堀貞夫HPさん及びWIKIから引用
1,古志
『出雲國風土記』神門郡古志郷
伊弉那彌(イザナミ)命の時、日淵川を利用して池を築造したまう。その時、古志の國人らが到来し、堤を施工した。そのとき彼らが寝起きした場所なり。それ故、古志と言う。
2004年10月25日、中越地震の発生により、新潟県「山古志村」が孤立したニュースが全国に報じられたが、山古志の古志は飛鳥時代の国名で、高志、越とも記される。大化の改新以降、漢字表記が「越国」に統一され、その後、越国は越前・越中・越後に三分される。
通説では、古志を北陸地方の国名で、朝鮮半島からの渡来氏族が定住したが由来だとする。たしかに日本海沿岸地方には古志の地名(長岡市古志郡、松江市古志原町、出雲市下古志町、富山市古志の松原、山形県古志田東遺跡)が多い。
2,古志と楛矢(こし)
古志も高志も「こし」と読むが、漢語では古志は「guzhi」、高志は「gaozhi」である。
日本人には「ゴゥジ」に聞こえるが、濁音の少ない古語では「コゥシ」「コシ」と変化したと思える。筆者は粛慎の貢献品である命中精度の高い楛矢(こし)からきたと推察する。
楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読んでいる(新撰漢和辞典『三省堂』)。また、一矢(いっし)を報いるという言葉があるように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
楛矢(コシ)を持って日本列島に渡来してきた粛慎系部族を「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。越(yue)は漢語の意訳をあてたもので、後世の当て字だと考える。
3,越の国とは
4,粛慎が楛矢を持って来貢
『晋書』粛慎伝
周の武王の時代(紀元前11世紀)、楛矢(こし)と石砮を献じた。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢した。
楛は中国原産の植物の名、幹が矢幹(やがら)に適しており、それで作った矢を楛矢という。この楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読む。一矢(イッシ)を報いるというように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
この楛矢を持って日本海沿岸に渡来した粛慎を、当時の人々は「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。そうであれば「おろち」とはツングース族の部族名の『オロチ』だとしても頷ける。
ちなみに、粛慎は1世紀には悒婁。4世紀には勿吉。6世紀末には靺鞨。9世紀には渤海国と黒水靺鞨。10世紀には女真。10世紀末に金王朝。13世紀後半に金が滅亡。14世紀後半には女真を再統一。17世紀には清王朝を立て、満州族に改名。このように何度も国号や族名を変えるが、日本とは密接な関係がある。
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