このブログは「壁を突き抜ける生き方」をする人だけが共鳴できるものです。 北東北の不思議な地域、クロマンタ、大湯ストーンサークルを中心とする縄文文化の真実を探究する研究会です。 ■右側のラベル分類からもお入りください。 ◆スライドショーはクロマンタのゼロ磁場調査の様子!!
2010年8月24日火曜日
03029■タガノコフは多賀の国府でない
ホツマは鳥居礼さんの著書から、ヒタカミのヤマテ宮、タガのコフは多賀の国府としてきましたが、このような見方があるのですね。
私は多賀ではないと睨んでいますから、うれしい説です。
ヒタカミ、ヤマテ宮、タガは大変重要なキーワードなのです。資料として。
鳥居礼さんのホツマの見方についても教えています。
真名の日本巡礼さんから
○ 最後に、漢字表記とかな表記について、一言しておく。
ホツマについて、筆者は、漢字表記の恐ろしさを十分に理解していないと考える。
漢字表記を行うこと自体はかまわないが、それは、高度の研究者が、十分な注意を払って行うべきである。
日本でそれが許されるのは、池田満氏一人であろう。
ヲシテ文献について、学会での再検討を必要とする業績をあげているのは、事実上、池田氏一人であると言ってよい状態だからである。
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鳥居礼氏の書籍は、労作であるが、しかし現代語訳本にとどまるであろう。
その池田氏が、漢字表記に対して徹底的に慎重な態度を守っていることを、wikipediaの筆者は尊重するべきであろう。
なお、普通の研究者なら、漢字表記の恐ろしさは当たり前の前提であり、議論の余地はない。
Wikipediaのまさにその「外部リンク」から例を挙げる。
「秀真伝」が語る太古ヒタカミの神々
▲ オシホホミは即位後、都をトヨケの故地、ヒタカミのヤマテ宮の跡に置くことにした。その都はまたタガのコフとも名付けられたという。さて、このヤマテ宮とは、いったい何処のことであろうか。「ヤマテ」を仙台の訓読みとすれば、それは現在の宮城県仙台市方面に求められることになるであろう。『秀真伝』においては、漢語をむりやり読み下したような語彙は、他にもしばしば見受けられるところである。また、仙台をあえてヤマテと読むことで「邪馬台国」と関連付けるつもりだったのかも知れない。
日本では新井白石や本居宣長が研究を始めるまで、邪馬台国の名は魏志倭人伝よりも、むしろ日本の未来を予言したという『邪馬臺詩』の方でよく知られていた。
「タガのコフ」を多賀の国府、すなわち多賀城(多賀柵)のことだとすれば、そこから仙台市までは十キロほどしか離れていない。有名な多賀城碑文によれば、この城は神亀元年(七二四)、陸奥按察使の大野東人によって置かれたものだという。
もっとも仙台とは、もともと青葉城が国分市の居城時代、千代城と呼ばれており、それを伊達政宗が仙台城と置き換えたところから生じた地名だそうだから決して古いものではない。多賀城の国府もまた、当然ながら神代まで遡りうるものではない。この種の時代錯誤は「古史古伝」では珍しいものではなく、むしろその真の成立年代を考察する上での貴重な手掛かりとなりうるものである▲
この著者は、「タガのコフ」を、「多賀 国府」と訳してある。
しかし、原文にはもちろん「多賀 国府」なんて書かれてはいない。 当然であるがヲシテで書かれている。
イサナギ、イサナミのフタカミは「タガのミヤ」で治世を行った。
社会秩序の乱れや精神の闇を直して明るい、幸福に暮らせる世の中をもたらしたことを「タガ」と呼んだことが、ヲシテ文献から読み取れる。
オシホミミは、ヒタカミにミヤを移すのに際して、その治世を慕い、それを手本として治世を行うことを「タガ ノ コフ」と呼んだのである。
「タガ」はフタカミのミヤの名前であるのとともに、ヤミを治めるという意味が掛け詞になっている。
「コフ」は、フタカミの治世を恋い慕うといった意味であり、そのミヤをヒタカミに移植したということである。
そのような意味は、漢字はもちろん、カタカナからも脱落している。
ヲシテを見ないと理解できないようになっている。
そこには、「国府」という意味はないのである。
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2 件のコメント:
多賀城は737年の続日本紀によれば多賀柵に737年以降に城郭を構えると大野東人が記しています。
同条に比羅鉾山と雄勝の行程を五十里と記している。現在多賀城跡と称する所と色麻柵の行程は直線距離で約30Km、六十里あるが記されていない。多賀柵と色麻柵の行程記載がないのは両柵は行程を記載する必要がないくらい近接していたためと仮定する。
780年伊治城で反乱が起こり国司等は多賀城へ避難したが賊に責められ逃げだしている。状況から多賀城は伊治城の近くにあったと推測される。多賀城は色麻柵や伊治城に近い所にあったはずである。
伊治城(栗原)と現在多賀城跡と称する所の直線距離は約50Km、約百里ある。当時の一日の行程は約八十里であることを考慮すると反乱が起き緊急避難できる距離ではない。色麻柵の近傍にあったとするなら比較的簡単に逃げ込める距離である。
現在多賀城跡とされる場所は江戸時代に推定された所、多賀城碑も同所から出土し続日本紀の記載と矛盾点が多い。多賀城遺跡の場所もが牙城碑文の内容申し訳ない共に、続日本紀と合致しない。よって、多賀城跡も多賀城碑も偽物と考えられる。
東鑑文治五年の条に多賀国府なる文言あがり、発掘調査しても該当時代の遺構は検出されなかった。
現在多賀城跡と称する所も、本当の多賀城も陸奥国府や将軍府でないことは朝廷が残した史料からも明らかである。八世紀初頭の陸奥国域は信夫以南十一郡である。刈田以北へ侵攻したが、結局、780年の反乱で、刈田郡以北はで賊地に帰した。征討軍は刈田以北へ再侵攻できず延暦八年に官軍は阿武隈峡谷刈田郡伊具郡付近で大敗した。794年に漸く官軍優勢に転じた。胆澤城、志波城が作られたが藤原緒嗣の徳政論により軍事と軍事に与する造作は停廃はされることとなる。陸奥國衙領は信夫以南諸郡の稲は公廨に給された、刈田以北の諸郡稲は屯田兵達を支えた。
多賀国府が初出するのは東鏡文治五年八月の条です。発掘調査が示す通り多賀国府など元来存在しないのです。文治五年八月の条は元来存在した原文を書き換え多賀国府が実在した如く曲筆されたものと考えられます。陸奥国衙は信夫郡に存在しましたが、なぜか文治五年八月の条は信夫郡について全くふれていません。會津方面へ向かう土湯の嵩は信夫郡にあります。実はこの道筋に藤原秀衡の居館があったのです。
文治二年の頼朝奏上によれば、凶徒源義経を匿った者の所帯跡に地頭を置くと記されています。
奥州征伐の総奉行は工藤行政と五味文彦氏は推定されています。
陸奥国信夫庄鳥和田村地頭職譲り状から二階堂行氏の系譜を調べると工藤(二階堂)行政の総領が代々、鳥和田村地頭職を世襲しています。このことから、陸奥国信夫庄鳥和田村に藤原秀衡の所帯があった事が分かるのです。多賀国府など実在せず、勿論、平泉に藤原氏の居館など実在しません。現代見られる平泉観光資源は江戸時代から創作されたものです。虚構の世界です。
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