2011年1月24日月曜日

■安村二郎:錦木塚伝説の変容(5/5)

尊敬する安村二郎氏の鹿角市広報掲載文です。

八十七(9/10)
要  約

・「錦木山観音寺縁起」
長文でしかも難解な縁起の原文の全文掲載。

要約を次号に










































八十八(10/10)
要  約
・「錦木山観音寺縁起」の要約
①縁起の起源は、はるか神代にまでさかのぼり、記紀伝承の十三代成務天皇御代奥州に戦雲動き、大いに乱れる。
②成務帝は景行天皇第四子である。景行天皇は熊襲を親征後、皇子日本武尊を派して東国エミシを平定。
③成務天皇は、北奥州五郡の郡司にオオナムチノミコト(出雲の大国主命)の子孫、狭名太夫(さなのきみ)を派遣、地理境界を明示す。
④かくて、天皇は大国主命子孫の狭名太夫(さなのきみ)の善政を愛でられ、豊岡郡を狭郡(けふのこおり)と改められる。
⑤狭名太夫(さなのきみ)八代目政子姫は、鳥の毛を混じえ細布を織る技を工夫し、人々の難儀を救う。
⑥草木村の長の子は、政子姫のもとへ通い、門に錦木を立て続けるが、姫の父大海は中に入れるを許さず、千日に及ばんとす。
⑦村長の子ついに病となって、涙川に身を沈めたという。
⑧姫も悲しみにひしがれ、五日の後に命を絶った。時は推古天皇七年(597)のこと。
⑨父の大海悲しみに深く、姫と村長の子を同穴とし、千束の錦木も共に埋め、人々は錦木塚と呼んだ。
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■鹿角の古代を彩る歌枕「錦木」「毛布の細布」の発祥年代は、すでに歴史に明らかなこと。
能因法師の時からであることは、明々白々なのである。そうであるのに、

⑩ほぼ六八〇年後の江戸後半の延享二年、鹿角初公開の形で羽州新庄の修験家阿保権之助提供の「錦木山観音寺縁起」においては、年代を古代初頭六世紀にまで遡らせ、場面を仏教伝来直後の政争にとり、崇仏派蘇我氏と廃仏派物部氏の対立から蘇我馬子のため物部守屋敗死(587)の後とした。

⑪敏達天王の第五宮は守屋の娘・岩手姫を生んだ皇子、皇子の位を除かれ奥州へ配流となり、奥州の鹿角豊岡に宮造りして住んだ。

⑫その五二年後皇極天皇元年(642)五宮七〇才勅免となり上京、毛布細布三百反、砂金百両を献上す。

⑬藤原鎌足が毛布細布の由来を叡聞に達し、帝御感涙の上、狭名は勲功の臣政子女に至り、家断絶とは痛哭に堪えず。

⑭一寺を草創し、亡魂を慰霊せよとありがたき勅命をこうむり、同四年五宮ににより、錦木山観音寺創建。

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■このように架空の物語に大きく変容した。


■ここで錦木伝説は、だんぶり長者伝説と完全に習合(相異なる教義と折衷・調和すること)することになった。

疑問(3)
■どうして信縁起まで作り上げ、だんぶり長者伝説との習合をはからねばならなかったのでしょうか。

・小豆沢の大日堂は天台宗別当・・・すべて羽黒山末社の現実化をはかるためではないか?

・しかしこの縁起は、地元鹿角の人々の広く知るところまではいかなかった。

・菅江真澄でさえ、天明5年(1785)鹿角大里で縁起を書き写しながら、それを話題としたのは三十六年後の文政四年でした。

以上





















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