2012年12月13日木曜日

◆ネブタの由来と大丈丸


【引用】
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-4-1.htm

1 日高見国の鬼『大竹丸』
大竹丸の記述をする前に、先に申し上げておくが、筆者は膨大に史料に目を通した結果、大竹丸は安倍氏だと確信している。詳細は別称で述べるが、蝦夷で有名なのは「アテルイ」唯一人と言ってもいいほど、他には名前が知られていない。「前九年の役」の安倍頼良も蝦夷だとされるが、実際はそうではない。



2,ネブタと大丈丸

 ネブタ祭と大丈丸
 ネブタ(侫武多・倭武多)祭りでは、大丈丸が登場するが、同一人物である。
各地に「ネブタ祭」があり、ネブタの語源は一般に「眠た」が語源とされるが、ネブタ祭りには「ネブタ流れろ」「まめの葉残れ」という囃子(ハヤシ)がある。ネブタとは「賊・土着人」で、まめの葉とは「忠義な味方」だとする説が有力である。


3,,侫武多(ネブタ)の由来』
昔、陸奥きっての悪者の頭であった大丈丸は、遠くは駿河の国から伊勢の国までやってきて、都に上る人々に悪事を働いていた。

そこで武勇の名高い坂上田村麻呂を征夷大将軍として、大丈丸を討伐することになった。田村麻呂に撃破された大丈丸は陸奥に逃げ込み、平内山(浅虫温泉)の砦に隠れた。この砦は海中に突き出て、三方は海だったので田村麻呂も容易に攻撃できなかった。
そこで、部下の一人が「里の人々に太鼓や鉦を打ち鳴らさせれば、悪者の大丈丸とて賑やかな祭りだと思い、物珍しさに気を許すはずです」と言上した。
早速、紙を張って魚や鳥などの形をつくり、たくさんの山車(だし)の上に載せ、その内部に大勢の兵を隠した。張子のなかに火を灯し、太鼓や笛の音を響かせて、砦へ近づいていくと、案の定、大丈丸は砦から出て、華やかな祭り行列にみとれていた。突如、兵士らが紙を破って躍り出ると、不意をつかれた大丈丸には応戦する暇もなく戦いに敗れた。
こうして田村麻呂は大丈丸を征伐して都へ帰っていった。 

4,『ネブタはトロイの木馬』
大丈丸をイリアス軍、田村麻呂をギリシャ軍に置き換えれば、ネブタはギリシャ神話の「トロイエ戦争」に登場する『トロイの木馬』の日本版だといえる。
従って、『田村麻呂の張子祭り』と呼ぶほうがリアルだと思われる。

大竹丸(ネブタ)討伐を祝う祭りであれば、征服された人々が侵略者の勝利を祝うという悲惨な祭りだといえるが、江戸時代の藩主が景気づけに考案した祭りだとのことなので、深い意味はなさそうだ。
大丈丸には『大嶽丸伝説』があり、こちらでは青森県の霧山(場所不明)に城を築いたとしており、ネブタと青森県の関係が分かりやすい。
できれば、近い将来、鬼首地区で大竹丸の鎮魂祭としての『ネブタ祭り』をしてもらいたいものである。


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田村麻呂をどう見るかですね、
田村麻呂を東北を救った「神」であったという見方をすれば、殿様のいうとおりです。
こちら

◆石巻の田道将軍碑

宮城県の田道将軍碑

 享和元年(1801)に禅昌寺境内から発掘された古碑で、蝦夷征伐の折、伊寺水門で戦死した将軍上毛野田道に関するものですが、江戸時代後期、塩竃神社の神官だった藤塚式部による作とも言われており、現在は禅昌寺に保管されています。『日本書紀』仁徳天皇55年(367)の条に『後に賊兵が田道将軍の墓をあばいたところ、大蛇が現われ賊兵を噛み殺した』と記されています。なお、永巖寺境内にレプリカの碑がありますのでこちらを見学するのもよいでしょう






◆秋田城と渤海使節団(図解)

秋田城と渤海使節団についてパワーポイントで作成しています。


















2012年4月29日日曜日

◆青森で「縄文琴」発見とホツマの琴

青森で「縄文琴」が発見されたそうです!、ホツマに載っている琴と比べてみましょう!



1,青森で出土、世界最古の弦楽器か 
    3千年前、縄文の木製品
2012年4月28日 05時24分
青森県八戸市にある紀元前1000年ごろ(縄文時代晩期)の是川中居遺跡から出土した木製品が、現存する世界最古の弦楽器の可能性があることが、弘前学院大(青森県弘前市)の鈴木克彦講師(考古学)らの研究で28日までに分かった。
鈴木講師は、弥生時代の登呂遺跡(静岡市)などから出土した原始的な琴と似ていることから「縄文琴」と命名し「日本の琴の原型ではないか」と話している。
木製品は長さ約55センチ、幅約5センチ、厚さ約1センチの細長いへら型。上部に四角い突起、下部に直径約1ミリの穴や刻みがあるのが特徴。杉かヒバのような材質でできている。
(共同)

ホツマの「八雲打琴やくもうちのこと」
鳥居礼「言霊ーホツマ」より

2,三弦、五弦、六弦の琴

三弦の琴
その琴の音は イザナギの葛(かだ)打つ 糸薄(いとすすき) これを三筋の琴の音ぞ 形は花と葛の葉を 葛垣と打つ

五弦の琴
五筋の琴は 五臓に響く 音を分けて 地のアワ歌を 教ゆれば 琴の音通る 糸薄打琴(いすきうち)

六弦の琴
六筋の琴は 酔い眠る 大蛇(オロチ)に六弦(むつ)の弓弦(ゆづ)かけて 八雲打琴(やくもうち)とぞ 名づくなり

和琴に関しての詳しい資料は非常に乏しいわけですから、このように詳細な記述を載せることは驚異的であると言わざるを得ません。


3,六弦の琴
六弦の琴、すなわち「八雲打琴」は、サルタヒコ命の妻になるウズメ命が、高天原で弓弦(ゆづる)を打ち鳴らして曲を奏でているのを天照大神がご覧になって、桑の木で六弦琴として作られたのがその起源であると書かれています。
そして、「八雲打琴」を天照大神から賜った姉のワカヒメは、オモイカネノ命と夫婦仲睦まじく六弦を弾かれたのでした。


発掘品と似ていませんか!

『ホツマ』の9紋「八雲打琴」は夫婦和合の琴ということができます。スサノオノミコトが姉のワカヒメに
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣わ
という歌を捧げたところ、姉姫は、スサノオの妻のクシイナダヒメに琴の奥義を授け、クシイナダヒメは「八雲立つ」の御神詠に合わせて「八雲琴」を奏でられたと書かれています。


4,八雲打琴でオロチ退治

八雲打琴には、酒によったオロチに六弦の弓弦(ゆづる)をかけて打ち取る神力があると書かれています。

古代においては弓は敵を攻撃する武器としてだけではなく、弓弦(ゆづる)を鳴らしその音と神力によって魔物を祓う神器とされていたわけです。
現在でも神社でこの蟇目鳴弦(ひきめめいげん)の術がおこなわれています。

(江戸時代に中山琴主が創って伝えた琴)

*また青森から面白いものが出ましたね!オロチ退治の琴であることを確信しています!!


2012年1月27日金曜日

■高清水の地球画にみる歴史

高清水の丘をグーグルアース地球画解析を行いました。

1,高清水の丘(秋田市寺内)
 緑の部分が平安時代秋田城があった地区


2,地球画を作成
地球画とはグーグルアースから、開発の痕跡を除くと、その土地に関係した人の顔が出てくるというものです。
この手法を発見されたのが、クロマンタの地盤調査をした渡邊広勝氏です。
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解析結果
秋田城は何か恐ろしく怒った顔が存在し、髪の毛が怒髪として経ちあがってい
るのが見えます。
現代は開発で基本地形が壊されていますが、それでもこの様に高空から観察す
るとみごとにこの地に建造した古四王神社の存在が分かります。

3,空素沼の存在
縄文時代周囲は海か干潟でした。天空に現わされる地の神は怒りを持って鬼

壁山を見つめています。とうじ恐らく鬼壁山周辺は地震の巣として認められて
居たのでしょう。人々はこの丘陵を整形し神の顔としました。ここを信仰する
ことにより地震を押さえてもらうよう願ったのかもしれません。
そのご海水面降下とともに稲作が盛んになります。

鬼壁山も平穏になり東北地区支配の為に秋田城が作られます。
城内の池は眼の形に作られていると見られます。
そしてあご髭の長い仙人の姿が現れます。図は現代の建物を緑で埋めました。
秋田城の池は眼の形をしていたも
のとみられます。 今度よく見てみたいです。蝦夷の土着の神は地球画から導き出される、おおいなる神だったのです。


4,古四王神社の重要性


後の支配者(日本書紀)はこの神を蝦夷安定のために利用したのでしょう。
秋田県の中央との戦いが、岩手県等に比べ比較的早く終わっているのはこの神
社を当時の中央政府が利用したと思われます。
阿部比羅夫や坂上田村麻呂が蝦夷を統治するにあたり、この神社が利用された
と思われるのです。





2011年12月12日月曜日

■大韃靼人とは

大韃靼人とは


白柳秀湖は「それは単一民族ではないが、血統、地縁、人種その他の要因によって
「大韃靼人」として包括される
1、最大の範囲
最強軍団モンゴル
 1206年、テムジンというリーダーがモンゴル高原の諸部族を統一して大ハーン(遊牧民の君主)となり、「チンギス・ハーン」と称したとき、モンゴル帝国が成立したとされる。この国の注目すべき点は、純粋な遊牧帝国としてスタートしたにもかかわらず、きわめて統制のとれた組織体として出現したことにある。
 チンギスはもともと強力な部族を後ろ盾に持たず、自らに忠誠を誓う戦士たちを集めることでのし上がってきた経歴を持つ。それゆえに、「部族制」そのものにメスを入れる作業に取りかかることができたのだった。














2、歴史と名称

粛真(みしはせ)  リンクしています









刀夷(とおい)








蝦夷(えみし)






2011年12月4日日曜日

■寺内町史にあった「大韃靼人論」

白柳秀湖の「大韃靼論」を最近発見したと思っていたら、何回も読んでいた「寺内町誌」にありました!!・・・心ここにあらざればですね。



1、寺内町誌とは

昭和22年9月5日 寺内史談会のてになる「寺内町誌」は334ページからなる、先人の努力のたまもので、我々の寺内の史跡探訪会のバイブルです。
寺内の歴史で特に面白い(!)のは「口碑伝説」です。中心をなす古四王神社も火災にあってますし、旧家にも資料が残っていないのだそうです。したがって「口碑伝説」として伝わっているのが主なことなのです。
口碑伝説を担当しているのは地元の岩谷嘉市氏です。
岩谷氏の文章の中に白柳秀湖の文章が載っていました。読んでいたのに、その時はまだ心に響きませんでした。・・・・今は、すごい人であったんだと尊敬しています。





















2、寺内町誌から引用
P169~170

『附記』
阿部比羅夫(阿部臣)、坂上田村麻呂等の征討せられた所謂「蝦夷」とは従来は今日北海道に残存せるアイヌ族の祖先と考えられて居った。
これを強く否定して韃靼人、もしくは靺鞨人(渤海人)なりと主張する学者は白柳秀湖氏である。以下白柳秀湖著「民族日本歴史」及び「国難日本歴史」より其の主張の主眼点を抜粋して参考とする。

われわれは同じ「蝦夷」の文字をその時代によって読み分ける用意がなくてはならぬ。
すなわち記、紀の上に於ける蝦夷は大体に於いて「えみし」と読むべきだ。「続日本紀」「日本後記」と歴史の進むにつれて「蝦夷」の文字は「えぞ」と訓まなければならぬ。

しかも奈良京の末から平安京にかけての蝦夷は、もうアイヌ人のことではなく今の庄内、秋田地方から北上川の流域に押し出してきた韃靼人のことと理解されねばならぬ。

日本歴史の上で「東夷」と蝦夷とがはっきり区別されなければならぬことを最初に主張して居るのは著者の知れる限りに於いては三宅米吉氏である。(中略)駿河国以東、常陸、磐城地方にかけてはびこって居た東夷は黒潮本流の支配によって分布されたインドネシア人と見なければならぬ。従ってこれは九州では隼人と呼ばれ、大和、紀伊地方では何々の八十梟師と呼ばれて居た勇猛精悍なる南種の一派で「蝦夷」とは全く別人種見なければならぬ。

斉明天皇の四年には、高志(越)の国司阿部比羅夫が、積極的に会場から飽田(顎田、秋田)淳代(能代)の靺靼人植民地を襲った。
これは陸路をとって出羽の境に入るよりも、遥かに得策であった。
さしもの靺靼人も、阿部比羅夫の鋭鋒にあたりかねたものと見え、その酋長恩荷なるものが出で迎えて降伏した。そこで朝廷は恩荷に授くる小乙上の冠位を以ってし淳代、津軽の郡領を定め、渡島の靺靼人をも有馬浜に会して大饗宴を催した。渡島とは北海道の渡島ではなく、佐渡島のことである。佐渡はその頃、一島殆ど靺靼人の占拠するところとなっていたらしい。云々。

桓武天皇の時、坂上田村麻呂が抜擢せられて征夷代将軍となり、蝦夷(大韃靼人)の経略に任じられた。
(中略)恰もこの時代のことを記録した国史「日本後記」の一部が湮滅して伝わらぬため、

田村麻呂将軍の英邁を以ってして、僅かに打克つことが出来た大韃靼人の奥羽地方に於ける動静及び官軍との戦況を詳しく知ることが出来ない。

故に日本の歴史には、坂上田村麻呂将軍の東征ということが、一面著しく魯鈍で、お人好しでありながら、他面その固有の血統と文化とに対する矜持の徒に高い為に、千年一日の如く進歩なく発展なき生活を送っていたアイヌの気まぐれな叛逆かなどのように軽く取り扱われてしまってい居る。
しかも平安京時代にはアイヌは奥羽の地には影も形も残っていなかった。

白柳氏は享保中長崎の訳官中野柳圃が翻訳して「鎖国論」と題したケンフェル(ケンペル)の「日本志」を引いて蝦夷即ち大韃靼人説を立證して居る。


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ここまで書いてあるのに・・・・