2009年11月1日日曜日

03301■なぜ仏教は日本に広まったのか


和魂和才から、和魂漢才、和魂洋才、和漢無才だあるとされます。そのうちでもわが縄文文化研究会の興味は「和魂漢才」です。和魂漢才というより和魂佛才ではないのかと最近思っています。
仏教は誰が何のため取り入れたのでしょうか。

マピオンの質問コーナーに私が求める回答がありました。
(はりつけ)

現代日本人の宗教観からすれば、宗教は個人のものですが、奈良時代までの仏教は、国家仏教と呼ばれるように国家が管理したものでした。

その導入の目的には、天皇を中心とした中央集権国家を作るためのイデオロギー(思想・理念)としての側面があります。

元々、大和朝廷はその成立の経緯から、地方・中央の有力豪族の連合国家で、天皇家といえども絶対的な権威・権力があるわけではなく、言わば地方分権でした。
しかし、国の規模が大きくなり、外国とも交流が行なわれるようになり、天皇を中心とした中央集権国家を作ろう(=国力のアップ:外交上の有利・政権担当者の権限の強化。中国という国家を見ることで、中央集権国家の国家としての能力の高さに目覚めたのではと思います。)という流れが起こってきます。

中央集権にする以上、政権成立の経緯から、天皇―豪族の長―部民(豪族に属する人々。天皇家も豪族の一つとして直接支配する部民を持っていました。)という所属関係となっている国民を、直接天皇が支配する関係にしなければなりません。

つまり、天皇家に属する部民のみが、天皇の命令に従う意識を持っていただけで、他の国民はそれぞれの豪族の長に従うという意識を強く持ち、「天皇や朝廷との直接のつながりは全く意識されていない。」という現状を、変えなければなりません。

そこで、所属する豪族の枠を超えて、共通の考え方を持たせる目的で、仏教を国家的に導入することを考えたのです。
国家仏教が導入されれば、国=天皇=朝廷=仏教=寺院(国分寺)と仏教を信じる人々が、豪族の長を通さず、直接つながりを持つ政治体制が始まります。

当然、既存の豪族は最有力の物部氏を中心にその導入に反対し、逆に天皇家の家老(古代ではこのようには言いませんが)的な立場で、勢力を伸ばしていた蘇我氏としては、当然導入に賛成しました。

物部氏が敗れたのは、豪族の中にも「中央集権」でないと、今後は他国との関係で不利になると考える人が結構多かったからでは、と思います。



(補足もあります)

う充分に説明はされていますが、補足まで。

古来、天皇やその側近(後の物部氏の先祖らですね)は、各地それぞれの神様を祭っていたのを伊勢神宮の名の下になんとなく統一された神道のようなものにまとめあげていきました。
これは、かなり初期から少しずつありましたが、朝廷による全国統一が進んだ丹波併合の頃くらいから顕著に出てきた傾向です。

その後、一度武烈天皇で天皇の系譜が途絶え、遠縁ということで遠国から継体天皇が呼ばれます。
継体天皇は、滋賀あたりで生まれ育ち、成人してからは福井のあたりにいました。 福井は、朝鮮半島との行き来の道中ですから、自然大陸で起こっていた仏教などに触れる機会も多く、本人が積極的でないにせよ、その周りにいる人たちは影響されていたようです。
中でも顕著なのが、継体天皇が上京するときについてきた関所の番人で、これが後の蘇我一族になっていきます。
だから、蘇我氏は既得権益を抑えていた物部氏に対抗するために、仏教を持ってきたんですね。

天皇は、そのときどきの側近となる人々のパワーバランスを見て、神道や仏教をそのときの状況に合わせて取り入れていったのだと思います。

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(まとめ)

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