2009年6月17日水曜日

03016■坂上田村麻呂伝説・新人物往来社


66 坂上田村麻呂伝説 
                 
参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』   
[坂上田村麻呂伝説] 
  
〈あらすじ〉 
 東北現地に流布していた征夷大将軍坂上田村麻呂伝説の記録が幸いにも『吾妻鏡 アヅマカガミ』に収められています。それは同書文治ブンジ五年(一一八九)九月二十一日条 と同二十八日条とにあり、伝説の記録としては最も古いものと目されます。文治五年
には源頼朝の奥州征伐があり、平泉藤原氏は滅びました。九月二十一日、頼朝は陸奥国胆 沢イサワ郡鎮守府(岩手県水沢市)にある八幡宮に参詣、その折、同宮は田村麻呂がかつて 征夷のため陸奥に下向したとき、勧請し崇敬した神社で、田村麻呂が奉納した弓箭キュウセン ・鞭などが今も宝蔵に存している、と云うことを耳にしました。同二十八日、鎌倉への 帰途に就いた頼朝は、その道すがら一青山に目を留めて、連行していた平泉方の捕虜に その山の名を尋ねました。その捕虜の口から、それは田谷窟タッコクノイハ
ヤ(同県平泉町、達谷窟)と云うことと、其処は田村麻呂・利仁トシヒト等将軍が征夷の際、賊主悪路王アクロオウ・ 赤頭アカガシラ等が塞を築いた岩屋であったこと、また、田村麻呂はこの窟の前に京都鞍馬 寺を模して九間四面の精舎を建立、多聞天タモンテン像(北方鎮
護の仏、毘沙門天ビシャモンテン) を安置し西光寺と命名、かつ水田を寄付したこと、等の既に伝説化している故事が語ら れました。
田村麻呂没してより三百七十八年、その間に田村麻呂の事績が伝説化し現地 に流布していたことが知られます。 

 以後、田村麻呂伝説は、恐らく東北現地で語り伝えられた説話が骨格となって、中央で創作的要素が濃厚な文芸作品になって行きます。
  
 概略田村麻呂の征討対象は、悪路王から悪事の高丸タカマルとなり、高丸は駿河国清見関 キヨミガセキへ攻め上りました。やがて征夷が伊勢国鈴鹿スズカ山の鬼神退治に摺り替わりまし た。また、東北現地で語られた浄瑠璃『田村三代記』は、坂上田村麻呂利仁の陸奥誕生に始まり、鈴鹿山鬼神立烏帽子タテエボシを征するも果たせず、返ってこれを妻としてその 助力で近江国の高丸を、次いで奥州達谷窟の大嶽丸オホダケマルを討つと云う壮大な物語とな っています。

〈歴太字史的分析・解釈〉

 田村麻呂伝説を、内容で分けますと二つの型があります。
 (1)蝦夷征討に関わる伝説、
 (2)寺社建立に纏マツわる伝説です。

しかし(2)の場合、田村麻呂が征夷のため都から東山道を経て陸奥へ下り、その途次また東北現地で戦勝を祈願したり、平定後に寺社を建立 したと云う筋書きが多いので、両型が一体となり勝ちです。

 史実としては
(1)は胆沢地方の蝦夷首長アテルイやモレなどが征討対象でしたし、
(2) は田村麻呂が京都に清水寺キヨミズデラを建立したことであり、これらが核となって伝説が 生まれました。

(1)では達谷窟伝説が既にそうなっていますが、田村麻呂には利仁(鎮守 府将軍藤原利仁と見られる)なる人物が一緒に登場するようになり、遂には田村利仁な る一人の人物にもなりました。アルテイも悪路王に変わってしまう如くで、悪路王伝説 もまた一方で生
まれました。このような変化の経緯はなお不明です。(2)の寺社は東北地 方で五〇例以上を数えます。観音堂・毘沙門堂が多い。田村麻呂は観音信仰に厚く、清水寺を建立したことは有名であり、また、田村麻呂は「毘沙門の化身にして、来たりて 我が国を護る」
とも評されましたので、その種の寺社が多いのです。東山道筋の長野県 にも田村麻呂縁ユカリの清水寺が二寺存します。そのような寺社の多くは、延暦エンリャク十七 年(七九八)・大同ダイドウ二年(八〇七)などの建立と称しているのが特徴です。これ ら年代は京都清水寺に意味のある年代で、東北の寺社については信を置き難い。達谷窟 伝説では鞍馬寺を模して西光寺を建立したとありました。田村麻呂と鞍馬寺との関係は、 同寺の口誦寺伝に拠りますと、征夷戦勝を祈願し、帰還すると大刀を献じたと云います。 同寺は天台宗の寺で、毘沙門天を本尊とします。毘沙門の化身と目される田村麻呂とは 結び付きやすい。このような天台宗系、或いは清水寺系の僧によって寺院建立が東北に 広まり、信仰と伝説とが結び付いて、田村麻呂伝説は根強く語り継がれたものと思いま す。 
  
〈まとめ〉
  田村麻呂伝説の東北での分布は、彼が足を踏み入れたとは考えられない青森県にまで 及んでいます。彼が征夷の折、「日本中央」と弓弭ユハズで刻んだと云う石碑があり、夏 のねぶた(ねぷた)の起源も、何時しか田村麻呂の征夷と結び付いてしまいます。
 抑も 田村麻呂は蝦夷にとって征服者でした。特に東北北部の蝦夷の末裔である人達は、征服 者田村麻呂をどのように想ったのでしょうか。その地域にまで田村麻呂を悪人としない 伝説が広がることは、被征服者の子孫達が田村麻呂を憎しみ怨みもせず、寧ろ称え思慕 していると云わざるを得ません。それは何故なのでしょうかか、田村麻呂伝説の最大の 謎です。

 その理由を田村麻呂の人柄に求め、田村麻呂は恩威並び行ったとし、武力一辺 倒ではなく、蝦夷に産業・宗教などの面で教化し、恩恵を与えたからである、とする考 え方もあります。或いは、蝦夷がエゾ = アイヌとなりますので、何時しか正確な史実 が忘れられ、前述したように信仰と結び付いた田村麻呂伝説を、蝦夷の子孫も抵抗なく 受け入れるようになったのかも知れません。  
 
〈分布伝承される地域〉

  その主たる分布地は東北地方全域で、田村麻呂が兵を進めたとは考えられない青森県、 三陸沿岸、秋田・山形両県にまで及びます。また、征夷のために下向の際に通過したと 考えられる東山道・長野県にも、更に東海道は静岡・愛知・三重県などにも残っていま す。西は岡山県にも鬼神退治伝説が伝わっていると云います。                            
 (原執筆者:高橋崇氏)
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(まとめ)
・田村麻呂伝説の成り立ちがよくわかります。
・田村麻呂の武力とともに天台宗の布教した年代がわかります。
・田村麻呂伝説は中央での創作的文芸作品となった。
・田村麻呂の征討対象はアテルイやモレでした。(岩手県南部)
・伝説は、秋田、青森、三陸沿岸、山形のアテルイが行っていないところまで及んでいる。
・蝦夷(エミシ)が、いつのまにか蝦夷(エゾ)=アイヌと転換
 されたことが、大きな戦略であったのでしょうか。
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