2011年11月14日月曜日

■アテルイは耀星か鬼か(1)

アテルイとは北の輝く星か、はたまた鬼伝説の「鬼」なのか・・・隠された東北に真実が見えてきそうです。


最初はwikiから、やはり二つの見方があるということを

1、現代のアテルイ像 [編集]

評価 [編集]

1、坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であった。

2、再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めたことと、一般社会において地方の自立が肯定的に評価されるようになったことが、背景にある。アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。
これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

2、アテルイは悪路王で鬼である説
【引用】
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-4-1.htm

悪路王(あくろおう)

『鳴子町史』に、延暦八年(797年)に紀古佐美を征東大使に任じ、兵五万余をもって征伐に向かわせ、衣川まで進んだが、食料不足と寒気に悩まされ、結果的に阿弖流為(アテルイ)に破られ、数千人の戦死者をだして惨敗したことを示す『日本後記』が掲載されているが、そこには、当時の道がいかに悪路だったかが明記されており、アテルイが悪路王と呼ばれた理由が想像できる。


 左の写真は、水沢市埋蔵文化財調査センターに保管されている悪路王の首像である。


3,悪路王

 明治時代、遠野民俗学の先駆者である伊能嘉矩(かのり)氏が「悪路・赤頭・高丸・大竹丸・岩武」などの伝承を収集、更に関連する地名伝説にも触れ、悪路王を検証した「悪路王とは何ものぞ」(「遠野の民俗と歴史」・三一書房)など、資料や史料が多いが、代表的なものを列記する。

『中尊寺西光院の毘沙門堂縁起』
およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸らの蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ、女子供を掠める等の乱暴な振舞い多く、国府もこれを抑える事が出来ない。
  そこで、人皇五十代桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より3千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発する報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。
  延暦20年(801)、大将軍は窟(達谷窟)に篭る蝦夷を激戦の末に打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。
 大将軍は、戦勝を毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を摸ねて、九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として達窟毘沙門堂(別名をいわや窟堂)と名付けた。 

  大竹丸の名がなく、高丸となっているが、両者を同一人物としているのだろう。

『吾妻鏡』
源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある青山に目をとめ、その名を案内役の奥州人の豊前介実俊に尋ねると、「それは、田(達)谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、城塞を構えていた岩屋」だと実俊が教えた。そして、田村麻呂は、この田谷窟の前に九間四面の精舎を建て、鞍馬寺をまねて多聞天の像を安置し、西光寺と名づけたということを語る、という場面がある。

『平泉舊蹟志』
達谷窟は岩井郡達谷村に有り、東鑑(吾妻鏡)には田谷窟と記す。中尊寺より未申の方奥道十二里、東鑑に「田谷窟は、田村麻呂・利仁の将軍綸命を奉り、征夷の時、賊王悪路王ならびに赤頭らが塞を構えた岩室なり……(中略)……坂上将軍、この窟の前において、九間四面の精舎を建立し、鞍馬寺を模し多門天の像を安置し、西光寺と号して水田を寄附す」と述べている。

毘沙門堂縁起だけに高丸の名があるが、悪路・赤頭・高丸は別人であろう。
悪路王が坂上田村麻呂の戦った蝦夷の酋長とすれば、史実に照合すれば、悪路王は阿弖流為(アテルイ)、赤頭は母礼(モレ)のことになる。事実、毘沙門堂境内の碑は「アテルイの碑」と呼ばれている。


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