2009年7月12日日曜日

01808■多賀城碑(壺の石碑)は誰が


 碑は、自身と同質である砂岩の基部全体を土中に埋め、正面をほぼ真西に向けて建っている。一般に砂岩はもろいとされるが、碑石に使われたものはアルコース砂岩と呼ばれる硬質のもので、今も碑面の風化はほとんど見られない。昭和40年代の前半に碑近くの丘陵から同質の石が出たことから、多賀城碑に使用された石材は建立地近辺から掘り出されたものと推測されている。

多賀城市撮影の「多賀城碑」拓本


多賀城碑は、江戸時代に土中から掘り出されたか、または草むらに埋もれていたのを掘り起こされたと見られており、その時期は、新井白石の「同文通考」によれば、芭蕉が訪れた15年~30年程前の万治・寛文の頃(1658~1673年)という。
仙台藩四代藩主伊達綱村(1659~1719)のころ、仙台領内の数々の歌枕の地が大淀三千風らによって整備されたが、当時すでに市川村(現多賀城市市川)に本碑が構え、三千風はこれを撰集「松島眺望集」の中で「壷の碑」として取り上げて碑文とともに紹介している。本碑は、多賀城(跡)に存する石碑であるから「多賀城碑」の称は然るべきだが、これを「壷の碑」と呼んだのはどのような謂れからか。

大淀三千風について

 

歌枕「つぼのいしぶみ」の成立過程は定かでないが、文治年間(1185~1190年)に歌学者藤原顕昭が著した「袖中抄」が、その伝承に大きな役割を果たしたようである。


顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。(それをつぼといふ也。) 私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。(袖中抄)

[要旨] 陸奥の奥地、日本の東の果てに「つぼのいしぶみ」というものがあって、碑面に、坂上田村麻呂が弓のはず(両端の弦をかけるところ)で彫った「日本中央」の文字が書かれ、それを石文(いしぶみ)という。藤原信家の侍従によれば、石の長さは4、5丈(約12~15m)ほどで、彫り付けられて窪んだところを「つぼ」という。みちの国は東の果てだが、えぞに島々あること考えれば日本の中央といってもいい。

歌枕「つぼのいしぶみ」が、こうした伝説や和歌によって後世に伝播されていく中、多賀城碑は、江戸時代になって土中から掘り出され衆目に晒された。石碑は一般に「石文(いしぶみ)」または「立石(たていし)」と呼ばれることから、発見当座も、まずはそうした呼び名であったろう。それが彼の事物と絡められて一体化し、次第に「壷の碑」と称されるようになった、というのが事の真相かと思われる。

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(まとめ)

・多賀城碑は江戸時代(1656~1719ころ)発見された。

・同年代に大淀三千風が「壺の石碑」と詠んでいた。(荒俣氏は水戸光圀公が決めた)

・歌学者の藤原顕昭が1190ころ、田村麻呂将軍が書いたと「袖中抄」に記した。(これが田村麻呂伝説の一貫)

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・多賀城跡が古代日本の「壺」であることは「ホツマ」で納得できる。

・しかし多賀城の「石碑」は田村麻呂以降のもので「歌枕」として成立した過程はわかった。

・私が求めるのは「壺」と同時代の「石碑」のことで、歌枕でなく「枕詞」の「壺の石碑」を求めているのです。そうすれば、多賀城では納得できないのです。

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1 件のコメント:

  1. 日本中で唯一、壺石と言うちめがあります。福島市飯坂町東湯野壺石です。
    摺上川のほとりにあり、壺石文の拓本を摺り上げた川、故に摺上川と呼称されたと考えられます。
    摺上川の対岸は宮代で江戸時代に宮城を宮代に改めたとされています。
    延暦八年の征討軍は摺上川、阿武隈川の合量部、宮代、峯越、向瀬上の三カ所に鼎足状に逗留した場所と考えられます。峯越と壺石は極めた近い場所にあります。

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