内三郡誌大抄 上の巻]では、北方からやってきた民族として「越国なる那賀美化族」を挙げている。同書[秋田家訓義]に描かれた東日本の地図には、越後として磐舟柵と渟足柵が描かれている。同書[日高見国実史雑抄]の神州国之図には、日高見国と日本(やまと)の間に古志と描かれている。同書[耶馬台日下(ひのもと)王安倍氏]では、耶馬台五王に属する八氏として、越氏を挙げている。同書[王政処移宮之抄史]では、西分倉として岩船(新潟の村上市の岩船だろう)、黒崎(新潟市の黒崎町だろう)、怒足(ぬたり)、加茂(新潟の加茂市だろう)を挙げている。    
 『總輯 東日流六郡誌 全』にも、東日流と越国の結び付きが記されている。高志王国も耶馬台国を構成していたのである。以上が高志王国に関する記述である。
 『東日流外三郡誌 第一巻』[耶馬台王国之治国]では、耶馬台国の分倉(わけぐら)を敦賀の野坂山に、県主(あがたぬし)を越前の白鳥に置いたとしている。野坂山は野坂山脈の主峰で野坂岳、敦賀富士ともいう。標高九一四メートルで、頂上が三峰になっている。越前もまた、耶馬台国の圏内に入ったのである。以上が敦賀に関する記述である。
 このように、阿毎族の耶馬台国、荒覇吐族の荒覇吐王国、安倍一族の日高見国を通じて、越国(越後、越中、越前)は、彼らの勢力圏であり続けたといっても過言ではないだろう。したがって、石川県のチカモリ遺跡、御経塚遺跡のみならず、能登の真脇遺跡も含めて、日之本国を構成していたと考えてよいだろう。これで真脇遺跡が、濃厚に東日流の縄文文化と類似していたかが理解できるであろう。倭国の公認史は、これらの事実を隠し続けてきたのである。

■逆説・出羽の民族

日之本文書へリンク
秋田県に関することを抜き出します

出羽の民族

 「北鑑 第五十四巻 附書 一ノ二」
 「奥州に先住する民族があった。渡島のクリル族、東日流の阿蘇部族、宇曽利の津保化、陸羽の熟族(にぎぞく)、陸奥の麁族(あらぞく)である。いずれも国をして境を作らず、移住、定住、自在である。古(いにしえ)から山靼とも往来自由であり、異民の帰化も自在である。
 大王をオテナ、長老をエカシという。各地のコタンのエカシによって、大王が選ばれるが、世襲とはせず、エカシに選ばれなければ、退位した。このような政治は、山靼から渡来した帰化人によって律法されたという」

 「丑寅日本国古事抄」[語部録抄壹之巻]
 「歴史をさかのぼれば、丑寅の日本は、国を始める大王の一世を安日彦といい、耶馬台の落人として、東日流に落着した。安日彦を安日王と称し、負傷した弟の長髄彦を助けて、東日流に退却した。
 一族は大挙して奥州にたどり着き、後に長髄彦沢と呼ばれた沢に湧く温泉に湯治して、傷を癒した。この地は今に安日山(あっぴさん)と名付けられている。このようにして東日流という地には稲をもって暮らす民ありとして、この地に永住することを決めた。
 東日流に住む二族があって、それは阿蘇部族、津保化族と称し、その長老エカシは安日彦を奉じて、石塔山に日本国大王一世として、即位させることになった。
 この年、東晋の群公子一族が、東日流に漂着し、安日彦に救済された。以来、国を広め、陸州の麁族、羽州の熟族が、これに従い、坂東までも領域を広げ、富士山を領内に安倍川から越の糸魚川(いといがわ)に至る地域を日本国と称した。
 安日彦王は、領内の部族百八十五族を併せ、これを荒覇吐の民として信仰を統一せしめて、よく国治をまっとうしたという」




 出羽地方は荒覇吐王国の南分倉で重要な役割を果たしている。『總輯 東日流六郡誌 全』[王政処移宮之抄史]において、荒覇吐王国の高倉、分倉について述べている。
 「荒覇吐王国が高倉は、十個処に移れりという。東日流、荷薩丁、厨川、矢巾、閉伊、胆沢、東山、桃生、宮沢、来朝(くるま)である。ただし、この王政処所在地は、年代順ではなく、後代において、北に移ったものもあると伝わる。
 領域の東西南北に置かれた分倉も、高倉の移宮にしたがって、次のように移っている。西分倉は、怒志呂(ぬしろ)、土崎、大内、楢橋、大蔵、朝日、岩船、黒崎、加茂、怒足(ぬたり)である。東分倉は、宇曽利、糠部、久慈、宮古、釜石、大船、吉元、女川、多賀、四郎丸である。南分倉は、鹿角、払田、増田、村山、米沢、会津、白河、矢板、川越、藤枝である。北分倉は東日流、美唄(びばい)、松前、東日流上磯、厚岸、豊頃、江別、志海苔(しのり)、福島、東日流十三湊である。もっともこれも時代順ではないこと、高倉と同じである」

■逆説・坂上田村麻呂の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

京都・清水寺の田村神社

 『「日之本文書」とエミシ・アテルイの戦い』より
  
  坂上田村麻呂
 軍神にまで神格化された坂上田村麻呂

 倭国公認史である『日本後紀』では、坂上田村麻呂について、次のように祭り上げられている。
 「正四位上(坂上)犬養の孫、従三位(坂上)苅田麻呂(かりたまろ)の子である。その先の阿智使主(あちのおみ)は、後漢の霊帝の曾孫である。田村麻呂は赤面黄鬚(おうしゅ 黄色のひげ)、勇力は人を超え、将帥の器である。桓武帝はこれを壮として延暦二十三(八〇四)年、征夷大将軍に召す」
 田村麻呂は、倭国では国家的歴史的英雄であり、征夷大将軍の代名詞となり、軍神として神社にも祀られ、毘沙門天(びしゃもんてん)の化身とまで言われる。延暦十六(七九七)年には「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼陸奥守鎮守将軍」という長ったらしい肩書が付くようになる。伝記によれば「怒って眼(まなこ)を巡らせば、猛獣もたちまち倒れ、笑って眉を緩めれば、子供もすぐになつく」などと文字どおり伝説的に描かれている。彼の先祖をさらに逆上っていけば、スキタイ・サカ族の渡来人にまで至るだろう。「赤面黄鬚」はそこからくるだろう。スキタイ・サカ族とは、中央アジアに発生した騎馬民族であるが、イスラエル系などの血脈や文化が浸透している。
 しかし、『日之本文書』の田村麻呂への評価はこれとは正反対である。「奥州隠誌大要」[奥州殲隠史抄]は、田村麻呂について、次のように述べている。
 「坂上田村麻呂と父親の刈田麻呂の父子は、漢の霊帝の後裔といって自画自賛をたくましくして、大和朝廷を威圧するのはしたたかである。また、倭朝に和睦策を受け入れさせ、奥州に和平の官人を入れたのも、狙うのは産金貢馬のみの利益を得るがための手段である」
 坂上田村麻呂が「征夷大将軍」を名乗ってから、日本の最高権力者は、一時期の中断はあったものの、征夷事業が中止された後も、江戸時代まで約一千年間もこの称号を誇らしげに使った。単に軍事の最高権力者であるだけでなく、政治の最高権力者でもあり、征夷大将軍府は天皇府との二重権力の一方を担っていた。いかに「蝦夷征伐」が大和朝廷にとって、重要な事業であったかがわかるだろう。しかし、『日之本文書』も主張しているように、征夷大将軍の肩書を背負っていても、征夷に勝利した将軍は一人もいないのが実態なのだ。

 桓武王朝は百済王族の亡命政権でもあった

 いわゆる「蝦夷征伐」を敢行した桓武天皇とは何者か。彼の父親、光仁天皇(白壁王)は百済亡命貴族、百済王文鏡であり、母親の高野新笠(たかのにいがさ)も百済王の武寧王(ぶねいおう)の血を引いている。桓武天皇は純粋な百済人であり、純粋な渡来人である。桓武は父親である光仁天皇が死んだときに「天皇哀号」、つまり「天皇がアイゴーといって悲しんだ」と『続日本紀』にも記されてある。彼は百済の言葉、母国語で泣いたのである。
 桓武王朝は、百済王族と藤原氏(スキタイ・サカ族が主流)によって要職を占められ、そのバックの後見人として秦氏が控えていた。百済王族は、白村江(はくそんこう)の戦いに敗北し、日本に亡命したが、新羅系王朝で冷遇され、百済系の桓武王朝になってようやく厚遇されるようになった。百済亡命貴族の主な者を挙げてみよう。武鏡が敬福の子供であり、俊哲が孫であり、教俊がひ孫といった具合に、桓武王朝の主要なポストが、一族郎党によって固められていた(括弧内は主な役職)。
 百済王敬福(陸奥守、常陸守、宮内卿、外衛大将)
 百済王文鏡(内舎人、出羽守、光仁天皇)
 百済王武鏡(主計頭、出羽守、周防守)
 百済王俊哲(陸奥鎮守将軍、下野守)
 百済王教徳(上総守、宮内大輔、刑部卿)
 百済王英孫(陸奥鎮守権副将軍、出羽守)
 これをみれば、百済の王族が、陸奥や出羽の「蝦夷征伐」「陸奥経営」の最前線に立ったことになる。そして文鏡のごときは光仁天皇に成り上がっているのである。それぞれ従五位上とか従五位下とかの位が与えられている。

 桓武征夷の目的は百済王族のための土地と金属の略奪と軍馬の無力化

 大和朝廷はなぜ、「蝦夷征伐」を敢行したのか。その理由はひとつではない。大きなものは、以下の五つである。
 第一の理由は、五百年以上にもわたって、日本列島の支配権をめぐって死闘を繰り広げてきた日高見国(荒覇吐国)を打倒し、倭国の安定した支配権を獲得することである。日高見国は、列島の先住民、耶馬台族、荒覇吐一族、物部一族、新羅系亡命者などからなる強力な連合国家であり、渡来系の豪族連合国家としての倭国にとっては、九州王朝と並び最大のライバルであった。
 第二の理由は「渡来人」という名の「亡命貴族」「亡命王族」のために土地、奴隷を獲得することである。白村江の戦いに破れた百済王族、貴族は、念願の光仁、桓武の百済王朝ができると、彼らは国家の全面的バッグアップを受けて新天地をめざした。日高見国の北上川流域は「水陸万頃」、水田稲作に適した広大な土地が広がっていた。
 第三の理由は、武器や農具や工具としての鉄の生産地を抑えることである。鉱山資源、製鉄技術、鉱山労働力の確保を狙ったのである。日高見国は日本でも有数の鉄の生産地であった。荒覇吐一族は大和朝廷経由ではなく、古くから独自の、北方経由の、南海シルクロード経由の製鉄技術を習熟していた。
 第四の理由は、権力や富の象徴としての金の産地を押さえることである。八世紀に入って、大和朝廷は陸奥の黄金に注目しはじめた。北上川流域の栗原、和賀などの砂金である。朝廷は貢金を調庸の中に組み込み、献納させた。産金、冶金の業にも渡来人が進出した。
 第五の理由は、戦闘用、農耕用の馬の無力化である。ここでは軍馬の重要性について詳述しておこう。馬も鉄同様、エミシの武器になった。エミシは馬上から、片手で使用できる蕨手刀を巧みに操り、朝廷軍と互角以上に戦った。陸奥国は「馬飼の国」ともいわれ、広く馬の放牧がなされていた。その馬はユーラシア大陸の騎馬民族国家である靺鞨(まっかつ)国などから取り寄せたものが多かっただろう。
 『東日流外三郡誌 第四巻』[靺鞨国往来]では「靺鞨国の酋長が東日流に馬を積んで交易した。東日流の海辺の広野は、馬また馬に増殖した」と述べられている。前述のように阿弖流為、母礼は山靼地方の靺鞨族の出身の可能性がある。
 大和朝廷による「蝦夷征伐」が本格化すれば、馬は朝廷側、エミシ側双方とも軍馬としての重要性も出てくる。馬が抵抗する「麁蝦夷(あらえみし)」に渡れば、朝廷側にとって脅威となる。
 『続日本後記』は「弓馬の戦闘となると、これは蝦夷にとっては生まれつきの戦法であって、攻める内民たちは十人をもってしても、蝦夷の一人に勝つことができない」と認めている。
 『日本後紀』では「軍事用として馬は一番重要である。にもかかわらず安易に取引されて、価格が高騰し、混乱が続いている。強壮の馬は取引を禁止し、警護に備えよ」という禁令が布告されている。

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田村麻呂は武力では制圧できずに謀略を仕掛ける

 「北鑑 第十二巻 十九」の阿弖流為の記事も、田村麻呂による謀略について描いている。「江刺の翁(おきな)、物部但馬(たじま)という人物から聞き書きしたものである」という寛政六年九月十三日の秋田孝季の署名がある。
 「丑寅日本国の五王に通称アトロイという王がいる。大公墓阿弖流為または阿黒王、悪路王と倭史は記している。
 大和朝廷の朝議は、相謀(あいはか)って坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。すでに官軍は討伐行を羽州から鬼首(おにこうべ)峠を越え、日高見川において千三百三十六人の兵を殉死させ、阿弖流為軍は八十九人の殉死あるのみで、官軍は全ての兵糧を奪われた。よって田村麻呂は軍謀について和睦を先としていた。田村麻呂曰く。
 日本将軍五王に朝議の趣旨を申す。互いに戦いの原因を作ることなく、和をもって東西の睦みを護ろうではないか。よって率いてきた者が宿泊する柵の造営を許可願いたい、と多賀城、玉造柵、伊治城、雄勝(おがち)柵、胆沢(いさわ)柵、徳丹(とくたん)柵、払田柵、秋田城跡に市場を築くことを請うた。
 ときに阿弖流為はひとり合点(がてん)がいかず、日本将軍の安倍安堯(やすあき)に申したところ、市場ならばとして、濠がなく、柵がないように築くという条件を約束して許可を得た。しかるに阿弖流為が一見要塞としか見えない市場造りに不審をいだいて、これぞ倭朝の議に偽りがないかと田村麻呂に何度か問うたが、田村麻呂は曰く、我も倭の大王に言わしめれば蝦夷なり、何事あって丑寅日本を憎むだろうか、とその都度答えた」
これを裏付けるように田村麻呂によるしたたかな慰撫作戦、謀略作戦が実行されたのである。田村麻呂は仏法に公布を装って、武装移民を多賀城や胆沢柵に進駐させ、和睦と称して、阿弖流為を拉致し、胆沢から京都へ引き連れる策略を考えていたのである。
 『總輯 東日流六郡誌 全』[田村麻呂奥州経略]においても、田村麻呂が蝦夷征略の一切を任せられ、武器を持たない民団を派遣し、日之本将軍安倍安東から日高見国での駐在を許され、各地に神社仏閣、城柵を建設した。これに阿弖流為、母礼が「戦いなき心の侵略」「日高見はみな倭のようになってしまう」と疑念をもち、それを安倍将軍に告訴したが、聞き入れられなかったとしている。
 延暦年間には安倍安国、安東、国治(東)、安堯らの日之本将軍の名が『日之本文書』に出てくるが、安倍一族の年譜と照らし合わせると時代的なズレが見られ、その存在自体が希薄に感じられる。田村麻呂と直接対峙していないためか、日之本将軍による彼に対する警戒心が乏しかったように感じられる。大和朝廷による攻勢によって、荒覇吐国家と日之本将軍の統率力が弱まったようにも感じられる。日之本将軍の田村麻呂に対する警戒心が足りなかったことが、大きな悲劇を生み出すことになったのである。

■逆説・アテルイの真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

テルイの首像

 『「日之本文書」とアテルイ・エミシの戦い』より 

 アテルイ

 アテルイとは荒覇吐五王の一人で、祖先は山靼人

 桓武天皇の延暦年間に、胆沢(現在の岩手県胆沢地方)エミシを中心に、五万人以上の朝廷軍を向こうに回して、互角以上に戦い、大勝利をあげた戦いは、日本列島でも最大の先住民抵抗戦争であった。この戦争を指導したのが、。胆沢エミシの族長であり、荒覇吐五王の一人、阿弖流為(アテルイ)であり、磐井エミシの族長であり、荒覇吐五王の一人、母礼(モレ)であった.
彼らは日高見国の種族連合、荒覇吐五王連合の戦士を見事に組織し、神出鬼没のゲリラ戦によって、大和朝廷に大打撃を与えた。
 『北斗抄 十三ノ四』には、阿弖流為が日高見国の中で、どのような地位を占めていたかが記されている。この文章を読めば、王国の構造が見えてくる。
 「荒覇吐五王の一人に四の阿弖流為がいた。日本将軍安倍国東の四天王である。延暦二(七八三)年、安倍国東が領土を武蔵に拡め、その住居を移した。よって胆沢の住居を四丑の阿弖流為に住まわせて、その統治を任せた。
 陸奥の領土を任せたのは阿弖流為のほか、磐井の母礼、飽田の鬼振、閉伊の悟理貴、庄内の勘太、黒川の頼貴、磐城の松蟲等である。これを束ねたのが阿弖流為である。坂東に常駐する日本将軍安倍国東のもと荒覇吐王の指揮によって統治した」 
 阿弖流為とは、現在の岩手県水沢市にある跡呂井(あとろい)を本拠地とする荒覇吐五王の一人、東王である。四丑は「しうし」と読み、現在の四丑橋の地名と関係あるだろうか。あるいは巣伏地名と関係あるだろうか。モレは、現在の前沢町(水沢市の南隣)を本拠地とする五王の一人である。当時の荒覇吐五王は、この二人のほか、高丸王、阿黒丸王、阿氏利為王からなっていた(『東日流外三郡誌 第四巻』[東日流精霊灯之由来])。
 『北斗抄 十三』では、阿弖流為と母礼の祖は山靼人であり、満達からきたとされる。「阿弖流為及び母礼の祖は山靼人である。彼の先祖の出身地は興安嶺満達であり、騎馬首領である。日本将軍安倍安国によって帰化が許され、一族百四十人、老若男女、出羽に渡り、陸奥人となった。それ以来、安倍氏の臣として、騎馬軍師を勤めている」と。興安嶺というのは、中国黒竜江省の山岳地帯で、ロシアに接し、モンゴルにも近い、騎馬民族が跋扈(ばっこ)する地方であった。おそらく軍馬の取引から友好関係がはじまったのであろう。ここにも外来者を快く受け入れて厚遇する安倍一族の度量が現れている。
 阿弖流為、母礼の胆沢連合軍は、千数百人の戦士からなっていたが、これを支えたのはエミシの種族連合勢力、日高見国そのものであったに違いない。和賀、稗貫、斯波、閉伊のエミシ種族連合、東西南北の日高見国も胆沢部族連合を支えたと考えられる。さらに中央の権力争いに敗れた物部氏、大和朝廷に敗れた磐井氏などの亡命勢力が、何らかの支援をしていた可能性もある。日高見国全体では数万人の兵士がいた。

 『北斗抄』[阿弖流為軍鑑]は偽作ではない
  
 「北斗抄 十三ノ九」には、阿弖流為と田村麻呂の責めぎあいについての文章が続いている。その中に「阿弖流為軍鑑」というものが掲載されている。この名簿が創作だとして、偽書派の攻撃を受けている。はたしてそうなのか。
   阿弖流為軍鑑
 櫻河磐具驛(さくらがわいわとものうまや) 磐井土基
 羽田大萬柵巣丑(すうし) 大公多岐志利(たきしり)
 田茂亜吐呂井(たもあとろい) 阿弖流為(荒覇吐五王の一人)      
男女川七清水 伊治公津加奴(いじのきみつかぬ)
北鵜貴(きたうのき)大林苑台 金車流奴
 江刺厳堂柵丑寅 母禮高丸(荒覇吐五王の一人)
 膽澤(いさわ)川羽黒台四丑 大貴利高丸
 日高見川澤尻 森加美彦
 衣川江刺子柵 安倍継重                          
 米澤内牛子 清原吐部
 江尻子和賀丘 津奴多美
 伊津沼太媛迫 及川多民奴
 伊具津保化山(いぐつぼけやま) 玄武東日流丸
 飽多(あきた)高清水 尾野津部奴
  生保内(おぼない)石津 小鴉津化丸
 荷薩體(にさたい)安日山鍋越 大津奴彦
 閉伊崎(とどがさき)十二神 荒覇吐丸

[阿弖流為軍鑑]は阿弖流為のもとに結集した軍事的リーダーの名簿である

 阿弖流為は、荒覇吐国の東王国の王であり、荒覇吐国の軍事総司令官の位置にあった。彼は現在の岩手県の中南部、胆沢を統治していた。この「阿弖流為軍鑑」の十七人の名前を見れば、胆沢、磐井を代表する軍事リーダー(将軍)が多いが、北王国(東日流、荷薩體)、西王国(飽田、出羽)、東王国(閉伊)、南王国(宮城、伊具)の将軍たちも含まれている。つまり、日高見国の五つの王国の将軍が名を連ねているのである。このため一つのリーダーが受け持つ地域は、比較的広域になる。名前に冠している地名は、彼らが受け持つ地域の代表的な二つか三つの地名を表している。阿弖流為の軍隊が、どれだけの人員がいたか。それはまさにこの軍鑑の最後に「右の者は阿弖流為配下の将軍たちである。挙兵すれば、そのたびに皆勇猛に戦う。その数は二万三千人である」と述べられている。彼ら一人一人が千人近くを束ねるリーダーだったと考えられる。この名簿に出てくる名前は、阿弖流為配下の胆沢とその周辺の兵士のそれではなく、荒覇吐王国から結集した軍事的リーダー(将軍)の真実の名簿である。
 将軍は東日流、荷薩體、閉伊、飽多、宮城、伊具、米澤など、東西南北の王国から結集したものであり、前述のように地名は比較的広い地域の二つから三つの地名を連ねて書かれてある。これでリーダーの出身地がわかる。
 それらの地名のほとんどは、延暦年間当時のものが、そのまま使われたと考えられ、一部は再書の段階で明治以降のものに、再書者である末吉や長作によって書き換えられた可能性も否定できないが、万一そうだとしても、それによって偽書ということはできない。
 偽書派は文書の筆跡が和田喜八郎のものだと述べているが、彼の筆跡と明治写本の力強い筆跡はまったくの別物である。それは明治写本を書写した和田長作の筆跡であろう。ダイナミックであり、達筆である。偽書派は「末吉は文盲であり、長作は字を書けなかった」などとデタラメを述べているが、とんでもない思い違いである。彼らもまた、庶民の中の英傑である。

 [阿弖流為軍鑑]の地名は『日之本文書』の真実性を証明する

 最初に「櫻河磐具驛(さくらかわいわとものうまや)」と出ているが、「櫻河」はおそらく現在の水沢地区の四丑村、茄子川村、安土呂井村からなる佐倉河(さくらかわ)村の旧名ではないかと考えている。ここに胆沢城が造られたほどの要衝であった。驛(うまや)というのは、少なくても延暦年間に先立つ天平宝宇年間(八世紀中頃)には、すでに奥州各地に設けられていた驛(当時の幹線道路の要所に設けられた、人や馬の休憩地であろう)のことである。[阿弖流為軍鑑]に二つの地名を合わせた「櫻河磐具驛」という地名がでてきても何の不思議はない。
 「伊具津保化山」という地名が出てくるわけがないと彼らは主張しているが、伊具は宮城県南部の伊具郡の地名であり、津保化というのは東日流に限られた言葉と考えられているが、奥州のかなり広い地域で津保化という言葉、地名が使われていたので、いずれも古代からあった地名、言葉である。実際にこの地名は、現在も伊具郡にツボケ山として残っている。『總輯 東日流六郡誌 全』には「津保化族が居住する地は、東海(奥州の太平洋沿岸)にも伸びていって、亘(わたり)郡のツボケ山まで至った」と述べられている。また『東日流外三郡誌大要』[安倍安東秋田氏遺跡八十八景図]の五十七番には「ツボケ山亘荒覇吐神社」の図が掲げられている。亘とは亘理、和多里とも表記した。
 その他「巣丑(すうし)」は四丑(しうし)ないしは巣伏(すぶし)、「亜吐呂井(あとろい)」は跡呂井(あとろい)、「伊津沼」は伊豆沼(宮城県栗原郡)、「安日山」は安比山(岩手県八幡平市)、「北鵜貴」は北鵜ノ木(水沢市黒石町)、「崎」はヶ崎(宮古市重茂(おもえ)半島)、「日高見川」は北上川、「江尻子」は江釣子、「飽多」は秋田に変化したと考えられ、疑義を差し挟む余地はないだろう。
 江刺、衣川、米澤、和賀、生保内(おぼない)、田茂(山)、膽澤(いさわ)、荷薩體(にさたい)、高清水(秋田県秋田市 秋田城のあったところ)などは、一部簡略体となって現在でもそのまま使われている。

 [阿弖流為軍鑑]の人名「磐井」は九州王朝の勇者から来ている

 [軍鑑]の人名も本物であろう。そこに「磐井土基」という名前が出ており、「磐井」という名前が、偽書派は、九世紀のはじめに立県されたとされるので疑義があるとしているが「磐井」の地名がなぜ使われるようになったか、まったくわかっていない。「磐井」の由来について納得できるかたちで説明している偽書派は一人もいない。
 岩手県の南部に西磐井郡、東磐井郡という地名が残っているが、これは六世紀の継体天皇に反抗した「磐井の乱」で有名な九州の王族であった磐井氏が敗北し、日高見国の磐井地方に亡命したという記事が『日之本文書』に載っているように、磐井という地名は当地に亡命してきた九州の磐井氏から名付けられたことは間違いないだろう。
 「丑寅風土記 第全六ノ四」[丑寅日本国奇談]には「安倍一族をして筑紫、磐井一族と親交があり、磐井一族が敗れたときは、その郎党一族を奥州に招きいれたのは陸州磐井郷なり」と述べている。「磐井土基」という人物も当地へ亡命してきた磐井一族の流れと考えられる。
 荒覇吐一族のものは、姓のないものが多く、丸や奴や彦がつくものが多く、現代人が勝手に付けたものではない。安倍姓も当時から使われていたのであろうが、清原姓については当時から使われていたかは、まだ判断がつかない。阿弖流為の大墓は「たも」と読み、田茂からきているだろう。このように[阿弖流為軍鑑]の名簿は『日之本文書』の真実性を表現しているのであり、偽書派の何の根拠もない批判にさらされても、少しも揺らぐものではない。

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2014年7月4日金曜日

❏逆説・阿倍比羅夫東征の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

斉明征夷と秋田エミシ

 斉明征夷軍の将軍安倍比羅夫は安倍一族の出身であった

『東日流外三郡誌 第二巻』に真実を聞いてみよう。「元禄十年正月二日 藤井伊予」の署名のある[安東一族抄]はいう。この短文に倭国史が語らない興味深い史実が少なからず含まれている。
 「孝元帝の流胤(りゅういん 子孫)である安倍比羅夫は、朝廷から奥州東日流の蝦夷討伐の勅を奉じてきたものの、もとより比羅夫は荒覇吐一族に系ずるものなので、戦いをもってなさず、和をもって親交しようとしたことは歴史にいささか残っている。
 荒覇吐族の五王もまた、比羅夫に習って姓を安倍と号して、ここに安倍安国を姓の創めとした。                        
 すなわち、東日流から政処を閉伊に移してから、荒覇吐族の政治的な統一が成り難く、東日流の馬武(うまたけ)、宇曽利の青蒜(あおひる)、飽田の柿美、都母の宇佐、爾薩体(にさたい)の阿羅、閉伊の安邦らの荒覇吐五王の掟を破るものが出て、奥州一統の権は安倍安国が陣頭に、奥州一統の治司を布告して、従わない者は討伐した。
 安倍安国がまず兵を備えることを第一義として、軍馬となるべき種馬を靺鞨(まっかつ)から入手せしめて、祖来の騎馬軍を指揮せしめ、日下(ひのもと)将軍として奥州に大君臨した」
 この文章で、安倍比羅夫が荒覇吐系の一族であること、なぜ、荒覇吐族が安倍の姓を名乗ることになったのか、荒覇吐一族にも内部対立があったこと、荒覇吐族が軍馬を靺鞨から入手していたことなどが認識できる。靺鞨というのは、中国北東部に住むツングース系の騎馬民族で、粛慎と人種的にも、文化的にも、居住地域も重なる部分がある。
 『日本書紀』では征夷軍が、蝦夷に禄物と冠位と領土を与え、饗応して、戦闘を交えずに、荒覇吐軍を屈服させたことになっている。そして、朝廷の政庁を作って、役人を任命し、帰国している。つまり、征夷軍の遠征は成功裏に終わったことになっている。しかし、……。

 斉明天皇と安倍比羅夫による懐柔策も失敗
 
 前記の『日本書紀』の記述と『日之本文書』の記述を比較してみよう。まったく正反対のことが書かれてある。『東日流外三郡誌』には、荒覇吐族が手を変え、品を変えのさまざまな懐柔策にもだまされず、いかにして斉明天皇が派遣した安倍比羅夫の征夷軍を撃退したかを事細かく、より具体的に描かれている。『東日流外三郡誌』[東日流国古今抄]から。
 「斉明帝元年、難波の倭王宮に柵養荒覇吐族郡司九人、東日流荒覇吐族長老六人が招かれ、騎馬軍人六百人を従えて談義する。
 しかるに荒覇吐の居住地において、五王の制を異土の習として改め、彼らが倭国王の習に従うべきと言われたが、即答はせずに、比羅夫を赴かせて証明すべしということになり、冠二階を与えて帰した。
 同帝四年に比羅夫は船百八十艘を率いて東日流に赴き、荒覇吐族との体面を求めたが、倭国王に帰属するという答を得られず、空しく有浜に布陣し、いざ荒覇吐族討伐に兵を挙動しようとしたが、荒覇吐族はこれを察し、陸と海から安倍軍団を囲んで、あわや惨事の兆を起こした。
 時に比羅夫は、その討伐の準備を鹿狩とあわてて取り繕いはじめて、兵は弓楯を踊り用に変えて、大円形に後方の原野を踊り詰め、人垣に囲まれた獣、すなわち鹿二十匹、兎六十八匹、狐七匹、狸二十八匹、熊三匹、野生馬十七匹、山鳥三十一羽の狩をなして、荒覇吐族の蜂起をかわした。よってそのまま大饗を催して、獲物を供しながら、唄い踊ったという。
 このようにして危うく難を逃れたが、荒覇吐族を倭国へ従属させるという目的を果たすことができず、比羅夫は軍船に荒覇吐族と取引した北の海産物をもって、彼らの貢と称して退却し、朝廷の宮人に対して、取り繕った。
 比羅夫の一行は、このような失敗、失政をさらに取り繕ろうために、その翌年、軍船二百艘をもって荒覇吐族を再び討とうして、強くて勇気のありそうな者をそろえて来襲したが、東日流に討伐を避けて、粛慎へ遠征して帰ったという」
 比羅夫が作ったとされる政所については『東日流外三郡誌 第一巻』[安倍一族暦録]は「荒覇吐一族の長に安倍の姓を授け、ここに和交が成立して、東日流有間浦の恵留間崎に司津を置いて、阿部津刈丸にその任を与えたが、これは名前だけで、一族の暮らしに変わったことはなにもない」とこきおろしている。彼らの懐柔策は失敗に帰しているのである。

 安倍比羅夫の征夷を跳ね返した族長たちは荒覇吐王になっている

 面白いことに『日之本文書』には、『日本書紀』などにも出てくる荒覇吐一族の側の人物名も特定できるもの幾つかあるのである。『東日流外三郡誌 補巻』の[安倍大系譜控]という文書には、以下の王の代、王名、国名、君臨地、生地まで記載されている。
        代      王名             国名             君臨地               生地
 二百十一祖 青比留(青蒜) 稗抜(稗貫)      飽田         黒盛
 二百十二祖 青荷(恩荷)  宇曽利       皮内(下北川内)   錦渓
 二百十三祖 馬武      東日流       有澗         大里
 二百十九祖 安倍安国    来朝(くるま 宮城)多賀         衣川
 四人の代が集中しているので、同時代に活躍した人物とみてよいだろう。『東日流外三郡誌』にも『日本書紀』にも東日流の馬武、飽田の恩荷と記述されていたが、君臨地、生地もほぼ一致している。既述のように[安東一族抄]に「安倍安国を姓の創めとした」とあるように、安倍安国は第二百十九代の荒覇吐王で[安倍一族之事正伝大系譜]では飽田高清水主の安国日高見丸、[安倍大系譜控]では安倍安国と安倍姓をはじめて名乗っていることがわかり、衣川で君臨している大王である。
 前述のように『東日流外三郡誌 第一巻』[日下抄]では「荒覇吐族の勇者津刈丸の従臣、馬武、青蒜らの戦功が大なり」と描かれているが、おそらく津刈丸は荒覇吐五王の一人、馬武、青蒜は、この時には津刈丸の従臣(青蒜は県主)であったかもしれないが、後には彼らも荒覇吐王になっていたのである。いずれにしろ、安倍比羅夫の征夷に対して、荒覇吐国全体で対抗したと考えられる。
 『日本書紀』は「蝦夷に冠位や物品を与え、饗応したら蝦夷は屈従した」というような書き方をしているが、朝廷側の勝手な創作であるにすぎない。与えたとされる冠位の大乙上は大化五年に制定された位の中で下位のもので、小乙下にいたっては最下位のものである。これで誇り高い荒覇吐族が納得したとは到底思えない。

 海戦での多様な荒覇吐族の戦術で安倍比羅夫軍を撃退

 荒覇吐族の戦術は多様を極め、たとえば『東日流外三郡誌 第一巻』[東日流外三郡誌抜抄篇 第一」では、秋田の「地湧(じわき)の油」、つまり石油を燃やして上陸を阻んだり、ハタ舟という小舟を操って軍船を囲み、火箭を海に放なって軍船を炎上させる模様が生き生きと描かれている。『東日流六郡誌絵巻』では、比羅夫軍と荒覇吐軍の海戦については、次のように述べている。
 「顕慶(唐の高宗時代の年号)戊午(つちのえうま)三(六五八)年(斉明四年)、阿倍比羅夫は、越において軍船百八十艘を造り、奥州沿海を侵領略奪し、東日流の吹浦に上陸しようとしたが、浜辺に黒煙が昇るとすぐに海上に炎が上がり、比羅夫の軍船百艘に燃え移った。海を燃やしたのは地に湧く油であり、荒覇吐族の武器である戦意を失った比羅夫は降(くだ)って飽田(秋田)の県主(あがたぬし)の青蒜に貢(みつぎ)し、帰遁した。
 翌年、比羅夫は再び戦いの準備を整えて、東日流外浜に来襲した。このとき宇曽利の波舵(ハタ)、都母(つも)の波舵が、木葉のごとくかの大船に戦いをいどみ、油火弾弓によって炎弾を撃ち射れば、阿倍の軍船は移り火を消している間に、舵を荒覇吐族に破られて、迷走しながら沈没した。
 比羅夫が再び降るときに、東日流の馬武、宇曽利の青荷、粛慎の役舎因(やくしゃいん)らが、比羅夫を赦免にするか、死罪にするかを談義した。赦免にすると決定したので、残った船二十艘に詰め乗せて放逐した」
 これらの『日之本文書』を読めば、荒覇吐族は、東日流の馬武、宇曽利の青荷、飽田の青蒜が共闘し、さらには大陸の粛慎、渡島のアイヌとも連携していたのである。また、飽田の石油、宇曽利(恐山)の硫黄も武器に使い、宇曽利と都母の荒吐船の波舵(ハタ)を動員している。すなわち荒覇吐一族の抵抗は、荒覇吐国家の総力戦に近いもので、とても倭国の征夷軍が勝利できるようなものではなかった。荒覇吐族は同族に免じて、比羅夫を赦免したのであろう。


❏秋田孝季(たかすえ)とは

日之本クリルタイ運動から引用
秋田県に関することを抜き出します









秋田孝季

 当時第一級の知識人であった秋田孝季は長崎の出島などで最先端の洋学を学んだ

『日之本文書』編纂の中心人物である秋田孝季は、江戸末期にあって、なぜ、宇宙史的、地球史的、人類史的文献をまとめることができたのか。孝季は長崎出島目付役の橘左近将督の子どもとして生まれ、隆将(たかまさ)といった。父親は洋学を学んだことで失職し、孝季が青年期に死去した。母親は久世隠岐守広敦の娘紀で、夫が亡くなった後、三春藩主秋田倩季の側室となり、隆将は秋田孝季と改名する。
 その後、孝季は父の縁で長崎に学び、学問を修めていたのである。彼は父親の影響で外国語にも堪能で、出島に来航していたオランダ人、イギリス人などの学者、駐在公司などから、当時最先端の洋学を学んでいた。彼はロシア語、オランダ語、中国語、ラテン語に通じていたとされる。孝季は長崎外藩目付け、平戸商館の通訳をするが、アジア通商の中心地であったマカオにオランダ船で密航し、イギリス人学者に学んだために職を解任され、秋田土崎に戻っていた。
 その後、老中田沼意次と三春藩主から命を受けて三度のユーラシア探訪、四十年近くの間に、日本列島探訪を繰り返した。このため当時において、稀に見る広い知識を身につけることができたのである。それなくしては『日之本文書』(『和田家文書』)は成立しえなかった。

 北方、シルクロード、オリエント視察のきっかけを作った田沼意次

「北鑑 第四十九巻」「記」は『日之本文書』の来歴を次のように述べ、「丑寅日本の宝書となるであろう」と述べている。しかし、その価値は人類史的なものと成り始めた。
本書(北鑑)を書写する方法は、秋田土崎(現在の秋田市)において焼失した原書の控えの書であり、原書に入っていなかった雑記も、ことごとく記述したものである。よって原書より諸史、諸雑話、諸伝の玉石の混淆(ぎょくせきのこんこう)した綴(つづ)りとなったが、歴史を尋ねた幾十年の旅に続けた諸国の縁(えにし)によって、皆、記入したものである。
 失われゆく故事来歴を、丑寅日本国(うしとらひのもとこく)にとどまらず、田沼意次(たぬまおきつぐ)殿の特別の許可によって、山靼(さんたん)、古代オリエントの諸国に出掛け、歴史の根元を探ることができた。われらが永きにわたり、まつろわぬ化外地(けがいち)の蝦夷といわれて、先祖から開化を止められてきたが、本書は必ずや丑寅日本の宝書となるであろう」
 なぜ、『日之本文書』は、江戸幕府の鎖国政策のなかで、シュメールやシルクロードの情報を収集できたのか。なぜ、このような探訪が可能になったのか。江戸末期には、江戸幕府はロシアによる極東における南下政策に危機感をいだいていた。時の老中田沼意次の指令によって、三春藩主導の北方探検が行われたのである。
「日本北鑑 全」の[丑寅日本鑑證]によれば、天明元年(一七八一)年七月、田沼意次が、三春藩藩主、秋田倩季(千季 ゆきすえ)に北方地域や山靼国の視察を依頼し、倩季が秋田孝季に禄を与えて、この大旅程に旅立たせた。三春藩は石高こそ多くはないが、安倍一族以来の大陸交易などで蓄積した隠し財産があったようである。
 秋田孝季は、一七七〇年代、八〇年代に合計三回の山靼探訪、シルクロード、オリエント探訪を行っている。シベリアからステップ・シルクロードを通って、メソポタミア、エジプト、ギリシアにまで出掛けている。この間、多くの地図や書物を手に入れ、書き記した記録は数十巻にもなっている。この三度にわたる山靼探訪が、『日之本文書』をしてインターナショナルな文書になさしめたのである。山靼探訪をおおまかに振り返ってみよう。
 第一次山靼探訪。安永三(一七七四)年、秋田孝季ら八名。田沼意次の直命。土崎→サガリイ→モンゴル→満達→北京→揚州→日本。中国の古書を購入。
 第二次山靼探訪。安永九(一七八〇)年から天明二(一七八二)年まで。田沼意次の直命。秋田孝季ら二十二名。サガリイ→モンゴル→天山→トルコ→ギリシア→エジプト→イスラエル→シュメール→天竺→西域→揚州→松浦。田沼意次への報告書もまとめる。
 第三次山靼探訪。天明六(一七八六)年から天明八(一七八八)年まで。松前藩、渡航準備。幕府(田沼意次)公金三千両三春藩に賜り、孝季に下領。意次失脚。渡島→樺太→黒竜江→チタ→ラシュト(カスピ海)→バグダッド→黒海→イスタンブール海峡→エーゲ海→トロイア→ギリシア→エジプト→シナイ半島→紅海→天竺→中国→帰途。極秘裏の偵察旅行であったが、幕府公認の大事業であった。幕府は公金三千両を三春藩を通じて孝季に下領されたという。

❏東日流外三郡誌は「日之本文書」として




『日ノ本文書』寛政原本
秋田県に関することを抜き出します






『日之本文書』

 『日之本文書』は秋田氏の三春藩の民衆が中心に編纂した

 『日之本文書』(『和田家文書』)は、どのようにして成立したのか。奥州三春(みはる)藩主秋田倩季(よしすえ)は「太古からの祖伝を東日流より諸縁者を訪ねて、安倍、安東、秋田一族にまつわる諸伝を集綴(しゅうてい)するように」との通達を出し、この命を受けた秋田土崎湊の秋田孝季(たかすえ)と津軽飯詰(いいづめ)の和田長三郎吉次(よしつぐ)らが、日本全国を行脚(あんぎゃ)して、一七八九年(寛政元年)から一八二二年(文政五年)の三十三年間に収集、聴取、編集、著述した文書である。
 安倍氏、安東氏、秋田氏の累系である三春藩は、天明五(一七八五)年の城下の大火災で大きな被害を被っている。城の文庫も焼落し、多くの史書、諸書、文献が焼失してしまった。しかし、この不幸な災害を契機として、『日之本文書』という壮大で貴重な文書の収集、編纂がはじまったのである。
 その後、城下再建のために借財に苦しむ三春藩からの援助も途絶え、秋田家、和田家ともに全精力を集中し、私財を投げうっての一大事業となった。さらに、これらの伝承、記録を文書の損傷、焼失などから護るために、江戸末期には和田基吉、権七(ごんしち)、明治に入って、末吉が大正のはじめまで、長作が昭和のはじめまでに再書、加筆してきたものである。秋田家の正本は焼失し、和田家に残された副本だけが残り、そのために『和田家文書』とか『和田家資料』とか呼ばれてきた。
 現在に伝えられた『日之本文書』は数千巻にのぼり、それは実にシュメール都市国家からはじまった共同体国家の歴史書であった。それは諸民族の語り部が語り継いできた伝承の集積でもあった。ここにこそ人類の真の歴史が叙述されていることが認識できる。ここにこそ人類の良心が凝縮していることが認識できる。この平和と和睦と盟約と平等と連携の世界、すなわちクリルタイの世界に生きてきた人々の歴史こそが、人類に共有されなければならない。

『日之本文書』は朝幕藩ご法度、門外不出の禁書だった

 『日之本文書』には、倭国によって創作された『古事記』『日本書紀』などと違って、歴史の真実が克明に描かれ、倭国の日之本国に対するさまざまな横暴、侵略行為が、生々と描かれているために、「他見無用」「門外不出」「朝幕藩法度」の禁書であった。この禁を犯していることがわかれば、文書の没収、焚書のみならず、当事者の流刑、処刑もありうるのである。秋田家の出火も三春藩の大火も、その筋による放火の疑いが強い。
「北鑑 第七巻」[書意]は、『日之本文書』寛政原本の再書作業、写本作業について、具体的に描いている。この文章には「大正元年正月一日 和田長三郎末吉」との署名があるように、明治写本の当事者である末吉のものであり、『日之本文書』の性格と変遷過程がわかりやすく、謙虚さをもって解説されている。彼の日之本の良民としての人柄がしのばれる。
「この書は古紙に再筆しているため、はなはだ読み取りがたい文章となり、誠にもって申し訳もない綴り方に相成り、これも百姓ゆえの貧しさに、紙代もままならず、ここに読み取りの労を心中からお詫びし、その旨を書き添えるところである。また、小生の請願に、この古紙を快く提供していただいた佐々木氏(五所川原の商家)に対して、有り難く感謝に耐えない次第である。
 この史書は、わたしが綴ったものではなく、父及び先代の残した虫食いで朽ちたものを廃棄にしのびず、ここに再書をもって残して置いたわが志しに理解をいただき、夜明けである時々進歩する大正の世に、文語のものを解りやすく綴ったものである。
 しかるにこの書は世にはばかり、倭国史が敵視するものである。よって代々にわたって日の目をみることがないのは無念に思うが、残し置くことによって、永代後に必ずや真実を表す鍵となるだろう。よって門外不出を心得、また、他見無用として、わが東北の日本史として大事とすべきである。真実は二つなく、また、その上の論はないだろう。よく心得るべきであろう」
 この文章にも触れられているように、虫食いの寛政原本を明治、大正、昭和の初期に、和田末吉とその子息、長作が五所川原の商家から譲り受けた大福帳の裏に再書したものが現在も保存されている。明治写本と称される。そして今、「永代後に必ずや真実を表す鍵」となって、われらの眼前に出現したのである。これは奇跡の中の奇跡である。

 『日之本文書』への倭国勢力による未曾有の偽書攻撃と奇跡の復活
 
 『日之本文書』は、昭和四〇年代に青森県五所川原市の和田家から発見され、昭和五〇年以降に『市浦村史資料編 東日流外三郡誌』の三巻本として市浦村から発刊された。和田家は『日之本文書』の編纂、再書に深くかかわってきた家系であった。この文書が『古事記』『日本書紀』などの公認史とはまったく逆の立場から、すなわち征服された人々の立場から真逆の歴史が書かれていたために、大変なブームを引き起こした。
 しかし、倭国の公認史やアカデミズムの歴史観をまもろうとする、揚げ足取りや新説否定を得意とする偽書派によって、『日之本文書』の中の『東日流外三郡誌』が、集中攻撃を受け、三〇年以上も前から「偽書」のレッテルが貼られてきた。この攻撃たるや執拗で、組織的で、極めて悪質なものであった。
 偽書派の批判は、元の所蔵者とその行動に対する論難がほとんどであり、『和田家文書』に対する正当な批判はほとんどまったくなかった。彼らの『和田家文書』に対する論難はほとんどあたっていない。『和田家文書』は再書、加筆が繰り返されてきた伝承文献であるために、誤解が生じやすい文書であるが、悪意をもって特定の勢力の利益ために故意に捏造された「偽書」という範疇にはまったく入らない。『和田家文書』(『日之本文書』)は真実の書であるだけでなく、奥州人、日本人、いや世界の人々、人類にとっても貴重な文書であることは、偏見のない、真摯な立場で研究すれば、理解できるだろう。そこには宇宙史、地球史、人類史からはじまって、シュメール系の共同体国家の歴史が、連綿と詳述されているからである。
 六年前ほど前から流れが変わってきたのである。寛政原本の一部が膨大な文書群の中から出現し、それが寛政年間に書かれたものであることが、責任ある研究機関、研究者、すなわち国際日本文化研究センター研究部教授笠谷和比古氏の手で証明され、「『東日流外三郡誌』は現代人が創作したものである」という偽書派の最大の論拠が崩れたのである。さらに活字化されていない文書も公開されはじめ、それの研究も本格化しはじめ、その研究成果も公表されはじめている。『日之本文書』は奇跡の復権をはたしたのである。