2012年12月15日土曜日

◆古志・越とは



堀貞夫HPさん及びWIKIから引用

1,古志
『出雲國風土記』神門郡古志郷
 伊弉那彌(イザナミ)命の時、日淵川を利用して池を築造したまう。その時、古志の國人らが到来し、堤を施工した。そのとき彼らが寝起きした場所なり。それ故、古志と言う。
 2004年10月25日、中越地震の発生により、新潟県「山古志村」が孤立したニュースが全国に報じられたが、山古志の古志は飛鳥時代の国名で、高志、越とも記される。大化の改新以降、漢字表記が「越国」に統一され、その後、越国は越前・越中・越後に三分される。
 通説では、古志を北陸地方の国名で、朝鮮半島からの渡来氏族が定住したが由来だとする。たしかに日本海沿岸地方には古志の地名(長岡市古志郡、松江市古志原町、出雲市下古志町、富山市古志の松原、山形県古志田東遺跡)が多い。

2,古志と楛矢(こし)
 古志も高志も「こし」と読むが、漢語では古志は「guzhi」、高志は「gaozhi」である。
日本人には「ゴゥジ」に聞こえるが、濁音の少ない古語では「コゥシ」「コシ」と変化したと思える。筆者は粛慎の貢献品である命中精度の高い楛矢(こし)からきたと推察する。
 楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読んでいる(新撰漢和辞典『三省堂』)。また、一矢(いっし)を報いるという言葉があるように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
 楛矢(コシ)を持って日本列島に渡来してきた粛慎系部族を「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。越(yue)は漢語の意訳をあてたもので、後世の当て字だと考える。
 
3,越の国とは 
越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した、上古の勢力圏である。
 律令時代~現在の地域名としては、越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)と同義で、越後越中能登加賀越前の5国を意味する(「越」字がない能登・加賀も含めるのが普通である)。



4,粛慎が楛矢を持って来貢
『晋書』粛慎伝
周の武王の時代(紀元前11世紀)、楛矢(こし)と石砮を献じた。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢した。
   楛は中国原産の植物の名、幹が矢幹(やがら)に適しており、それで作った矢を楛矢という。この楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読む。一矢(イッシ)を報いるというように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
 この楛矢を持って日本海沿岸に渡来した粛慎を、当時の人々は「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。そうであれば「おろち」とはツングース族の部族名の『オロチ』だとしても頷ける。
  ちなみに、粛慎は1世紀には悒婁。4世紀には勿吉。6世紀末には靺鞨。9世紀には渤海国と黒水靺鞨。10世紀には女真。10世紀末に金王朝。13世紀後半に金が滅亡。14世紀後半には女真を再統一。17世紀には清王朝を立て、満州族に改名。このように何度も国号や族名を変えるが、日本とは密接な関係がある。


0 件のコメント: