2014・2月に完成し、500部を印刷しましたがすぐ無くなりました!
私のグーグルドキュメントにPDF版を載せましたが・・・印刷屋さんのブロックが
かかっていたようで、見ることが出来ないようですので
改めて載せます、先の写真版は全体のイメージがよくわかりますが
印刷するには少し不透明かもしれません。
そこでコピーが出来ますようにWEB版を作成しました。
文章のみです。
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文章のみです。
長いので前半(一日目)と後半(二日目)に分けています。
(後 半)
28 旭の岡
同じ年(文化9年・1812)の三月のはじめ頃、鎌田正安(まさやす)の家を、息子の正家(まさやか)と一緒に早朝に出発する。しばらく来ると、下小路という古い道に入る。右の隅の所を朝日屋敷という。つまり旭の岡である。
今この岡に、船木五郎の子孫で、神主高橋家利の家がある。今の道を中にはさんで、古四王神社の末社を奉祀している。末社の内外の神社(伊勢神宮)、住吉神社のあたりまでを朝日長嶺(ながね)という。曙御殿といった館のあった跡は、内外皇大神宮、住吉神を祀ってある後ろの辺りであろうという。
日がのどかにかがやき、花などが見られ、残雪の山々、遠い方も近くも霞がたなびいて、なんともいえない眺めである。ここに昔、旭の長者といって、朝日が美しく輝いて昇るように富み栄えた家があったという物語がある。旭の岡に清らかな道ばたの井戸があって、朝晩、大勢の人びとが汲んだ。
29 旭さしの木
荼毘(だび)小路に入ると、旭さしの木といって、たくさんの枝が垂れた大きな槻の木(ケヤキの古名)の、枝の先は雨を包みかくし、下の枝は辺りを覆うばかりの古い槻の木がある。
昔の子供たちはここで「朝日指す夕日かがやく木の下に漆満杯、黄金億置(おくおく)」と歌った。この歌は藤原秀衡朝臣が世の中を治めていたとき、金鶏山(平泉)、また鶏坂のあたりでも歌った。また糠部郡田名部の郷(むつ市)では、荒谷千軒が栄えた時も歌い、また同じ南部の五郎沼(樋爪五郎の由ありという。岩手県紫波町)でも歌うのである。また牛馬の足に漆をぬりつけた物語など、どこにも数多いけれど、この歌を、朝日夕日の木の下で歌ったのは、ふさわしいことである。この朝日差す大きな槻の根元に、石の釈迦牟尼仏を一躯(ひとはしら)安置してある。
30 目洗水(めあらいみず)
この下に泉(自然に地中から湧き出る水)の井戸があって、目洗い水という。目の病気のある人はひたすらにこの水ばかりをすくい上げて洗うからと、井戸の屋形の柱に柄杓(ひしゃく)を掛けている。
31 誕生水
こちらにも、また丸井戸があって、堅香子(かたかご)の花のように、多くの妻女が群がって汲んで帰る。その昔ここに住んでいた、朝日長者の初子(ういご)、朝日姫は、四月八日の朝に生まれて、その産湯の水をこの井戸から汲みはじめてから、この里の人達も、皆これに真似て、子供が生まれると、この水をもっぱら汲んで、生井(うぶい)の水と言ったのがはじまりである。今の時代まで誕生水といって、毎年四月の八日ごとに、広く世間の人々が、家にある仏様の御像を安置して、産湯浴(うぶゆ)を行い、また祭りを行った。この事はもっと他の人々にも知らせるべきである。『新撰姓氏録』に、「淡路の瑞井ノ水、奉潅御湯」とあるのも、このような井戸のことであろうか。
32 麻 畠(おばたけ)
この坂上の長谷川の家(子守徳右衛門という山まわり役)を左に見ながら街道に出た。しばらく行くと、十字街道(よつめど)という所があった。この四目通(よつめど)の東の路に入ると麻畠(おばたけ)という場所がある。苧麻(からむし)草を栽培した跡であろうか。
33 オダマキ
緒環路(おだまきのみち)という所がある。それはどこにも名前だけは言い広まっているが、誰もよく知らなかったのを、今よく考えてみれば、ここを言っているのだろうか。
それは、陸奥、出羽の人は、麻苧(あさお)の畠を指して、麻生(いとばた)といい、また麻生(おっぷ)とも言った。この苧畠(おばたけ)は、緒環(おだまき)を訛(なま)っていうのであろう。
『狭布(さごろも)物語』の歌に
谷ふかみ立をだまきはわれなれや
思う心の朽ちてやみぬる
小玉木(おだまき)は枯れ木ともいい、折手薪(おだまき)と言ったのであろうか。
この路は、朝日長者の時代に、皆が行ったり来たりした路と言われている。
いにしへの賤(しづ)のをだまき賤(いや)しきもよきも
盛りはありにしものを
と、過ぎ去った世を偲ぶ。昔その路をいっぱいに、楼斗菜(おだまき)という草(この草の花は茶褐色であり、実はワクテの形であり、また、一種は松前では小嶋草といい、別のところでは、をだまきといい、今一種は、山をだまきという。慶長(1596~1615年)の頃であろうか、この草を初めて皇都(みさと)に奉ったのは、後水尾天皇(1611~29年)の御代で、碧玉草と勅名があったと語り伝えられている。今はどこでも多い草である)がたくさん生い繁っていた所であろう。
34 光明寺(こうみょうじ)
道の南に寺の跡がある。これは、亀尾山光明寺という天台宗の寺であったが、久保田に移って今は禅宗の寺となった。
35 雁子山(がんごやま)
雁子山という所がある。鹿児山(かごやま)であろう。踏むとしとしとと鳴る所があるので、がんごといい、空(うどう)という。阿仁の籠山(かごやま)は籠岩からきたものである。うとう山、うとう坂など、非常に多い名前である。私の「善知鳥(うとうどり)の考」(未発見)を『外ヶ浜風』という書に、詳しくこの事を書いた。
また、越後(こし)の国にも、雁子浜(がんごはま)という所がある。それは昔、雁の子が生まれたことから付けられた名といわれている。
このがんご山を、また考えてみれば加乃古山(かのこやま)を訛っていったのであろう。この辺りに、かのこ草が多かったのであろう。今も土崎の湊山に大変に多い。それを、カノコといい、クサシモツケともハルナメシなどという草である。国学者谷川士清(ことすが)の『和訓栞』の鹿の子染のくだりに、
草にいう排草也といへり。又、春なめしという。オミナエシに似て春花咲るをもてなり、この根を和甘松とす、真にあらず。又、一種あり、夏白花を開く、下野(しもつけ)に似たり。○かのこ鳥は白鴎也
とみえる。この鹿の子草が生えていることから言われた山の名ではないだろうか。
36 両津山
このかのこ山の小松が群生している尾根に沿って両津山に出た。この山のちづれ松といって一本の松がある。これは、近江国の平岡山の美松(うつくしまつ)にも少し似ている。世にも珍しい松である。この辺りの畑の中から割れた瓦が掘り出されている。世間でいう、布目、縄目と同じ種類で、多賀城跡、また京都市東福寺の通天橋の下谷で拾ったものに似ている。やがて両津の坂にいたる。この山路は矢守矩一(のりくに)が現在の道を造ってから、山越えの坂になっているので、両津の坂という。昔は坂のない下を通る道であった。ここを近年になって竜頭(りょうづ)などと書くのは、漢詩に縁のあるよいことだとだとて好事家のしたことといわれている。そもそも両津といったのは中世であろう、土崎港と勝平の浦と、東西にあった二つの船着場のことである。その時代には勝平山の向こうは大きな船の入るところで、こちらは船を二艘つなぎ合わせて志婆の渡(しばのわたり)[むかし柴を束ねて並べて浮かし、上に板を敷いて通った、今所々にある船橋のことなり。その跡はその世に旭川と雄物川の合流点、川口町のいくぶん上流の所、柴の渡の跡といった]の時は雄物川も巾が広くて、河口も海も、船宿、問丸、軒を並べてにぎやかな所で、その東西の二つの船着場の中山である。
37 日和山、両津八幡宮
これは世間でいう日和山(船人が海上の空模様を予測した山)であろう。右の階段高くに鎮座する神社は、ひろはたの八幡神社でいらっしゃる。この神社を両津八幡宮と申して、天正(1573~92年)の時代までは境内も広く、神領の田も少なくなかった。その神田は、今は八幡田といって村名になって残っている。六月十五日、九月十五日、夏秋の祭典は今もある。
38 旭墳墓(あさひつか)
大善坊という修験者の古い屋敷跡に来る。この辺りは、みな塚原(土を小高く盛って造った墓地)で墓石の数が多い。その中に石碑が一つ小高い所に立っていて、その石の面に、「舟木五郎妻、朝日の桜比女、天文乙未(1535)年四月八日死、安永五(1776)年七月五日、高橋家休祭」と刻まれている。これを旭墳墓という。朝日とか十五夜(いざよい)などというのは、どこの国にもある巫女の家の名である。桜姫は巫女の名で、桜女(さくらご)と言ったのであろうよ。まったく中国の人の言ったように、多くはみな、年若い人の墓である。
ちりし世の春をぞしのぶさくら姫
根に反りにし花のおもかげ
知らない人の霊であるが、このように供物をして、ありし日を偲ぶ。
39 五輪峠
こうして、五輪峠になった。この五輪石は寛永二十一年(1644年十月四日、久保田の森九蔵という人が、父母のために、五輪塔を土崎湊に入る船が霧や霞のために航路を迷わないように目印として建て、遠くからそこが目印となったのは、大変よかったけれども、文化元年(1804)六月四日に発生した、夜の象潟地震で、有名な象潟の浦も残る所がない程に崩れ落ちた時、この五輪石の傘石が落ちて砕けた。そこで、新しい石をといっているうちに、また、文化七年(1810)の八月二十七日、男鹿地震があった。男鹿の浦に崩壊があった時、また今度は大五輪(いしのわ)の方が崩壊して、今はただ下の土台だけが残っている。
しばらくして、すみれの咲く芝生の崖ぶちで休んでいたら、眺めがたいそう良く、遠く男鹿の嬬恋山(寒風山)も霞たなびき、琴の湖(琵琶湖の湖に准られていうといえども、水の形が琴に似ている。また琴川が落ちることからいう・八郎潟)面(づら)、また湧出山(男鹿の赤神獄之腰袴之あたりをいう)、花折山(本山に続く山)、水海も塩瀬の日本海の波も一緒になって入り混じるごとくに小舟が動きめぐり、遠く近くの山の雪は霞に消えるような感じがして、大変に趣き深い峠である。
40 妙覚寺(みょうがくじ)
南の畑の中に古跡がある。亀頭山妙覚寺の古寺のあった所だという。もとは天台宗で、今は禅宗となって、久保田に移った。大悲寺も妙覚寺も、久保田で隣り合わせて並んでいる。鎮守の神として古四王神社を祀っているのは、古を忘れない証であろう。
41 烏が池(からすがいけ)
今、両津の坂を下りて、右の方に烏が池というところがある。この池は、近頃まで大変大きく、水も深く澄み、雨乞いなどをした所というが、今は水が涸れてこじんまり、池の中心も浅く、ただ土が窪んでいるように見えた。
42 八幡神社
この両津山の八幡神社は、始まりは安倍家の先祖があがめ祀られた神で、烏が池は御手洗の水といわれた。また土崎湊の蒼龍寺の蒼竜権現も、秋田城介実季の先祖があがめ祀られた神社といわれる。これらは皆、将軍浜という野の中にある。
43 大悲寺(だいひじ)
焼山といわれる所がある。また、西北の方に、普門山大悲寺という天台宗の寺があった。それは前にもいった寺で、今は臨済宗で、久保田の寺町に移っている。
44 城 町(じょうまち)
畑の中の路に入ると、城(じょう)というところがある。ここは、昔、前城町、後城町といった町があった。慶長、元和(1596~1624年)の頃であろう。その家々のすべてが久保田にひき移された。今はみなそこに住んで、後城町を城町と改め、前城町を馬口労町と名付けた。
この町の人達は、古四王の神を産土(うぶすな)として、畏み奉って、四足二足の忌み言葉で、二本足の鶏、四本足の獣、鶏の卵などの火を交えないため食べないで、正月の元旦から八日まで精進潔斎してじっとひきこもるのは寺内と同じである。
土崎湊に新城町というところがある。これは前城町、後城町のあった時、この城町から移った人が、土崎湊に町をつくって住んだ時の名前であろう。
45 高清水の岡
南に前城町の跡があり、北に後城町の跡がある。その中に小高い所があって、古城の跡という。これを考えてみるとに、『続日本紀』巻第十一、聖武天皇の巻に、
天平五年(733)十二月二十六日、出羽柵を、秋田の村高清水の岡に遷し置く。また雄勝村に郡を建て民を居く。
云々と書いている。これは、この古城の跡こそ高清水の岡で、今鎮座する古四王神社の宮処も古い社地ではないので、その社地よりこの辺りはみな高清水の岡であるから、天平五年(733)頃までは秋田村といい、また『倭名類聚抄』に、「秋田郡に高泉[清水を寒泉とか書きなすが如し]」とあるのも、この岡のことであろう。
46 神明社
深く尋ね、詳しく探してみると高清水の岡には、たいそう古い所が多いのである。また、慶安、承応(1648~55年)の昔までは、ここに内外の宮(うちそとのみや)があったのですが、その社を旭の岡(古四王神社)に遷し奉ったのである。そこ(古四王神社)に鎮座している神明社と申し上げているのが今の神社である。今は、古四王社の末社(えだがみ)のようになっておいでだが、昔は高清水の柵(しろ)を守り、秋田の村を守り、幸(さきわい)給えし天照皇大神宮の神社である。世が乱れ、時が移れば、このような由緒ある神社も、それと知る人がないのは畏れ多いことでないだろうか。
47 問屋が沢(とやがさわ)
土崎の浦の米庫町(よねくらまち)の近くに来た。鳶が沢という地名がある。これは烏が池と同じで、鳶(とび)が沢、烏が池といったのであろうと思ったが、実はそうではなかった。
元亀、天正(1570~一92年)の昔までは、この辺りは船宿や問屋が軒を並べてあった跡で、その問屋(問丸は問屋の古名なり。)の沢ということを、早口で言ったのを訛って、鳶が沢というのであろう。
48 馬下(うまおろし)、的場(まとば)
いつの地震で崩れたのであろうか、非常に高い雄物川の川岸で、危うくて目が眩むような心地がした。小さな流れがあって、雄物川に落ちている。大きな黒岩があったが、埋もれてなくなり、名前だけが残っているという。
馬下(うまおろし)という所がある。一段と高く嶮しいところで、昔、行き来する人が危なくて恐ろしかったので、馬から下りたのであろう。
的場という場所がある。その時代の弓を射る場所の跡ではないだろうか。
49 古銭の甕を掘る
最近の明和(1764~72年)の頃ではなかろうか、九月十九日、中の節句といって家ごとに餅つきをして祝い、酒を飲み、大勢集まって歌い、村を上げて楽しんだ。
この寺内村の七右衛門の子・万之助、八重郎の子・乙松、総太郎の子・仁八、の三人の男の童子(わらし)が、高い木に登り、野原を駆けめぐり、ふざけて遊んでいる時に、すり鉢の底のような陶器が、砂の中から少しばかり見えた。これは何だろうといじりながら杭のような物を持って、差し動かし、揺れ動かして一つの甕を掘り出した。大変重くて、持ち上げることが出来ないので、親達が聞きつけて来て、なお押し動かして、やっとのことで土の中から引き上げて見ると、この甕の中はたくさんの古銭で一杯であった。急いで肝煎にこのことを申し上げると、役所にすぐ申しあげた。
これをご覧になって、役所から、今のお金に替えたくさんのお金を賜ったという。お金は爪開元(開元通宝)といって、お金の裏に爪の印があるものが非常に多く、また、色々なお金も混じっていて、全体を見れば十五貫もあったとか、その中に五朱銭九枚、半両銭が二枚あった。お金が入っていた甕に波型がついていたので、役所ではその甕を「さざ波」と名付けられたと言われている。
そのささざ波の腹に、「九ツ之内」と書かれてあった。これを見て、まだ八つの甕が残っているだろうと、ひたすら掘りに掘ったが、掘り当てることが出来なかったが、享和(18-1~04年)のはじめであろう、土崎湊の杉山小路の権平の子・万平という舟乗りが、川舟でやって来て、この雄物川の岸から銭桶を掘り当てた。万平は寺内の甚之介の子で、湊に養子になった者で、この辺りのことを良く知っていたので、そのように掘り当てられたのではないかといった。銭は前に掘ったものと変わらなかったという。先のさざ波の甕を掘り出した時、その銭甕に混じって、焼けた畳、米などが出たといった。戦乱の時に焼かれた住居の跡ではないだろうか。
50 古八幡神社(ふるはちまんじんじゃ)
雄物川の河にのぞんで高い崖伝いにさかのぼって来ると、古八幡というところがある。その由来は佐竹の十四代に当りる義人公(常陸時代)といってよく知られている殿様がいらしゃった。この殿様、何事にも思慮深いお方で、鎌倉山の鶴が岡八幡宮の大神を、常陸の国に遷して畏れ敬った。この神主は、女の神主で鶴が岡の鶴子といった。
代々続いて、慶長七年(1602)に、佐竹右京太夫義宣公と申し上げる殿様が、秋田に国を賜って、九月頃に柴の渡りをして、この国に入部なされたことに関係がある。まず、八幡の大神を御船に先に立たたせたので、沖の潮風も穏やかであった。船が泊まると、この河上の綺麗な真砂の上に仮宮を造って、瑞垣を引きまわし、清らかに結びめぐらして、祭儀を行われた。
しかし、久保田の城が出来てからは、城の近くに神社(正八幡神社)を大規模に立てて遷宮された。前は、四月五日の神事には、この仮宮の跡に必ずいらっしゃるのだが、どこの誰であったか、恐れ多くもこの仮宮の玉垣の所で首をくくって死んだのがいる。そのような者が汚したので、仕方なく畏れ多いと思い、焼山にある古池の辺りの岡で、四月五日、そこで神の御旅の行事をやっている。
古くなった仮宮跡は雨で崩れ、河の波に打たれてダメになってしまったので、ただ、古八幡の名前だけが残っておられる。
51 八つ目延縄漁(はえなわりょう)
この高い崖の下の方は雄物川の水が淀んでいる所で、八つ目鰻を捕るという。中秋の頃からはじめて、氷の底にいる鰻までを捕った。この八つ目鰻を捕る漁は、まず三百尋余り、又は二百尋、又は百尋余りの大綱を、向う岸辺からこちらの方に引き伸ばして渡し、それにダボというものを五百余りも、つる草の根を延縄(はえなわ)のようにぴっしりと大綱に取り付けた。漁師たちは、一番、二番と川下まで順番を決めて、その綱の数は五十組もあった。
ここの漁師は春から漁具などを手入れして、秋の初めには、この寺内村で、それを仕事とする人が村長の家に集まって、くじを引きをして、一、二、三と延縄の順番を決めるのである。一番綱に当たった漁師は、一年間分の収入が得られるといって、飛び上がるほどに喜んで、祝の酒宴をするということである。二番三番までは一番綱には及ばないが、仕方がないことである。だんだんに後ろの網は漁が少なくよくないといわれている。冬は八郎潟の氷下漁と同じ時期である、この漁も二月の末頃には終わりとなる。
山川に筌(うえ)を伏せて守りあへず
年の八歳を我がぬすまひし
『万葉集巻十一』》、その筌(うえ)というものをダボとかいったのであろうか。八目鰻は、この辺りではたくさん捕ったために、生簀(いけす)に放つて、背負籠のような魚箱に入れて、漁師の家の女たちが、久保田の市や土崎湊に背負って、「八つ目、八つ目よ!」といって売りに歩くことを仕事としている。
52 陶器窯跡
ここの砂原に陶器(せともの)の割れたのが、石ころのようにあった。これを見ると高麗系の陶器、平瓶、盃、長頸の類、居瓶、転瓶のようなものも出た。この等の外側は櫛形、糸文(いとめ)、松葉文がある。また、この瓶の内側には波形状、同心円形がいろいろ見えた。また、半田焼、織部焼のようなもの、瓦の割れたものも多い。
置き瓶のような陶器の内側には波状形、同心円形は、どういうわけかと考えてみるに、大昔の擂り鉢に対して、今の世の擂り鉢の中の稲束形は、昔の名残であろう
過ぎて来た的場というところは、非常に良い土が採れるので、そこで昔は陶器を作ったのであろう。また、石神の岡も、陶器窯の跡であろうと思われる。
53 安吉多抒(あきたど)
安吉多抒という名前の畠がある。それは秋田殿(あきたどの)なのか、秋田堂なのか、その訳ははっきりとわからない。畑の中の細道であるが、ここであろう。古い道であるわけをいえば、ここは秋田通りで、昔、秋田村に通った道であったろう。
あの古池の辺りに来た。五輪塔の重ね石が一つ、草の中に埋まっていた。寺の跡だろうか、人の墓なのだろうか、はっきりしない。
54 元慶の乱で反対した十二村
焼山の麓に来る。ここを焼岡とも呼んでいる。ここから北西の方の畑の中には、二百年もの昔まで、たくさんの家があった跡だと語っている。また焼山の上にも、不思議な人達が住んでいたと語り伝えている。蝦夷(えみし)などであったのであろう。
これを考えるに、『日本三代実録』巻三十四に
「元慶二年(878)年七月十日癸卯、出羽国飛駅奏曰云々。・・・率上野国見到兵六百余。屯秋田河南。拒賊於河北。又秋田城下賊地者。上津野。火内。椙渕。野代。河北。脇本。方口。大河。堤。姉刀。方上。焼岡。十二村也。
その十二村の、上津野(かづの)と呼ぶのは、陸奥国毛布(けふ)郡は今でいう鹿角郡である。上津野は鹿角と転じたものである。火内(ひない)は秋田郡の比内の村里である。比内を樋打(ひうち)とも書いた事が見える。火内はもと蝦夷語で良沢(ぴるない)をちぢめて呼んだ。また比内、小比内など、今も所々にある名前である。昔はどこでも蝦夷が住んで、夷語(えぞことば)が多い。
綴子の宿場が枝分かれした集落が、今は畑となってしまい知巨奈韋(てこない)という名前だけが残っている。それは昔の囲いの中に住む(日本書紀の柵養(きこう))蝦夷である。奈韋(ない)は沢ということで、松前嶋(北海道)にも同じ名前があって、それを夷人(えぞ)は吉古那委(きこない)と呼び、そこの里人は知巨奈韋(ちこない)と呼ぶ。某内(なにない)某内(くれない)と呼ぶのはみな蝦夷の言葉である。椙渕(すぎぶち:旧合川町)は、上小阿仁の里に古館の跡がある。応永五(一三九八)年の頃、杉渕播磨守某の居城であったといわれている。その辺りを杉渕と呼んだのであろう。
野代(のしろ)は今の山本郡である。『日本書紀』に淳代と書いてあり、延宝、天和(1673~84年)の頃までは野代と書いたのを、極めて近い時代、野代の文字はふさわしくないとのことで、能代と書かせるようになったのである。河北は山本郡冨岡荘の里霧山の麓桧山(能代市)の辺りのことを呼ぶ。古い記録、古仏像などの裏に「河北」と記している。昔、大河の流れが北にあった場所であろう。天変地異によって、今をもっては昔を知ることはむずかしい。
腋元(わきもと)は男鹿の雄猪鼻(おいばな)の海辺に脇本村がある。古くは湧元で、温泉があった時代に呼んだものである。脇本は津軽にも、松前にも、所々で知られる名前である。方口(かたくち)は、出羽の秋田の人などは湖をもっぱら潟と言っているので、湖口(かたくち)であろうか。八郎潟の近くに塩口、大口という二つの村がある。それを呼んでいるのであろうか。また方口は大口の文字を虫が食って損なったとして、方口とみなしたものだろうか。
大河(五城目町)は、一日市という宿場に、五十目川(馬場目川)を中にはさんだ村である。これも昔の場所とは、ほんの少し、違っている。
『吾妻鏡』に、文治六年(1190)正月七日条に、
七月壬戌。奥州囚人ニ。藤次忠孝者。大河次郎兼任が弟也。頗不背物儀之間。己為御家人。
と書いてある。この兼任が住んでいた場所であろうか。また『奥羽永禄軍記』に大河左衛門という人が見える。
堤は塘とも書いたのであろうか。秋田郡中津股(五城目)の枝郷(えだむら)に川堤という村がある。また上堤、下堤という村がある。また堤五左衛門という人が、最近の軍書に見える。また堤という場所は、同じく上小阿仁の田畑の字にあるという人がいる。姉刀、婦刀(ふと)と間違ったのであろう。婦刀は布戸などとも書いて、今、その場所は男鹿にあって払戸村(旧若美町)という。方上は、分上(わきがみ)」の誤りであろうか。これを分上、別上、分髪(わきがみ)などと書いたこともあるとか。今、ここ、比内の米代川沿いに脇神村(旧鷹巣町)がある。
55 焼 山(やけやま)
焼山は、焼岡ともいうといわれ、この寺内にある。焼山に不思議な人が住んでいたということは、その十二村の賊地だとすれば、それは蝦夷人(えみしびと)のことであろうか。また焼山について、
『(日本三代実録』元慶二年(878)四月二十八日条に
出羽国守正五位下藤原朝臣興世飛駅奉言。賊徒弥熾。不能討平。且差六百人兵。守彼溢口野代営。比至焼山。
と見える。溢口は塩口を間違ったのではないだろうか。焼山という場所もここでないであろうか。また、野代も今の能代ではなくて、向能代といって、米代川の向いにある鹿城村(しかじょうむら)の近くに昔はあったのである。焼山も、焼岡も同じ山であろう。
56 小林、一里塚
小林という所に下りた。ここに、時を経た榎(えのき)が一本ある。昔の街道だったという。この辺りは山峡(やまがい)とのことである。しの竹の中に、萱ぶきの住いがあちらこちらに見える。どこからだろう、うぐいすの声が珍しく、まばらな垣根の梅が咲き始めている所に、しばらし立ち止まって
鶯も人も人びとつげぬ梅匂ふ
とはずばしらじやまがひの屋戸
この榎は当時の一里塚で、最近までは二本あったが、一本は枯れてしまった。今の榎は、切り株から出た木だろうといわれている。この古い道は、土崎湊の山荘(やまやしき)から鉄液山(かなくそやま)を経て、穀保町の東の岡を過ぎ、秋田通りを行って、この山峡に分かれる道があり、東に行って、綾小路を経て、殖野(うえの)を過ぎて、水口(みのくち)に行き着き、小菅野の渡りをしたという。また、南西に向かって行けば、清五郎沢といわれているここから奇南橋(きゃらばし)を渡って、高清水の岡の下タ路を朝日夕日の中の岡を越えて、根笹山を分けて竹生(たこう)の岡に出て、箱明野(はこあけの:箱岡)を経て藤の森に入り、柴の渡りをしたという。
57 清五郎沢(せいごろうざわ)
やがて清五郎沢に来た。ここは秋田家の落人が、戦乱を避けて世間から身を隠した山里である。その人達の長を安部(倍)清五郎某といったので、このことから清五郎沢という名前がついた。最近までここに住んでいたが、今は吹上というところへ残らず移り住んだが、生活が難しいので、万事がつらく、惨めな状態となって、皆んなが乞食となり、親族一族が多いことから吹上山の麓に住んでいる。
58 千歳の清水(せんざいのしみず)
この清五郎沢に千歳の清水と呼ばれる所がある。前栽(せんざい:庭の草木)をこのようにいうのであろうか。この清水、冬は室(むろ)の八嶋のように湯気が立ちこめ、いで湯のように暖かく湧いて、辺りは雪が降っても積もらない。夏の照りつける空にも、この水の下の方でさえ、冷たい氷を踏むような心地がして、渡ることが出来ないという。
把(く)む人の齢もさぞな山まつの
影をちとせの水にうつして
59 伽羅橋(きゃらばし)
世にも素晴らしい清水である。これを前栽(せんざい)の清水とするならば、どんな人のいわれがあって、ここに住んだ屋敷の跡であろうか。また、この谷川に架けた橋を伽羅橋といい、又香の木橋ともいい、又は香炉木橋(こうろぎばし)という。
その謂われは、いつの頃であろうか、浪速(なにわ)の船人が、日が暮れてから勝平の里より柴の渡りをして、湊の船着場に帰ろうと、道を歩く足取りも重く、火縄を振り振りここに来て、しばし橋の上で休んでいるうちに、火縄が風に吹かれて、橋板を焦がして、くすぶる匂いがなんともいえないのを怪しく思い、爪で蚊の足ほど所々を掻きとって、懐紙の間に入れて宿に帰った。
炭火の中に入れると、さらにいっそう薫るので、居合わせた人達が鼻で匂いをかぎながら、これは沈水香(じんすいこう)であろうというと、船長(ふなおさ)は心の中で微笑んだ。
朝になって肝入(きもいり)の所に行き、「自分は船長である。船長の仕事は神仏の助けがなければ、なんとしても生命を全うして世の中に生きることが出来ない。そのために、あちこちの神社や寺院へ財貨を寄進し、祈り、加持をたのんで、計り知れない荒海の上で、板子一枚を命と頼んで、水の泡よりもはかない身の限りを思い、また、波に打たれ風に吹かれて、行方も知らないことがあり、命を失った私の友のために、寺々でお経を唱えています。悪い道があれば往来しやすいように造り直し、危ない橋はかけ替えたりすることを、この身の願いとしております。そうですから、この千歳の流れの橋も朽ち果てて、危なくなっています。この橋を新しく架け替えたいと思いますが、如何なものでしょうか」
と言ったら、肝入は大変に喜んで、これを承諾していうには、
「あの千歳の橋は、一年中、海が荒れに荒れて、多量の大きな流木が波で打ち寄せられたのを、幸いその流木で仮橋を造ったのです。この橋も古くなり、架け替えを今年こそ今年こそといいながら、間に合わせにして八年になってしまいました」と答えた。
その橋を架け替え、人を渡すという功徳は、大変立派なものだと、肝入はこの上なく喜び、船長に酒を勧めた。
まもなく、橋造りを進めましょうといって、船長は湊に帰り、腕のよい大工をたくさんの銭を払って頼み、少ない日数で、高い高欄の橋を、キラキラと輝くように架け替えたので、この橋を通る人は、みな立派な橋だと誉めそやして、喜んで、人馬が安心して渡った。
こうした後、船長は橋の朽ちた木を跡形もなく、自分の船に持ち運ばせて積み込んだ。これを見た人は怪しんで、橋の朽ちた木を、何の材料にするのかなァと思っているうちに、追風が吹いたので、帆を上げて出航した。
摂津の国(大阪)に持ち帰り、誰彼に見せたところ、この橋の木は伽羅(きゃら)、羅国(らこく)などの国で産するものであろう。これは、品質がよく、世間で言う柴舟(さいしゅう)などという香の木もこのようなものであろう、また、類まれな珍しい沈水香だと、高価な値段で商人達はこれを競って買い求めたので、船長は風が吹き寄せるように、たくさんの黄金を手に入れて、身分が変わったように、大金持ちとなり栄えたといい伝えている。
世の名高い名笛・泉郎焚餘(あまのたきさし)の物語に似ている。伽羅の木は香炉に入れて焚きくゆらせることから、こうろぎ橋、きゃら橋の名があるのである。また、香の木橋の名前があるが、「君こうろぎ」と歌にあるような類ではない。雄勝郡桧山台(東成瀬村)の山路には、こほろぎ坂があり、武蔵にも、こほろき橋があるということが、『江戸砂子』に見える。また、越後国の柏崎にある寺院を、こうろぎ御坊といい、前に掛かっている橋を高麗木(こうろぎ)の橋という。同じ名前もあるものである。
60 こうろぎ
昔、山峡(やまがい)に住んでいた人達は、吹上というところへ住み移ったが、前に住んでいた所の名を呼んで、こうろぎ(虫の名)だけと言ったといわれている。こうろぎは、乞食(かたい)のことだと思われる。尾張国名古屋で吃索児(かたい)を、ゲンカイというのである。玄海法印は、駿河の町中にある円行寺の開祖であって、知恵も徳も備わった地位の高い僧であることから、この法印玄海の名前を知らない人が居らないくらい、皆が知って呼んでおり、この寺の後ろの所は、片居(かたい)たちの住家ばかり多いので、玄海の寺も一緒に呼ばれるようになったのが始まりで、玄海とは吃児(かたい)のあだ名だと思い違いすることがある事に似ている。
61 高野山(こうややま)
この伽羅橋から北の岡を、高野山という。坂があり、険しくはないが禿坂(かむろさか)という。不動坂などに比べられたところであろう。岡の上に古塚がびっしりと並んでいる、スミレが若草と一緒になって、不憫に咲いている。これは神主、巫女、一般の人も亡くなれば、皆、この岡の辺りに埋葬したという。昔は大松がたくさんの枝を垂れ、横に伸びていて、古くて神々しいところだといった。今も、松がまばらに生えている丘陵を、浜風が吹き越えて、松風の音が大変に淋しい。
今はそのまつ暁やちからむ
千とせふる木も生えかはりけり
と、内大臣三条西実隆卿の歌も、この岡を詠んだような気がさせられて、口ずさみながら立たずむ。
62 二ツ五輪
道の側に二ツ五輪といって、五輪石が二ツ並んで建っている。
「貞亨二年(1685)二月二十九日、為存海菩提也」と、苔むした石碑の表面に彫られていた。もう一つの石塔には、「為師文菩提也、今年今月今日」と彫られている。存海とは僧名であろうか。師文(もろぶみ)はどんな人で、いつ頃亡くなったのだろうか。年月日も刻んでいないのは、世を忍ぶ人であったのだろう。
伝え聞く所によると、山形の最上義光(よしあき)の家臣であった安彦(あびこ)左衛門尉某、どのような理由があったか、主君の命令に背き、ここ秋田に来て、土崎の宿屋に身を潜めているうちに、最上より、この安彦を討って貰いたいとの使者が、しきりに来たので、家老の梅津政景(『梅津政景日記』慶長十九年十月二十六日条)はこの申し出を承りたまわりて、土崎の隠れ家に行き、「まづことなしや」と述べれば、安彦も相当な者で、政景に手をついて、「その通りです、今日は討つために迎えに来られたのであろう、このように身には過ぎたる喜び、お待ち申しておった」と、微笑んで事情を述べたところ、政景は手をはたと打って、「これは立派なことである。しかし厳命であれば仕方あるまい、心静かにそのようにしたまえ」というと、
安彦は後についてきた五人の部下を呼んで、「私はこの世の最後であるから、暇を与える。よい主君に仕えて、身を立てなさい」というと、「これは、頼りなき仰せを承るものである、いったん、主人に捧げたこの身を、どこの誰に仕えましょうか。主人があの世に逝くのなら、従って行きます。このようなご命令を受け賜るのは、一身のゆゆしき恥です。児手柏(こてがしわ)の両面のような二心はありません」と、皆涙をハラハラと流して言うと、
「それなら、その心に任せよう。さっそく」といえば、五人の勇士が勇ましく腹を切ったので、安彦は刀を手に持って、五人の首を打ち落として、政景に向かい、「そなたの腰の刀もさぞ、特によいものでしょうが、この刀は、わが家之重宝として伝わり、多くの戦で使われたたちである。そなたにこの太刀を贈りましょう。まず私の首を切って試して見て下さい、いま五人の首を落としたばかりだが、少しも鈍っていません」といって、心をふるい立たせて腹を切ったのは、残念なことに勇ましい武士であったと、武人を惜しんだ。また、安彦は家臣として主君に背き、身の振り方が忠でないので、主人に従ってきた五人の勇士こそ、世間では忠な人であるといわれる。
その剣太刀は、いま、梅津政景の子孫に伝わっているといわれている。この師文の五輪石塔は、安彦の墓だともいわれている。安彦の妻は、遅れて後を追ってきたが、このような成り行きを聞いて、この墓石を建てたといわれている。世間に遠慮して、年号を刻まなかったのではないだろうか。
完
参考資料 梅の花湯之記 梅茶屋
菅江真澄著「水の面影」で寺内の史跡を皆さまに紹介しました。古四王神社の真向いにあります池田家は「藤茶屋」といって寺内地域においては昔から親しまれてきました名所でありますので、大館市立図書館所蔵の「梅の花湯乃記」にあります資料を引用し梅茶屋をご紹介します。訳文は中野みのる氏著書によります。
出羽の国秋田郡寺内村の水渟る里の池田家では、梅の花湯またの名を梅か香というものを商っている。その由緒は、天平の頃、出羽の柵をこの秋田の郡高清水の岡に遷し置かれたことに始まる。寺内の地は、その頃もっと賑わっていた。また、延暦(782~806年)の世、坂上田村麻呂の蝦夷征伐に来られた時、勝利を祈るため古四王神社を建立してより、この里はますます栄えるようになった。
この里の綾小路と呼ぶ辺りに、大きな梅園があった。都から来た役人たちも集まって、花を眺め鶯の声を聞き、句詩を作り朗唱し宴を開いた。湯を召し上がろうとしたその時、春風がサッと吹いて、梅の花びらがはらはらと散り、自然と落梅花の曲のようであった。これは見事な風情だと見ているうちに、陶杯の中に一枚の花びらが入った。
この里の綾小路と呼ぶ辺りに、大きな梅園があった。都から来た役人たちも集まって、花を眺め鶯の声を聞き、句詩を作り朗唱し宴を開いた。湯を召し上がろうとしたその時、春風がサッと吹いて、梅の花びらがはらはらと散り、自然と落梅花の曲のようであった。これは見事な風情だと見ているうちに、陶杯の中に一枚の花びらが入った。
側女は早速「杯を清めて参りましょう。新しいお湯をお召し上がりください」といったところ、この役人は「これは目出度い。新しいお湯に換える必要はない。この梅の花湯こそ身も心も清らかにする」といった。その場に居合わせた人達も、当然のように愛でて、湯の中に花びらを入れて飲み、また湯漬けなどにして召し上がったと伝えられている。
時を経て今の世となり、梅の花湯を振る舞った屋(やど)の辺りも、往来の道も変わり家並みも変わってしまった。天正(1573~92年)の頃になってからは、高清水の辺りからは梅の木も少なくなり、また、梅の花は季節でなければならないものなので、湯には梅の種を砕いて粉にして入れ、今も絶やすことなく商っており、“梅の花湯”とも“梅か香”とも呼んでいる。
近世にになって、屋(やど)の庭に藤の木を植えたので、「藤茶屋」という名で呼ばれるようになった。この梅の花湯を飲んだ人は感冒にかかることはない。
魂結びの神々も鎮座し、ますます神のみこころを鎮め、神の心を慰める気持ちを持つようになり、どこの神に詣でる人も、お互いすれ違いの汚れを払い、たまに古四王神社に詣でる人達は、この茶屋で休み、この梅か香を飲むことによって、忌竹(葬装用の旗の柄とする七本の竹のこと)の忌ということもなく、全ての願いを御注連縄に賭けても引受けるとのことである。
菅江真澄 (花押)
しばしだにこゝにいこはゞ誰が袖も
とめてやいなん里の梅が香
此の屋戸の梅が花湯の梅が香を
しるべにとはん四方の旅人
文化九といふとし(1810年)の春しるす
たはれ歌ひとくさ
あつからはうめゆといひてひさき女の
梅か香盈す鶯のそて