2009年10月16日金曜日

01216■大湯ストーンサークルは5万年前の地層から




スタジオ吉祥姫に掲載されている、諏訪富多氏の「太古の神都 十和田高原」より


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(はりつけ)
陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡


この遺跡は今日の重要問題とされている。

1.動植物にわたる極めて豊富なる化石を産出し其の上に明らかに人工が加えられたと認め

られることである。

2.之は少なくとも洪積層と考えられる。地質学者、古生物学者、考古学者、人類学者が組織

的に日本では初めてとも云うべき発掘を行った事である。

3.東北大、岩手の地質学者等が熱心に別々に行った。而して同じ地点を相前後して発掘に

努めそれぞれ収穫があった。

何れにしても国際的に注目される点は、日本に於ける最初の旧石器人の遺体発見の可能性

がある事である。人工物の多いことから見て必ず旧石器人の生活の様式が発見さらるる見

込みがある事である。

概括して見ると新第三紀層に此の遺跡は属する。新第三期層、上半の鮮新世の下部に当た

る処に礫層があり、此部分に化石の層があるのが見られる。

出土品は

一、.ハシバミ、クルミ、松柏科に属する大部分の植物化石。

一、.象の牙が重く太い方を下にして殆ど直立の状態で立っているのは推積作用ばかりでは

ないといと考えられる。何分三米-四米の長円形の部分に2000点を超える骨片が発見された

と云うことである。

動物の頭骨、背ツイなどの位置もはなればなれになっている。又この象はマンモスよりも遥

かに古い型の象であると鑑定されているので従って第四氷期よりはずっと古いものである事

は確かである。兎に角これだけの化石や遺物が出た事は、日本内地又外国の地層のいず

れの地層に相当するものであるかを研究する必要は大に出て来た。


早稲田大学の講師である有名な直良信夫氏は次のように言っている。

「花泉の化石層は日本では珍しい型の遺跡である。上層のものは昭和8年に私たちが発掘し

た北満州クーシャントンのものによく似ている。そうして下層の出土物は兵庫県明石市の西

八木化石層のものに近いようである。此の2つのややちがった動物郡は同じ地質時代に混然

と共存していたものか、それとも若干時期を異にして生存していたものかが、今後の研究の

焦点になろう。若かりし時期に異にしたものとすれば、下層から出土するものの時代は古く、

上層のものは若干新しいと云うことになるだろう。ヨーロッパのムステリアンには寒暖2つの文

化期があった。花泉でそれが確かめられ発掘された色々の遺物や化石が十分に検討された

暁には日本だけでなく、世界の人類発達史に大きな貢献をなす事になろう」。




(吉祥姫さんの解説) 

陸中花泉町とは、おそらく現在の岩手県花泉町だと思われます。その裏づけは何もありま

せんが、諏訪先生の研究範囲からして十和田高原に最も近い花泉町だと考えられます。

同町のHPなどを見ても当時の様子を伺い知るDataは残念ながら見当たりません。

とういうことは上記の記事が「期待していた内容と違うことが判明された」あるいは「上記内

容を裏付ける十分なDataを得られずに忘れ去られた」…のこの二つだと思われます。

その後の経緯は不明ですが、とかくアカデミックな学説においては「起こり得ない事、あり得

ない事」は抹殺されるケースが多々あるようです。


昭和21年に製作される十和田高原の大湯環状列石調査報告書でも、測定結果は

「5万年前の地層の下から出土」が「4500年前の地層の下から出土」

に書き換えられました。


なぜ、アカデミック学説は計算通り、ひな形通りでなければならないないのでしょうか。

仮にいく点かの間違いがあるにしても大湯環状列石は5万年前の地層の下に埋まっ

ていたのです。

諏訪先生は、その事実を伝えたくて、上記「陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡」の記事を

書いたのではないかという気にさえなります。

現在の進化論においての文明成立の年代は、もしかしたら、一桁さかのぼるのではないの

でしょうか…氷河期遺跡








陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡


この遺跡は今日の重要問題とされている。

1.動植物にわたる極めて豊富なる化石を産出し其の上に明らかに人工が加えられたと認め

られることである。

2.之は少なくとも洪積層と考えられる。地質学者、古生物学者、考古学者、人類学者が組織

的に日本では初めてとも云うべき発掘を行った事である。

3.東北大、岩手の地質学者等が熱心に別々に行った。而して同じ地点を相前後して発掘に

努めそれぞれ収穫があった。

何れにしても国際的に注目される点は、日本に於ける最初の旧石器人の遺体発見の可能性

がある事である。人工物の多いことから見て必ず旧石器人の生活の様式が発見さらるる見

込みがある事である。

概括して見ると新第三紀層に此の遺跡は属する。新第三期層、上半の鮮新世の下部に当た

る処に礫層があり、此部分に化石の層があるのが見られる。

出土品は

一、.ハシバミ、クルミ、松柏科に属する大部分の植物化石。

一、.象の牙が重く太い方を下にして殆ど直立の状態で立っているのは推積作用ばかりでは

ないといと考えられる。何分三米-四米の長円形の部分に2000点を超える骨片が発見された

と云うことである。

動物の頭骨、背ツイなどの位置もはなればなれになっている。又この象はマンモスよりも遥

かに古い型の象であると鑑定されているので従って第四氷期よりはずっと古いものである事

は確かである。兎に角これだけの化石や遺物が出た事は、日本内地又外国の地層のいず

れの地層に相当するものであるかを研究する必要は大に出て来た。


早稲田大学の講師である有名な直良信夫氏は次のように言っている。

「花泉の化石層は日本では珍しい型の遺跡である。上層のものは昭和8年に私たちが発掘し

た北満州クーシャントンのものによく似ている。そうして下層の出土物は兵庫県明石市の西

八木化石層のものに近いようである。此の2つのややちがった動物郡は同じ地質時代に混然

と共存していたものか、それとも若干時期を異にして生存していたものかが、今後の研究の

焦点になろう。若かりし時期に異にしたものとすれば、下層から出土するものの時代は古く、

上層のものは若干新しいと云うことになるだろう。ヨーロッパのムステリアンには寒暖2つの文

化期があった。花泉でそれが確かめられ発掘された色々の遺物や化石が十分に検討された

暁には日本だけでなく、世界の人類発達史に大きな貢献をなす事になろう」。


(吉祥姫さんの解説) 

陸中花泉町とは、おそらく現在の岩手県花泉町だと思われます。その裏づけは何もありま

せんが、諏訪先生の研究範囲からして十和田高原に最も近い花泉町だと考えられます。

同町のHPなどを見ても当時の様子を伺い知るDataは残念ながら見当たりません。

とういうことは上記の記事が「期待していた内容と違うことが判明された」あるいは「上記内

容を裏付ける十分なDataを得られずに忘れ去られた」…のこの二つだと思われます。

その後の経緯は不明ですが、とかくアカデミックな学説においては「起こり得ない事、あり得

ない事」は抹殺されるケースが多々あるようです。


昭和21年に製作される十和田高原の大湯環状列石調査報告書でも、測定結果は

「5万年前の地層の下から出土」が「4500年前の地層の下から出土」

に書き換えられました。



なぜ、アカデミック学説は計算通り、ひな形通りでなければならないないのでしょうか。

仮にいく点かの間違いがあるにしても大湯環状列石は5万年前の地層の下に埋まっ

ていたのです。


諏訪先生は、その事実を伝えたくて、上記「陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡」の記事を

書いたのではないかという気にさえなります。

現在の進化論においての文明成立の年代は、もしかしたら、一桁さかのぼるのではないの

でしょうか…氷河期遺跡


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(まとめ)

・岩手県花泉町の移籍は氷河時代マンモスの頃。
・しかし、抹殺されている。

・ストーンサークルも5万年前の地層から出ているのだ、しかし4千年前とされていることの不思議。

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