2011年11月14日月曜日

■白柳秀湖の「大韃靼人」論


1,白柳秀湖とは
白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年1月7日 - 1950年11月9日)は、日本の小説家、
社会評論家、歴史家。
静岡県生まれ。本名は武司。早稲田大学哲学科卒。在学中から堺利彦の社会主義思
想に影響を受け、1904年直行団に加入、1905年中里介山らと火鞭会を創立。1907年
隆文館編集記者となり、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を発表
、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。1910年の大逆事件以後、社会主
義思想と縁を切り、文学も離れ、社会評論家、歴史家として活動した。


2、日本書紀に記されている

「蝦夷」「粛慎」「靺鞨」「女眞」「刀夷」「蒙古」後の「満州」は皆違うのか・・・
白柳秀湖は「それは単一民族ではないが、血統、地縁、人種その他の要因によって
「大韃靼人」として包括される

3、ヨーロッパではタタール(タルタル)
ジンギス汗の時代、モンゴルはユーラシア大陸の過半を征服する未曾有の大世界帝国を
建設したが、ロシアはその時、モンゴル帝国の中に包摂された。ロシア人はその時代を「タ
タールの頸城」と呼んでいる。つまり、ロシア人、ひいてはヨーロッパ人総体にとって、タター
ル人はすなわちモンゴル人を意味した。


4,タタールのくびき
タタールというのはモンゴル系の遊牧民族であり、一応モンゴル人とは別とみなす
べきであろう。しかしモンゴル軍の西方遠征に多数のタタール人が加わっていた
ため、またモンゴル軍が大きな恐怖をヨーロッパ人に与えたため、ヨーロッパ人は
タタールとギリシャ語のタルタロス tartaros(地獄)とをかけて、モンゴルをタルタ
ル Tartar と呼ぶようになったという。
ロシア語ではタタールィ татары というが、キプチャク・ハーン国を形成したモンゴ
ル・テュルク系の諸民族、およびその末裔を無差別にタタールと呼んだ(こんにちの
ロシアのタタール民族はその一部だが、モンゴル系ではなくテュルク系)。
タタール(キプチャク・ハーン国)によるルーシ諸公支配を、ロシアでは «タタールの
くびき» と呼んでいる。その実態は間接統治で、貢納さえ怠らなければ各地の公の
存在が許されていた(厳密にはいろいろな制約や義務があったが)。
上記のように、ノーヴゴロトを除く全キエフ・ルーシがモンゴルに蹂躙され、その結果
として全ルーシ諸公がキプチャク・ハーンの宗主権下に置かれることになった。


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