2010年1月30日土曜日

03303■歴史学とは文字が必要

副島隆彦氏は「歴史学とは何か」から


1、歴史学は文字があってこそ

歴史学とは、近代学問における定義中の重要な事実であるが、文字、すなわち刻文その他の文献があって初めて成り立つものである。
文献考証とその意味づけからしか歴史学は出発しない。


2、考古学は古代史額の対象でない

文字の使用以前の段階にある新石器時代の土器や遺構は考古学の対象であって、古代史学の対象ではない。
歴史学は、文字の有無によって先史と古代に分けられるのである。
これが世界基準での学問区分である。
青森県の三内丸山遺跡の発見以来、わが国では縄文文化の見直しが盛んだが、文字や文献は発見されていないのであるから、そうした遺跡に対して「高度な文明」などという不正確な言葉を使ってはいけない。

3、日本に文明の発祥はない

残念ながら、日本には「文明(シビライゼーション)」の発祥はない。文明と呼べるのは、東アジアでは「黄河文明」だけである。「日本文化」はあるが、これは紀元五,六世紀以降になって、東アジア古代文明=黄河文明の東端として、その影響下に出現したとしか語りえないはずである。


4、日本の歴史は華僑がつくった

属国」としての日本の歴史は、紀元前1世紀の漢帝国の時代に始まる。この時期に中国から商人たちが日本を訪れるようになり、現地人である倭人と交易を始めている。
彼ら「華僑」が、7世紀には日本という国家を建国させる原動力になっていく。
645年 大化の改新
662年 仁申の乱
667年 天智天皇
その後 天武天皇
720年 「日本書紀」完成


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(まとめ)
・これからいきますと、「日本書紀」の720年までは日本は、土着人のただの鼻たらしということになります。

・このショックで、しばらくブログが書き込めませんでした。

・しかし、エハンデラヴイの情報で、「死海文書」が1945年ころ発見されて注目されていることから、
「ホツマ」と同じではないか、と改めて意欲が湧いています。
また書きます。
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(死海文書とは:はりつけ)

聖書には原本がなく、最古で10世紀前後の写本が伝えられていた。ところが第二次世界大戦直後の1947年、 約2000年前の写本、「死海文書」が発見された。
ベドウィンと呼ばれるアラブ系の遊牧民が暮らし、エルサレムの東方に位置するクムランという地で、1人の少年が 迷子になった山羊を探すために、死海近くの崖を登っていた。 崖の途中にある洞穴(幅 180 cm 奥行き 720 cm)から偶然に発見した数千の資料は、「エステル記」を除く旧約聖書の写本であり、 その当時の聖書と内容を照らし合わせても、重大な違いはなく、聖書は忠実に語り継がれていたことがわかった。 しかしながらこの遊牧民が発見したと言う話は、真実かどうかは不明である。というのも、発見当時の事情を このベドウィンに確認した時には、発見から2年もの月日が経っていたというのと、 密輸で生計を立てていたと思われるベドウィンは、警戒心から真実を語っているかどうか?という点などがあった。 とにもかくにも、羊皮紙(獣皮紙)に葦のペンで書かれたこのヘブライ語の文章、巻物は奇蹟的ともいえる 発見であった。


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2010年1月7日木曜日

03302■副島隆彦[華僑が日本をつくった(部分)]

なんと! 日本という国は776年に華僑によってつくられた。その前に文化としての日本はなかった!!

・この説は
①、岡田英弘東京外語大学名誉教授の「日本史の誕生を元として

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫)


②副島隆彦氏が「天皇の伝説」のなかに「天皇と華僑 聖徳太子は蘇我入鹿である」として掲載したものです。

天皇の伝説 (オルタブックス (001))

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全文は下記リンクにあります。このページにはその一部としてアタマ出ししたものです。
あまりにも衝撃的な説ですので、私もまだ消化しきれていません。


聖 徳 太 子 は 蘇 我 入 鹿 (そがのいるか) で あ る 」
副島隆彦 著

(編集部によるイントロダクション)
日本は原住民である倭人(わじん)と交易を求めてやって来た華僑(中国人)が年月をかけて混血してゆくことによって出来た王国である。西暦776年に「近江令」(おうみりょう)の中に初めて出現した「日本」という言葉をもって日本建国の年と考えるべきである。従来の日本歴史学を統合する「属国・日本史論」の古代史編をここに始める。

(はじまり)
私は日本史についても調べて書きたいと思っていた。
私がこれまで考えてきた日本通史の概要のうち、ここに掲載する古代に関する部分は、一九九七年五月に五月書房(ごがつしょぼう)から刊行された『属国・日本論』のために書き下したものである。ところが、「著者を守る」という理由で、出版社側の判断により、この古代史の部分は、採用原稿から削除されため、発表の場を失っていた。今回、オルタブックス編集部の依頼により、単行本用に書いた原稿に若干の加筆をし、ここに初めて発表するものである。 1997年9月   副島隆彦

拙著、『属国・日本論』の第三部「属国日本の近代史」で私は、古代から中世、近現代に至るまでの日本の歴史を、日本はじつはずっと文明の周辺属国(トリビュータリー・ステイト)であったのだ、という観点から祖述しようとした。しかし出版社側の判断によって実際には近現代史の部分しか掲載されなかった。祖述(expound イクスパウンド)するとは、特定の先人の学説を受け継ぎ、それを土台にして更にその上に自説を展開して、同じ諸事実に対して別の角度から光を当てて自説として、そのことによって学問(サイエンス)(=科学)を推し進めることをいう。
私の日本史学についての知識は、きわめて限られている。私は日本史学者ではないので、専門的な歴史資料 ( 一次資料としての古文書や国家外交文書 ) の 古代漢文のまま読み込みや正確な文献読解 ( text critic テキスト・クリティーク )などはできない。そのような学問的な訓練は受けていないし、また、フィールド・ワークとしての歴史学を志したこともない。自分の人生時間をその領域に投入しようと思ったこともない。
それでも 私は、「属国」日本論という大きな観点からの日本通史 ( 古代から現代まで通して叙述した歴史 )を 概略、俯瞰的な 全体像として呈示せねばならないと思ってきた。それは日本人の誰かがやるべきだったのに誰もやっていないと長年強く感じてきた。
私の考えは、日本が紀元前後からの丁度、二千年間は中国歴代王朝の藩国・冊封国であったとするものだ。そして、150年前のペリーの黒船来航直後は、アメリカの属国になりかけたが、アメリカ国内での南北戦争(ザ・シビル・ウォー)の勃発で、アメリカの日本支配が一時停止した。その間に、西欧列強(ヨーロピアン・パワーズ)の中の最大の大国であったイギリス(当時は、大英帝国 The British Empire である) の属国を続けた。その後、1945年8月の第二次世界大戦での敗戦の後は、アメリカ合衆国の属国なって現在に至る。これらの大柄な日本歴史の基本性質を、歴史上の諸事実(ヒストリカル・ファクト)に照らして、大胆に叙述していくことが私の日本思想家としての構えである。
むろん、私の日本史論を素人の仕事だと無視するのはいっこうにかまわないし、私の説 ( 歴史事実への別な光の当て方 ) の細かな誤りを指摘して反駁して下さることも自由である。私は明らかな事実であることでそれが周囲の事実との関係でほぼ確実に明らかであるとされることに対してはすべて認める、という態度を取る。私は要らぬ隠し立てをする態度は一切取らない。ただ勉強時間不足の為に自分が知り得なかったことで新たに知ったことでそれが事実であることの自然な推論が立つことは、すべて認める、という姿勢である。
私の説は、「属国としての日本通史」という従来とはまったく別の観点に立ち、かつ、「世界史の一部としての日本史」という太く大きい一本の柱に貫かれているのであって、この「属国」日本という視角は、十分に学問(=科学)的な条件を備えたものであると考えている。もし私への反論があるなら、同じく、世界史の一部としての大柄な日本論であってほしい。

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以下はこちらからどうぞ、全文掲載しております。



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全文を読んだうえで、まとめております。上記論を全文お読みの上、まとめをご覧ください。

(まとめ)

・余りにも衝撃的な説に出会いカルチャーショックを受けています。私の中でどう受け取り、組み立てたらいいか迷っていますので、とりあえず資料として掲載しています。
これを読んで今考えていることは
・東北縄文文化研究会としては、縄文時代に古代日本文化がなかったというのには異論がありますが
・776年から正式な日本というのは、華僑が日本をつくったという説に立てば
1、これで「空海」の謎がほとんど解けたことです。なお私は四国お遍路「四国八十八ケ所・空海の言葉刻字奉納」を三年間かけて完了しています。全部の奉納は香川県の施設にしております。
  ①空海が生まれ地は瀬戸内沿いの香川県です(華僑の拠点地区)。したがっていろいろな経緯がありますがついに遣唐使の一員に加わったこと。
  ②上陸後、書の国・中国人をうならした「書の腕前」はなぜか。
  ③なぜ中国本土に行っても、中国人に十分に通じる言葉がペラペラ話せたのか
  ④大量の資金を持参できたのはなぜか(水銀持参との説があります=貴重な朱となるため、貴重で高価)
  ⑤誇り高い中国人の中でいながら、密教を恵果阿闍梨から受け継げたのはなぜか。
こんなところが、
ほんとうに空海が華僑の流れをくむものだとしたら、私はなるほどと納得できます。


2、坂上田村麻呂はもちろん華僑系であり
  すべての資料に渡来人とありますから、渡来人というより華僑の一員で納得できます。
③慈覚大師、行基、

  この偉人たちは、西の空海・東の慈覚大師ですから、華僑かどうかは別として、国家公務員又は
律令国家の伝道師なのでしょうか。
④芭蕉、菅江真澄 などの姿がすべて理解できます。

  江戸時代ですから、華僑とは関係なく、「芭蕉スパイ説」のような捉え方が正しいと思っています。
普通の人なら、お金も持っているはずはないし、第一関所をすんなり通れるのでしょうか。
(別途に書いております芭蕉はただの隠密ではなかった


まだまだ言葉足らずら、不勉強さがあると思いますが、衝撃の説に出会った段階での意見です。
(2010・3・9追記)
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2010年1月3日日曜日

01617■権現舞で明けましておめでとうございます





新年あけましておめでとうございます。東北縄文文化研究会を今年もよろしくお願い申し上げます。

ユネスコの無形文化遺産登録となった、大日堂舞楽の「権現舞」を制作し、今年から玄関のお守りになりました。

1、刻字作品:大日堂舞楽の「権現舞」


















2、共同通信ニュースより


秋田県鹿角市で大日堂舞楽 黄金の面をつけ荘厳な舞

 黄金の面をつけた踊り手が剣を手に荘厳に舞う大日堂舞楽が2日、秋田県鹿角市の大日霊貴(おおひるめむち)神社で奉納された。国連教育科学文化機関(ユネスコ)が昨年、無形文化遺産に登録した。
 堂の中央に置かれた約3メートル四方の舞台の上で、黄金のほか黒色の面などを身につけた能衆と呼ばれる踊り手が、笛や太鼓の音色に合わせ、白い息を吐きながら7種類の舞を順番に踊った。




3、権現舞・・読売新聞より


勇壮に舞う獅子頭を見つめる阿部匠さん

舞の意義伝えたい




 国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録後初の「大日堂舞楽」が2日、鹿角市八幡平の大日(おおひ)霊貴(るめむち)神社(大日堂)で行われた。後継者不足に直面した小豆沢集落では昨年末、獅子頭をかぶって「権現舞」を奉納する能衆の世襲を廃止。伝統的な屋号以外の者から継承者として、信仰心の厚い大工の阿部匠さん(27)を選んだ。驚異的なスピードで所作を習得し、当日は勇壮な舞で観衆を魅了。「40、50年と舞を受け継ぐ」。匠さんの鋭い目が輝きを増した。
     *
 「カチッ、カチッ」。降りしきる雪の中、笛と太鼓の軽妙なはやしに合わせ、獅子頭の上下の歯が激しくぶつかり、乾いた音が響く。大勢の観衆の前で、匠さんは前後左右に躍動。神と一体化した舞を披露した。
 舞の継承を依頼されてから半月間、毎晩、鏡に映った自分の姿を見ながら猛特訓を重ねてきた。先月20日からは肉類も一切口にせず体を清めた。すべてを終えた匠さんは晴れやかな笑顔で一言、「楽しかった」とつぶやいた。