2010年1月7日木曜日

03302■副島隆彦[華僑が日本をつくった(部分)]

なんと! 日本という国は776年に華僑によってつくられた。その前に文化としての日本はなかった!!

・この説は
①、岡田英弘東京外語大学名誉教授の「日本史の誕生を元として

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫)


②副島隆彦氏が「天皇の伝説」のなかに「天皇と華僑 聖徳太子は蘇我入鹿である」として掲載したものです。

天皇の伝説 (オルタブックス (001))

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全文は下記リンクにあります。このページにはその一部としてアタマ出ししたものです。
あまりにも衝撃的な説ですので、私もまだ消化しきれていません。


聖 徳 太 子 は 蘇 我 入 鹿 (そがのいるか) で あ る 」
副島隆彦 著

(編集部によるイントロダクション)
日本は原住民である倭人(わじん)と交易を求めてやって来た華僑(中国人)が年月をかけて混血してゆくことによって出来た王国である。西暦776年に「近江令」(おうみりょう)の中に初めて出現した「日本」という言葉をもって日本建国の年と考えるべきである。従来の日本歴史学を統合する「属国・日本史論」の古代史編をここに始める。

(はじまり)
私は日本史についても調べて書きたいと思っていた。
私がこれまで考えてきた日本通史の概要のうち、ここに掲載する古代に関する部分は、一九九七年五月に五月書房(ごがつしょぼう)から刊行された『属国・日本論』のために書き下したものである。ところが、「著者を守る」という理由で、出版社側の判断により、この古代史の部分は、採用原稿から削除されため、発表の場を失っていた。今回、オルタブックス編集部の依頼により、単行本用に書いた原稿に若干の加筆をし、ここに初めて発表するものである。 1997年9月   副島隆彦

拙著、『属国・日本論』の第三部「属国日本の近代史」で私は、古代から中世、近現代に至るまでの日本の歴史を、日本はじつはずっと文明の周辺属国(トリビュータリー・ステイト)であったのだ、という観点から祖述しようとした。しかし出版社側の判断によって実際には近現代史の部分しか掲載されなかった。祖述(expound イクスパウンド)するとは、特定の先人の学説を受け継ぎ、それを土台にして更にその上に自説を展開して、同じ諸事実に対して別の角度から光を当てて自説として、そのことによって学問(サイエンス)(=科学)を推し進めることをいう。
私の日本史学についての知識は、きわめて限られている。私は日本史学者ではないので、専門的な歴史資料 ( 一次資料としての古文書や国家外交文書 ) の 古代漢文のまま読み込みや正確な文献読解 ( text critic テキスト・クリティーク )などはできない。そのような学問的な訓練は受けていないし、また、フィールド・ワークとしての歴史学を志したこともない。自分の人生時間をその領域に投入しようと思ったこともない。
それでも 私は、「属国」日本論という大きな観点からの日本通史 ( 古代から現代まで通して叙述した歴史 )を 概略、俯瞰的な 全体像として呈示せねばならないと思ってきた。それは日本人の誰かがやるべきだったのに誰もやっていないと長年強く感じてきた。
私の考えは、日本が紀元前後からの丁度、二千年間は中国歴代王朝の藩国・冊封国であったとするものだ。そして、150年前のペリーの黒船来航直後は、アメリカの属国になりかけたが、アメリカ国内での南北戦争(ザ・シビル・ウォー)の勃発で、アメリカの日本支配が一時停止した。その間に、西欧列強(ヨーロピアン・パワーズ)の中の最大の大国であったイギリス(当時は、大英帝国 The British Empire である) の属国を続けた。その後、1945年8月の第二次世界大戦での敗戦の後は、アメリカ合衆国の属国なって現在に至る。これらの大柄な日本歴史の基本性質を、歴史上の諸事実(ヒストリカル・ファクト)に照らして、大胆に叙述していくことが私の日本思想家としての構えである。
むろん、私の日本史論を素人の仕事だと無視するのはいっこうにかまわないし、私の説 ( 歴史事実への別な光の当て方 ) の細かな誤りを指摘して反駁して下さることも自由である。私は明らかな事実であることでそれが周囲の事実との関係でほぼ確実に明らかであるとされることに対してはすべて認める、という態度を取る。私は要らぬ隠し立てをする態度は一切取らない。ただ勉強時間不足の為に自分が知り得なかったことで新たに知ったことでそれが事実であることの自然な推論が立つことは、すべて認める、という姿勢である。
私の説は、「属国としての日本通史」という従来とはまったく別の観点に立ち、かつ、「世界史の一部としての日本史」という太く大きい一本の柱に貫かれているのであって、この「属国」日本という視角は、十分に学問(=科学)的な条件を備えたものであると考えている。もし私への反論があるなら、同じく、世界史の一部としての大柄な日本論であってほしい。

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以下はこちらからどうぞ、全文掲載しております。



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全文を読んだうえで、まとめております。上記論を全文お読みの上、まとめをご覧ください。

(まとめ)

・余りにも衝撃的な説に出会いカルチャーショックを受けています。私の中でどう受け取り、組み立てたらいいか迷っていますので、とりあえず資料として掲載しています。
これを読んで今考えていることは
・東北縄文文化研究会としては、縄文時代に古代日本文化がなかったというのには異論がありますが
・776年から正式な日本というのは、華僑が日本をつくったという説に立てば
1、これで「空海」の謎がほとんど解けたことです。なお私は四国お遍路「四国八十八ケ所・空海の言葉刻字奉納」を三年間かけて完了しています。全部の奉納は香川県の施設にしております。
  ①空海が生まれ地は瀬戸内沿いの香川県です(華僑の拠点地区)。したがっていろいろな経緯がありますがついに遣唐使の一員に加わったこと。
  ②上陸後、書の国・中国人をうならした「書の腕前」はなぜか。
  ③なぜ中国本土に行っても、中国人に十分に通じる言葉がペラペラ話せたのか
  ④大量の資金を持参できたのはなぜか(水銀持参との説があります=貴重な朱となるため、貴重で高価)
  ⑤誇り高い中国人の中でいながら、密教を恵果阿闍梨から受け継げたのはなぜか。
こんなところが、
ほんとうに空海が華僑の流れをくむものだとしたら、私はなるほどと納得できます。


2、坂上田村麻呂はもちろん華僑系であり
  すべての資料に渡来人とありますから、渡来人というより華僑の一員で納得できます。
③慈覚大師、行基、

  この偉人たちは、西の空海・東の慈覚大師ですから、華僑かどうかは別として、国家公務員又は
律令国家の伝道師なのでしょうか。
④芭蕉、菅江真澄 などの姿がすべて理解できます。

  江戸時代ですから、華僑とは関係なく、「芭蕉スパイ説」のような捉え方が正しいと思っています。
普通の人なら、お金も持っているはずはないし、第一関所をすんなり通れるのでしょうか。
(別途に書いております芭蕉はただの隠密ではなかった


まだまだ言葉足らずら、不勉強さがあると思いますが、衝撃の説に出会った段階での意見です。
(2010・3・9追記)
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2 件のコメント:

  1. 引用が長く、またどこを強調したいのかも分かりません。

    まとめも、ご自分では分かるのでしょうか、他人には意味不明ですね。

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  2. 本人
    ご意見ありがとうございました。
    誠にそのとおりですね。
    余りにも衝撃の説に接したものですから。

    いくらかご理解できるように修正しております。
    今後ともよろしくお願いします。

    返信削除