鹿角市資料館(安村二郎氏)
謡曲「錦木」が、錦木塚伝説に深い影響を与えていることは、次の諸点からみて明らかである。
●「いたずらに過ぎる心は多けれど。身になす事は涙川。流れて早き月日かな」
これから導き出されて、若者の涙を洗う涙川となった。
●「さる程に逢うべき男の錦木をば取り入れ。逢うまじきをば取り入れねば。或いは百夜三年(ももよみとせ)までも立てしに千束(ちつか)とも詠めり。又この山蔭に錦塚とて候。これこそ三年まで錦木立てたりし人の古墳なれば、取り置く錦木の数とともに塚に築(つ)きこめて。これを錦塚と申し候」。
錦塚の発想はそれまでの和歌集や歌論集になく、この謡曲をもって嚆矢としている。
●「嵐木枯村時雨(あらしこがらしむらしぐれ)」露分けかねて足引きの。山の常陰(とこかげ)も物さび松桂(しょうけい)に鳴く梟蘭(ふくろう)菊の花に隠るるなる」。
このうち松桂に鳴く梟蘭菊の花云々の語句は、後世の「鹿角由来集」などに「京の細道とて野あり松桂に鳴くふくろれんきく乃はなにかかるなる狐住塚乃草松桂谷とハき乃国坂乃谷なり」という表現でうつしかえられている。
●本曲の間狂言に登場する狂言方の語りに「又細布と申すは。昔この所に鷲熊鷹というもの。幼き者をとり候間。人々歎きかなしみ候処に。ある人の申すは。鳥の羽根にて布を織り。着するならばとるまじくと申す間。さらばとてこれを織りて着せ候へば。はたととりやみ候間」との一条がある。
類型Aの後段の、五の宮嶽大鷲が飛んできて七つ前の里の子をとる云々の原型である。
●「不思議やなさも古塚と見えつるが。内はかかやく燈火の。影明らかなる人家の内に。機物を立て錦木を積みて。昔を現すよそほひたり。これは夢かや現(うつつ)かや」
「機物の音 秋の虫の音 聞けば夜声も きり はたり ちゃうちゃう」「きり はたリ ちゃうちゃう」
塚からあらわれた男と女が、夢うつつの旅僧に、昔の姿を見せる。伝説では慈覚大師がこの姿を見、あるいは物見坂からみるとこの姿が見えるとなる。
以上からみても、かなりの部分が謡曲「錦木」と錦木塚伝説は重複する。これは錦木塚伝説成立の基底に、室町文学の謡曲「錦木」がつよく影をおとしていたとみるべきである。
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(まとめ)
・安村二郎氏のお考えは最も尊敬できます。
・錦木伝説が世阿弥の謡曲によっていること。
・ついにでてきました、旅の僧「慈覚大師」がでてきました。坂上田村麻呂伝説とともにでてきます。
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