2014年1月24日金曜日

❏十和田湖噴火「青森・六ケ所村に火砕流の痕跡」

十和田湖噴火は当然偏西風で東方向へ


青森・六ケ所村に火砕流の痕跡 再処理工場の敷地に2回

2014年1月19日 19時26分

 日本原燃の使用済み核燃料再処理工場(青森県六ケ所村)の敷地に、火山噴火に伴う火砕流が3万2千年前と1万5千年前の2回到達した可能性が高いことが19日、原燃が原子力規制委員会に提出した資料で分かった。いずれも南西約60キロの活火山「十和田」(青森、秋田両県)の噴火によるもので、原燃の調査で痕跡が確認された。
 規制委の「火山影響評価ガイド」は、火砕流が及ぶ可能性が十分小さいと評価できない場合は原発の建設を禁じており、規制委が進める再処理工場の審査で、これらの痕跡をどう判断するか注目される。


(共同)
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やませが運んだ説に疑問

 なお、本コアには残念なことに10世紀の十和田火山起源のTo-aテラフが認められなかった。この原因については、偏西風や地上風の風向のほか湖底での堆積物重力流による削剥などが考えられるが、現在のところ不明である。

2009・11・20日前後のブログに疑問点をたくさん載せています
・本当に噴火があったのか
・なぜ「やませ」で西の男鹿半島まで飛んだのか
・博物館展示と今回の論文の違いは何か

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謎解きの楽しみが続きます・・・・・


2013・8・24追加です

「やませ」と同じ冷たい空気が動く様子です。


桜島の噴火情報も合わせて

8月18日、鹿児島市の桜島で大規模な噴火が発生し、噴煙が5000mの高さにまで到達。

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❏「錦木塚物語」動画紙芝居と「歌枕」について

錦木塚物語・・・完成アップしました

1,動画紙芝居アップ
「錦木物語」は「錦木」と「ケフの狭布」の歌枕がわからないと
何にも面白くもない、ただの悲恋物語です。下に歌枕のことを記しています

https://www.youtube.com/watch?v=Bd5fnF8IIbU


2,歌枕とは何か

枕詞とは、土中の闇に眠る種子のようなもので、そこからやがて芽が生じるように歌がでてくるのです。眠るときに使う枕としての言葉が枕詞です。

・足引き・・・泉津平坂(よもつひらさか)を足をひいておりてきた・・・山(やま)

・脚引き・・・葦を引き抜き田となしヤマトの国を固めた・・・大和(やまと)

・枕詞・・・道が徹(とお)る前の状態を表す。

枕詞は単なる修飾的な言葉ではなく、その中に神々が古代に切り開かれた歴史が込められているのです。(ケフの狭布も同じ)



3,ホツマと平安の歌枕

ホツマツタエの歌枕と平安時代の歌枕の比較です
錦木塚物語に出てくる「歌枕」で比較します

ケフの狭布も錦木も何なのかははっきりしないまま
不思議な異国のものとして歌あそびしていたのですね・・・都の人々は!

4,歌枕「錦木」の歴史探訪

「錦木」と「ケフの狭布」の歌枕を通して
東北の歴史を調べています



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2013年7月31日水曜日

■915年十和田湖噴火は本当にあったのか?

915年十和田湖噴火の疑問が未だ融けません

1,2009年11月18日のブログ
県立図書館で一の目潟の年縞を見ての疑問でした
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秋田県立博物館の「年縞」展示と、その解説の中での十和田火山に」関する疑問点です。

1、年縞展示です
青札の上が白頭山の噴火の火山灰(938)
下が十和田a噴火の火山灰(915)




左が白頭山火山灰
右が十和田a火山灰

これは別途資料


3、男鹿で確認された広域火山灰




赤の囲いが十和田a火山灰(915年)といわれるもの。





黒の囲いが十和田八戸火山灰(1万5千年前)









4、火山灰・降灰分布図




十和田a火山灰の範囲は西側にはほとんど来ていませんが、どうして男鹿に火山灰の跡が残っているのでしょうか。







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2,改めて年縞調査記録


第 3 章 
地域環境史調査
本調査研究では、秋田のローカルをグローバルに直結させるために、2006年11月に男鹿市で年縞に
関する国際ワークショップを実施したほか、2007年3月には、国際的機関IGBP、AIMES、GES、IHOPEと日本学術会議、地球環境戦略研究機関、環境省と共催で国際シンポジウム「地球と人類の未来-アジアから考える」を秋田県大潟村で開催した。この国際シンポジウムでは、目潟の年縞に関する分析結果を報告することによって、目潟が世界の目潟として認識された。なぜ年縞のある美しい大地で文明が発展しえたのかを、そしてこれからの地球と人類の未来はどうなるのかについて、年縞を核にした比較調査研究を実施することによって、秋田のローカルがグローバルに直結した。そのことがとりもなおさず美しい年縞のある秋田県北西部の人々の自信と誇りにつながり、美しい地域の風土への愛着をもたらし、秋田県の人類文明史における位置と未来を予測する上で大きく役立つはずである。
 〔国際日本文化研究センター教授 安田喜憲〕


3,915年十和田湖噴火が見えない

ネットでこの資料を見つけましたが、この資料発表の後で見つかったのでしょうか・・・
抜き出して記します
 なお、本コアには残念なことに10世紀の十和田火山起源のTo-aテラフが認められなかった。この原因については、偏西風や地上風の風向のほか湖底での堆積物重力流による削剥などが考えられるが、現在のところ不明である。

4,やはり疑問

2009・11・20日前後のブログに疑問点をたくさん載せています
・本当に噴火があったのか
・なぜ「やませ」で西の男鹿半島まで飛んだのか
・博物館展示と今回の論文の違いは何か

・・・・・・

謎解きの楽しみが続きます・・・・・


2015・7・12追加です

「やませ」と同じ冷たい空気が動く様子です。


桜島の噴火情報も合わせて

8月18日、鹿児島市の桜島で大規模な噴火が発生し、噴煙が5000mの高さにまで到達。

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2012意識のルネッサンスを経て
既存のすべての壁が壊れています。すべての事の真実がわかってきます。







2013年5月2日木曜日

■菅江真澄著「水の面影」現代語訳に着手

秋田市寺内の歴史を探求するためには菅江真澄のお力が重要です。

1,菅江真澄

「水の面影」現代語訳

前半、後半に分けてアップします。

中野みのるさんの訳を活用しましたが、かなりの部分を訂正しております。


ただいま再度、グループで校正中です

完成したら載せます

2013年2月22日金曜日

■大湯ストーンサークル昭和17年発掘について


昭和17年発掘

 
 この発掘は大東亜戦争中でもあったが当事者の熱情は之の困難を超えて発掘したものであり、野中堂及万座の現に見られる殆んど全貌を現はした。当時大湯の高木新助氏の関係して居られた新聞紙に依って一部の報道を呼ぶれば下記に見られるようであります。
昭和17年8月5日の東京日日新聞秋田版「国立公園十和田湖の外廊とうべき高台になっている鹿角郡大湯町字中通りの万座台の火山灰のうちから神代文化の遺跡が発掘された。之は昭和10年ひもろご研究の旅を全国につづけている東京市京橋区築地会館にある神代文化研究所理事、神代文化の権威者田多井四郎治氏が大湯町の諏訪富多氏宅に立ち寄った際に非情に珍しい土器の壷を見て田多井氏は発掘現状を視察し何事かうなづいて帰京したが、その後あらゆる角度から土器の壷発見現状を調査研究の結果7年目に神代文化の遺物のあることを同氏は確認、神代文化研究所の主事小寺小次郎氏を同道、諏訪氏の協力を得て去月23日以来20名の人夫を雇い本格的な発掘を開始した。今盛んに発掘調査が進められているが、未だ嘗て全国にその例を見ぬ、日本神代文化を研究する上に絶対必要をされている。
 直径20間と30間の川原石で組み立てられた建造物の大きな遺物及び東西南北をはっきり示したいろいろな川原石ででたものが、十和田湖の最初の噴火に降ったその火山灰の中から発掘され田多井、小寺、諏訪、三氏を狂喜させめている。又この外前記の遺物発見現処より余り遠く離れていない所で深さ7尺、直径4尺の縦穴を発掘したところ、この縦穴の中には立派な鏡の如く磨かれた金鉱石を発見して、穴の底は瀬戸物を焼く粘土が塗られ、穴の周囲には朱が点々と交じっている。現在発掘された遺物は、如何なるものであるか未発表のままであるが、田多井氏の研究発表の暁には、我が秋田県は神代文化の中心地であったのではないかといわれる。又続々と発掘されているいろいろな土器の破片を自ら洗って調べている田多井氏は語る「現在発掘作業を続けている場処から出る土器は決してアイヌの遺物ではない。発見された破片の中には日本民俗の遺物と言われる銅鐸にかかれている模様と殆ど同様寸分たがわぬと云ってよい非常に珍しい模様が出ている。これ等はいずれも石の遺物にしろ、金鉱石の鏡にしろ、全部が最初の火山灰の中に埋もれてあったと云うことは、いかなる学者が来られても事実は立派に証明している。され発掘された遺物は何であるかと云うことは只今御話しが出来ないが、私には大体の見当はついている。兎に角日本民族の遺物、神代のものだと云うことだけはお答えできる。それは簡単に年代の判る方法は所詮火山灰がどの位の年代が経ったらジワ土になるか、又十和田湖の最初の噴火はいつ頃であったかということが見当ついたなら、今発掘されている遺物に対する見通しがつく筈である」
 昭和26年12月26日に「大湯環状列石」として国指定特別史跡に指定された鹿角市十和田大湯の「大湯環状列石」(俗にストーンサークル)という名称で知られています。
 その遺跡の発見は昭和6年と言われています。その後幾多の困難を克服しながら上記17年には諏訪氏などの功労によって本格的な調査が展開されます。
 私も本文献の紹介作業を初めてから本文内から幾つもの新事実を発見しています。意外にも国の調査報告は片通りのものでしかないかが良く判ります。別の章でもご紹介していますが、国の発表は、基本的に前例になぞった報告書が作られています。大湯環状列石でこれまでに見当たらない事実があったとしても、それは未確認事項としてあつかわれているようです。したがって、前例の無い事実は埋もれている可能性がとても高いと感じます。
 実際に、「金鉱脈の鏡」などはほとんど知られていません。
 また、これに類似した事実で、鉄剣の発掘報告もあり。
闇から闇に葬りさられた、聞き捨てならない事実は相当量に及びます。
本章は「金鉱脈の鏡」の存在を確かに伝えています。大湯環状列石における鉄器の有無は考古学に於いては論外の報告かもしれませんが、出土していることは事実です。
 これを知った皆さんも一種の証人になり得ます。そでも大湯環状列石は単なる4500年ほど前の縄文墓地なのでしょうか…

■ストーンサークル発掘経緯


高天原に至るまで

 
高天原に至るまで 霊泉記
本日は昭和50年2月11日建国記念日であります。ここに私は思いをいたして高天原に至るまでの発想を書くことになりました。然し今は特別史跡大湯環状列石と云う遺跡の発掘からはじめます。
大湯環状列石
此の遺跡の発見は昭和7年12月と云うことになります。大湯の浅井小魚と云う人が発見、次いで大湯郷土研究会が発足して之れを発展させたと云うことになります。今発見後から今日に至るまでの次第を申し述べるに先き立ちて、先ずその意義の重要性を概略申し述べることにします。
喜田貞吉博士の見解
昭和8年5月22日喜田貞吉調査の要点(この時は野中堂遺跡の環状の一部、約30米位現れていた)
一、我が国に例なき珍しきものなること
ニ、環状石離とは言われぬこと
三、現状を今少し発掘して、石の一部を取り除き、石の下を調べたきこと
四、土地の名称を取り「中通遺跡と仮りに名称を定めたきこと
 以上のように大湯郷土研究会の記録に乗せてありますが博士の公演のうちには
 我が国の例のないもので、その形式に於いて殆ど類例を知らない。詳細なる研究は更に全面的に発掘して全貌を観察せる結果にまたなくてはならない。
 現在に於いては全く特異の形態で、大湯式環状列石籬と云うべきものでしょう。
 現状を更に発掘して石の一部を取り除き、石の下層をも調査して見たいと思う。近いうちに再び来て調査しましょう。かつて見たことがない遺跡であるからウッカリしたことは言えない。他の方ももう一度調べて後日結論を出すことにします。
先住民中通遺跡碑の建設
昭和12年5月に左の如き碑を建てて、しばらく保存しておくことになりました。
此石標の南北ニ個処に埋没する環状石群の発見は昭和7年極月耕地整備に其の端を得且此地一帯は諸種遺物の豊富なる包含地なるが故にこの種文化将来の開明を期し暫く発掘を停止して此秘蔵を封じ置くものなり
○昭和12年5月 ○大湯郷土研究会
之は発見者の浅井小魚の文字で、大湯の高木新助氏等が主として尽力せしものであります。
短い文章が多い章ですので
『高天原に至るまで』『大湯環状列石』『喜田貞吉博士の見解』『先住民中通遺跡碑の建設』の4ブロックを合わせて紹介しました。
最初の『高天原に至るまで』 霊泉記とありますが「霊泉」とは諏訪富多の俳号です。大湯環状列石の発掘のはじまりのころの事を「高天原に至るまで」というタイトルにしているところなどは、諏訪富多の大湯環状列石に対する神話的な展開の期待が伺い知れます。
『大湯環状列石』では発見者が浅井小魚であることを明確に記述しています。
『喜田貞吉博士の見解』では当時の研究が慎重にも慎重を期して行われていたことが解ります。
また、本章の挿絵が黒又山の写真が掲載されており写真説明に「大湯遺跡付近大ピラミッド」とあります。昭和の始めごろから黒又山がピラミッド視されていたことがよく解ります。
文中に登場する「太古の神都十和田高原」第7号に掲載されている「大湯遺跡付近大ピラミッド」の写真。
 ※おそらくは現在の黒又山かと思われます。

2013年2月9日土曜日

■特別史跡 大湯環状列石発掘日誌(2/2)


昭和17年に第二次調査まで行なっています。



3,第二次発掘日誌
昭和17年
9月11日 午後毛馬内駅出発、12日午前5時35分東京上野着。午前9時直ちに神代文化研究所訪問す。
       (京橋区銀座西二丁目3-8)
       小寺君に面会。本日田多井氏及び中村理事長等に面会、親しく協議することを話す。
       田多井氏の事務所に至り同氏と面会。中通遺跡発掘の重大意義を話合い、之を継続して益々日本の神磧を中外に宣揚する決心なる事を確め、種々話合す。中村理事長も来り、発掘継続を大に希望しゆくゆくは此の事業を
       八紘為宇の参謀本部の基礎とせんと期待し、猶理事会の決議に附し、相当額の費用を支弁する話合いあり、夜6時58分上野駅発帰途、此時田多井氏は更に15日迄に大湯に来着視察する事に決し、15日迄に人夫の手配を依頼せられたり。
  14日  高木氏訪問 東京事情話合す。安村広治君の来訪を求め15日より更に第二回発掘継続する事を依頼す。
 
9月15日  正午田多井氏到着、直ちに同伴現場に赴く。
       此日安村君等4人にて小屋掛及行手の右方遺跡の一部を発掘す。之は左方の巳発掘す。之は左方の巳発掘せる遺跡と異なり環状の周辺は三間以上の幅をなせる事及び構造雄大なる事を発見していまさらに驚嘆せり。
       田多井氏は更に穀物遺跡の保存方を話合い安村君に依頼して、安村君引受く。
       夜米田君を加え田多井氏と三人で会食す。更に遅れて浅井、内藤のニ氏来り、飲みながら話す。

9月16日  現場に出張(田多井氏、米田と三人)当日は人夫7人出稼ぎ。周辺の石群益々雄大の構想を出現す。中央にも石群の存在するを確認す。
9月17日  出張(田多井氏、諏訪、米田、内藤君)
       此日巳に祖先の墳域たるを確認し得たるを以て祭りをなさんと決す。
       神官祝詞を奏上、各自礼拝す。参拝者に田多井氏。諏訪、米田、木地二郎氏夫人、外二人(加藤大工の妻及び健六の母)、安村君及び人夫7人。
       初穂料は神代文化研究所出し、海山の御供物及び御酒は諏訪出す。
       午後2時過ぎ田多井氏帰京。
       午後出張現状を調査す。中央の一部出現、環状の如し、周辺は更に雄大に現わる写真撮影の便を計りヤグラを構築す。

9月18日  雨降りたるを以て出張せず。然るに黒沢勇次郎等人夫10名午前中作業し周辺の環状の半分露出したる由。安村君来り判明す。

9月19日  雨
  20日  雨
  21日  雨

9月22日  雨 安村君来り人夫等休まず、作業せりとの事にて出張す。
       周辺の環状地帯は殆んど土を取り除け石群現れたり。
       九戸海岸地方のメノーの石の小石を発見す。(之は貨幣の様に思われた)其他石群の内多少変あり、益々古墳の面目を呈す。
       人夫等16人。

9月23日  雨時々、東京の大学生参観す。
       安村君等土の取除け作業及び中央部の円形を現すに努む。
       長方形の四尺位の大石五個現れ、古墳中の変化認む。
       人夫15人。
9月24日  大湯町の祭典なるも発掘に努むる所左の如く現わる。(図7)
       先きの野中堂発掘に見る放射型と同型と思わる。
       人夫11人。


  25日  継続作業  人夫7人

  26日  写真師馬淵殿同伴出張。左の三ヶ所写さしむ。
       周辺の石群状況
       中央部の巨石群
       放射型
       人夫10人

27日  本日午前浅井氏同伴、竪穴を発掘す。深さ十尺。
     穴の周囲は拡張するものの如し。(図8)
     日時計式のもの現わる。更に図の如く直線型石群約三十間約三十間以上出現。幅1米。
       
  28日  人夫11人 浅井氏同伴す。
       竪穴はトンネル式にあらず、カメ型のもにして6尺以上の直径の穴にて壺類及び石器類多類多数出づ。
       先きの直線型と思びし石群は、先は曲線か或は屈折せる如く思う。  
       小坂鉱山花田氏来観。

9月29日  竪穴は遂に全部掘り上げたり。朱及びくるみの炭など出ず。
       み魂代(円形)出ず、土器に入れたり。
       但し土器は破損しいたり。
       直線は愈々屈折せり。
       竪穴の周囲の穴は浅く掘りたるものあり。
       県の人々及び毛馬内の巡査等来観せり。

  30日  安村君、勇次郎等依頼し監督せしむ。

10月 1日 当日米田文子より電話あり、石井柏亭先生の同伴参観の申出あり、直ちに同行。集宮より上げて現状に到る。発掘中の線状は直線型にあらず、多少
       変化あり。
       石井柏亭先生菊型を写生す。旭谷君同伴、米田、文子等同行。

    2日 直線型の北部に当り、径弐間半位小円形の箇所を発見す。
       付近の円形の高所を掘りたるも別に得る所なし。
       安村君と四角獄及び中岳の竹払の事議す。晴天ならば人夫募集切払する予定なり。
   
    3日 本日早朝雨模様なりしも安村君等、四角、中嶽の竹の切払いに出動せり。(以上は遺跡の四角獄方向とは何等かの方角的関係あるものと考えたり)黒沢勇次郎君を主として大石群の後方の竪穴修理せり、猶写真をとらんとする。東方石群の草刈り及び土掘りなす。

    4日 現状西方石群の後方に竪穴式の諸所に現る。
       東方石群の周辺を草刈り及び土揚げせり。然るに周辺石群の巾次第に拡大し西方石群の周辺と同様のものとなれり。
       本日田多井氏及び考古学の吉田氏来り、現状の雄大なるに驚く。而して直線型石群に対しては何等の考えなしと言われ他日の研究を待つ。全く中通り遺跡は如何なるものか、全貌を見ざれば見当付かざる感あり。
  
    5日 東方の石群の周辺拡大に努む。益々石群多数現わる。猶次の如きもの現わる。
       依って考うるに遺跡の構造基本は次の如きものより成れるものの如し。
(1)  放射型
放射状及び方位日時計の如きもの。
(2)  方位型  
方位を示し日時計式
(3)  複雑型
周囲に石群をめぐらし中に幾つかの長方形の石を併べたるもの。この様式は解釈に苦しむ。
        以上の如き基礎石群が更に複雑性を持ち或いは渦巻き型に、或いは巴形に次第に拡大の石群を形成す。

        田多井氏の丘陵ヒモロギ、イワサカの説も亦一説とすべし。殊に培塚の考に至りては研究の余地大にあり。余は太古の靖国神社の如きものと思う。
  

10月 6日 田多井氏帰京。余は吉田氏と現状に行く。
       現状は竪穴の処愈々複雑となり、諸処に派生するものの如し。吉田氏も竪
穴の意外の深さと複雑性に驚く。西側の北部に更に横穴の如きもの見ゆるも一先ず打ち切りとせり。
東側の石群拡張も一先ず打ち切りとして、石群発掘は本日を以て一先ず修了せり。

10月 7日 吉田氏、浅井氏同行。
       東側外側の南寄りの畑を掘り土器、石器の発掘をなす。 
       石群の西に当たる処に又竪穴を見付け。掘り進む中、種々なる土器、石器多数出づ、中に小形の杯は頗る面白し。又すかし彫りの土器出づ。

    8日 吉田氏同行。 
       前日の竪穴より壺類多数出づ。其他諸種の土器出でたるも本日を以て愈々全部の打ち切り修了。

10月 9日 吉田氏帰京。
       以上を以て会長担当分の記載は終わっている。

                    完