2011年11月14日月曜日

■阿部比羅夫と粛慎(1)

田村麻呂の150年前に阿部比羅夫が粛慎征伐に




1、


•7世紀の中頃には、朝廷の勢力範囲は日本海岸沿いでは新潟まで達しておりました。そこから北は蝦夷地です。この頃、阿倍比羅夫は北陸の越国の国司をしておりました。

658年(斉明4年)4月、阿倍比羅夫は、船180艘を連ねて日本海岸を北上しております。武力偵察としては規模が大きすぎます。
半島で百済と新羅とが戦火を交えている時にしては、よくもこんな大軍を奥州に派遣できたものです。

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【wiki】

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦のことである。
この戦いは、唐・新羅連合軍の勝利に終わった。大陸に大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。この敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革が起きた。この結果、倭国から日本に脱皮するようになるなどの大きな影響を日本にもたらした




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今の秋田県の雄物川の河口のアギタ浦(今の秋田市)に着いた時、アギタ蝦夷の首長の恩荷(オガ)は安倍比羅夫に恭順しました。阿倍比羅夫はこの恩荷に、小乙上という官位を与えております。

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660年(斉明6年)三月には、阿倍比羅夫は第二次遠征に出発しております。この時は200艘の大船団を引き連れております。

ある大河の河口に来ると、渡島(ワタリシマ)の蝦夷が1000人ほど集まっておりました。この中から二人の蝦夷が走り出してきて、「ここに突然粛慎(ミセハシ)の船が襲ってきたので助けて欲しい。」と、安倍比羅夫に懇願しました。

阿倍比羅夫は粛慎と接触しようと思って、浜辺に布・武器・鉄などを置きましたが、粛慎は逆に攻撃してきたので、両軍は矛を交えることになりました。

慎の内49名を捕虜としましたが、比羅夫の側も能登臣馬身竜が戦死しております。

この粛慎という部族は、大陸から来たのか、北海道・樺太から来たのかは分っておりません。少なくとも、この地方に住んでいる蝦夷とは違った種族だったようです
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【wiki】

蝦夷征討・粛慎討伐 [編集]

『日本書紀』によれば、658年に水軍180隻を率いて蝦夷北海道)を討ち、さらに「粛慎」(樺太)を平らげた。粛慎は本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族を指す。
  • 斉明天皇4年(658年)4月 - 蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷渟代津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。同年、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。
  • 斉明天皇5年(659年)3月 - 蝦夷国を討つ。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
  • 斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎を討つ。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。
  • 斉明天皇6年(660年)5月 - 夷50人余りを献じる。また、粛慎の37人を饗応した。

白村江の戦い [編集]

662年に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かったが、翌663年新羅の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。


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今度は、陸地に柵戸を作って徐々に北進を開始していくのです。

何れにしても、この阿倍比羅夫の後、8世紀になっても蝦夷の騒動が続き、
709年、720年、724年、・・・と蝦夷征討の軍を次から次と繰り出しております。

記録に残っている初期の頃の蝦夷征討の将軍として、阿倍比羅夫はその名を現代に残しているのです。

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