2014年6月6日金曜日

❏菅江真澄「水の面影」現代語訳全文(WEB版)前半

2014・2月に完成し、500部を印刷しましたがすぐ無くなりました!
私のグーグルドキュメントにPDF版を載せましたが・・・印刷屋さんのブロックが
かかっていたようで、見ることが出来ないようですので

改めて載せます、先の写真版は全体のイメージがよくわかりますが
印刷するには少し不透明かもしれません。

そこでコピーが出来ますようにWEB版を作成しました。
文章のみです。



            長いので前半(一日目)と後半(二日目)に分けています。



(前  半)

 出羽の国、率浦(いざうら)の地、寺内の村、高清水の岡のあたりは、たいそう旧跡が多い。その中でも十八の名高い所を挙げている。その故事由来を一つ一つ詳しく知っている人もいないので、鎌田家に滞在して、誰彼に問い尋ね、また、里の古老が聞き伝える昔の物語を手引きにして、それを頼みの糸口として、知らない山に分け入る。(率浦とは実は高水(たかしみず)郷である)


1 堂場(どうにわ)
(文化9年・・1812)二月の初め、この里に住む鎌田正家(まさやか)、梅の花湯を売る藤茶屋の主人、子供などを誘い出して、寺内の里、根笹山の坂の上、堂場というところを朝早く出発した。昔はこの辺り荒波が寄せていた磯辺で、真木がうっそうと生い茂った山であったという。
ここに神亀天平(724~749年)時代の頃から拓けた旧道がかすかに残り、永徳、応永(1381~1428年)のそれほど遠くない昔に通った道を歩いた。また、年代のあまり違わない万治(1658~61年)の初め歩きはじめたであろうという道が今もあって、二度三度と街道も変わったということである。


2 綾小路(あやのこうじ)
今、街道を東に入る小道があって、これを綾小路という。これは都にも同じ名で呼ぶところがある。由来のあってのことであろう。
この綾小路沿いに西の方の道がある。茅葺きのささやかな家々が笹の中に隣狭しと並んでいる。ここであろう、当時は梅が大変多くて、鶯の鳴き声もとぼしくなく、誰でも聞けたであろう。

梅の花ちらまくをしき我れそのの
竹の林にうぐひすの鳴く

と、そうはいうものの惜しいことに、昔の春も偲ばれた。梅が真っ盛りであった頃は日差しがきらきらして、目を見張るものがあると言われた名所であったろう。
綾小路のまたの名を獅子舞小路ともいう。これは思うに、出羽、陸奥の国中がみんな、獅子頭を頭にいただき、笛を吹き、鼓を打ち、歌舞をして町中を声を上げて騒ぎ、囃ながら歩く。
それが「綾小路から獅子が舞ふてまゐりた」と歌い、「青柳の糸をよりかけてよりかけて梅も桜も春は花さく春は花咲く」と歌う。この歌もその地方によって少しは、変えているがすべては同じである。
この里の栄えた昔の神事(かきわざ)のときは、古四王(かみ)の神輿の前をはらい、先ずこの小路から追いもって渡ったことから、(あや)の小路、獅子舞小路という二つの名前がある。この歌詞も「韓国(あやのくに)」からと唄うべきものを、「あやの小路」「あらやの小路」となまって唄うのは、陸奥、出羽路も同じである。しかし、ここの名のある綾小路は、なにか由来がありそうに聞こえる。


3 梅屋敷
 この綾小路を半分ほど行くと、左の方に六右衛門という家がある。この家の後ろの場所に、昔の梅園の跡といって、今では畑に変わり、更に笹藪となっている。その昔、この辺りに梅を植え増やした。ここに花の咲く頃は、大変厳重に柵をまわして、一晩中花守に命じてこれを守らせた。その時期となれば、花を見ようと村里の人々が、大勢来て、歌を詠み詩を作り楽器を奏で、二月の雪を歌い、梅の花が散る頃まで楽しんだ所という。里人は、柵の梅、また梅屋敷といい伝えている。
宝暦、明和(1751~72年)の春までは柵の梅も二・三本は老木ながらも枯れ残っていて、毎春つぼみの色は薄紅色で、八重も一重も枝が入り交じって、花が咲けば雲ではないかと見間違うばかりである。枝の高い花は雪がたくさん積もった様で、その花の美しいこと、他の梅の木にはありえないなど、遠い昔の梅の花ものがたりを聞きながら歩いた。

   うめぞののむかしの春をかたりつぎ
いひつぎ匂ふ人の言の葉

と鎌田正家が詠んだ。そしたら、今回誘って連れてきた子供が「花ぞむかしの香に匂ひける」と、別に気持ちもわからないのに、百人一首の歌を思い浮かんだまま詠った。
これはまあ、むかし京の淀の渡りの夜ふけに、女の舟に通った心境もこのようなものであったろうかと、非常に面白すぎて、これでは、あらたに歌を詠むこともできないと、恥じ入って口を閉じた。この子供と腕比べもなんだが、ただ止めてしまうのも、本意でないだろうと人が言うので、題字歌を作った。

ぐひすはでこし梅のどりとて
らぬむかしをてのみぞなく

武蔵国江戸の津村宗庵(そうあん)が『雪の不留道』に、
「梅屋敷という所を訪ねた。城ノ介実季朝臣(安東実季)が梅を褒めて歌を詠んだ所ということで、今もそのように言い伝えられる。右の方に入っていけば岡を後ろにして、萱葺きの家がまばらに建っていて奥まった所である。どちらに梅がと聞けば、畑を耕していた男、腕を組んで、最近までは花の持ち主も家に住んでいたが、歳をとってから、どこへ行ったのかはっきりしないと語る。梅の木もこの地にあったけれど、木も長い年月を経てしまい今はその根さえもないが、その跡は確かにここだと教える。みんな大変はかない気持となり帰っていく。道祖神(わだつみ)によって変わってしまうのもそんなもので、場所も変わらないのに、跡が残っていないことが今更のように、はかないものだと誰もが言うであろう。

朽のこるむかしをとへば梅が枝の
ありし家さえさだかにもなき

と載っている。


4 古四王神社
 この綾小路を出ると、こまかい門田の何枚となく隔て、雪の消えた集落の南の岡に古四王の神社(みやしろゃ)がある。古木が生い茂っている間から、はっきりとそれとはわからないけれども、正面は北に向けて造り据られているとわかった。岩戸の神、住吉の神、この二柱の神社は横向きに千木(神社の屋根の破風の両端に×字形に交差させた木)の片側をそぎ落としたものが後ろ向きになっているように遠く見渡せる。こちらの方向からこそ、昔の参詣の道があったのであろう。


5 次装野(いざの)
 振り向いた右寄りは、小沢という山路に入って次装野の原に出るという。この去来野(いざの)は、『和名類聚抄』に、率浦(いざうら)とある所が、野原に変われば、率浦を伊謝野(いざの)といったのではないだろうか。また海に近い所は率浦で、海に遠い方の野原をいざ野と言ったのであろうか。どちらにせよ、ここは率浦の古名でよいであろう。
 

6 鐘撞長峯、殖野(かねつきながね、うえの)
 北の方の岡を鐘撞長峯といって、古四王神社の鐘楼の跡があり、昔はそれほど広かった神社の社地であったと考えられる。ここから北の方に行って殖野(うえの)という所に出たら、子供が急いで手紙を持って来た。なんだろうと、開いてみたら、鎌田正家の父親である千里ノ介政安がこの三年ばかり脚気になり、この足の病に悩んで、今日皆んなと出かけられなかったことを大変残念がり、一枚の手紙を持たせたのだった。その手紙の終わりに

いざともにゆかましものを野路山路
おもひやらるる春のたのしさ

という歌を一首を書いて寄こした。この返し歌に

  言の葉はともにいざなうおもひして 
           見るにたのしき春の山ふみ

と詠み、それを持ってきた手紙の裏に書きつけて返した。


7 久保田の遠望
 幣(ぬさ)を束ねて刺した古い塚が二つ三つ並んでいる。この辺りは、霊亀、天平(715~749年)の頃の道で、今も形ばかり歩いた跡が残っている。それゆえこのような古い塚があることは、古のありがたい神がおられたからであろうか。
しばらく休んでいたら、南東の方にお城が大変高くはっきりと見渡せた。ここを治める君主が居られて、その威光、御徳を人びとは敬い尊び、お祝い申し上げた。久保田の田面(たのも)、野末のあたりに、白い綾ぎぬ一反ばかりも引き伸ばしたように残っている雪の中から、多くの煙と霞が一緒にたなびいて見えるのは、栄えて行く御代の様子が伺われる。
遠く高い峰に雪がきらきらと照るのは由利と河辺の境、女米来(めめき)の山(高尾山)、峰や尾根から連なる雪の山々は数えきれない。海岸近く霞たなびくのは百三段(あらや)の浦、また由利郡の浦々。八橋の里はすぐ近い。勝平山の麓を流れる雄物川、むかし、柴の渡りといった流れもこの渡りに入るのであろう。その辺りは霞が深くて区別がつかない。行き交う小舟が霞のかかった水の流れの中に見え隠れする眺めはなんともいえない風景である。いくらながめてもつきない眺めであるが、時がきたので出発した。


8 苗 秀(たねひで)
 左の方に松林があり、田の中まで突き出ている崖を、苗秀、また種浸(たねひで)という。いかにも苗代の種をぬらすところか。昔、大変な干ばつがあって稲田が皆枯れてしまったが、この山田だけ数多くの稲穂がなびき、実りよく稲刈をした話をした。

やがてまた早苗や採らむたなひぢに
水泡(みなは)かきたれ山田作る子


9 雷電の離れ山
 右に、離れ山といって一固まりの松が田の上まで枝を伸ばし、上にかぶさって、浮いた島のようで、小さな山ながらその姿が格別目に止まった。その場所であろう、昔、獅子の雷電という人が住んでいた。相撲取りであったのだろうか。


10 児桜の岡
こちらに近い、谷を隔てて見えるのを、児桜の岡といって木々がたくさん生えている。昔、古四王神社の大祭があった時、四月八日に稚児舞(ちごのまい)をして遊んだ所といい。また児桜という愛らしき花(ミズメザクラ)があったからともいわれている。今もこの桜の花は咲くのだろうか、いつ咲くのかなあと、ここに立ち止まっていたら、思いがけず雨が降って来た。

   春雨のふるは草木のかぞいろは
         こやちこさくらめぐみたつらし


11 生根が沢(おいねがさわ)(空素沼からすぬま
左の方に、生根が沢という広い池がある。ここは近ごろ、雨がないのに岸が崩れ、水をたたえるようになった。十年前に亡くなった、六十歳の老女の物語に、「私が十三歳の頃、その田へ昼飯を持って行った事を覚えている。一枚余りの田がたちまち大池となったというので、大勢で見に行った。田は、私の父が作った田だからよく知っている。木の根っ子のようなものが、水底にあるために生根といい。米粒がこぼれ落ち、稲が生えたこともあるので、生稲が沢という」と言った。
この生稲ノ池の水が満ち満ちていた時の深さは推し量ることが出来ないようになった。今は湖のようで、魚も数多く、鴨(かも)は餌をさがし、鳰(かいつぶり)も浮巣を作っており、水が広々と見えた。


12 烏が池
ここから少し離れて、将軍浜という所がある。そこも今は広野となってしまっている。その野原の中に、今ある道のそばに烏が池という深い池があったが、この池の水がいつの間にか枯れはててしまった。


13 蟹 沢(かにさわ)
なお行って蟹沢という所を見下ろす。田の畦ごとに、まだ雪が消えないで残っており、風が大変に寒い。

沢の名のかにばさくらの咲く色を
        見せて木の間に残るしら雪

この道は、大昔のままの道で、今の高野(こうや)という村の付近を通って、泉川の渡りまで行けたといわれる。


14 槻館(つきだて)と坂上田村麻呂
槻館という所に行きつく。ここに小高いところがある。きっとここであろう、大同(806~810年)の昔、坂上田村麻呂が柵を作り、官軍を集結させた旧跡というのは。今は畑の字となっている。
これを考えると、秋田営(あきたたむろ)といったのはこの地であろう。
『日本三代実録』三十四巻元慶二年(878)十月十二日条に、
是日。陸奥権介従五位下坂上大宿弥好蔭、率兵二千人。自流霞路。至秋田営。
…又鎮守将軍従五位下小野朝臣春風。九月二十五日。率軍四百七十人。来秋田営以
北。即言曰。春風重含詔。先入()津野(づの)
同書三十五巻、元慶三年正月十一日条に
出羽国飛駅奏言。又渡島夷首百三人。率種類三千人。詣秋田城。与津軽俘囚。不連賊者百余人。同共帰慕聖化。
同書三十五巻、元慶三年三月二日条に
去年九月十五日。好蔭来自流霞路。二十五日。春風来自上津野。是時道路泥深。風寒粛烈。経過嶮岨。士卒疲労。
と記されている。

これを考えるに流霞路は「かすみながれみち」と読むべきであろう。陸奥の南部津軽の人は、某長峯(なにながね)、某長嶺(くれながね)というにはもっぱら「なにながれ」、「くれながれ」という。その昔、いってみれば霞長峯(かすみながね)であるのを、ながれと聞き間違ったのである。それを漢文の書き方にしたものであろうか。その霞長根というのは、まだ考えつかないが、みちのくの山道であろうか。また秋田郡北比内の岩瀬村、早口村の山奥に霞山あり、また霞橋というのもある。それは大変に高い峯であるが、昔は往来のあったところだという。霞の橋とは、霞長峯に掛かった桟道などであろう。
上津野(かづの)は、陸奥の国で今は鹿角の郷である。上津野が加都能(かづの)となったのであろう。あの岩瀬村、早口村から四、五里の山奥という。この寺内山の槻館からは三日、四日の行程であろう。また、昔は真っ直ぐな道がなくて、ずいぶん遠回りしたであろう。また、道がぬかり風が寒くて思ったようには進めなかったではないだろうか。とにもかくにも、流霞路(ながれかすみみち)は霞長峯(かすみながね)であったろう。なお本当の場所は人に聞いてみたいものだ。


15 槻 館(つきだて)と石鏃(いわやのね)
秋田城は今の古四王神社が鎮座する所であろう。その辺りもみな天長七年(830)の地震で破壊されて、昔のような有様ではない。槻館は田村麻呂将軍の陣営の跡を、つまり秋田の営(たむろ)といったのだと思われる。この辺りの人は城であれ柵であれ館であれ、昔からわけありのように人が住んだ跡もあるので、館とだけいうのである。
この辺の畑にはみんな石弩(やのねいし)(石弓)がたいそう多く、霹靂石(ほしくぞいし)(黒曜石の矢じり)という不思議な石が出るといって、人みなこれを拾った。
仁明天皇の治世、承和の年中(834~848年)、また光孝天皇(884~887年)の御世、秋田の地に石鏃(いわやのね)(矢じり)が降ったことが『続日本後紀』と『日本三代実録』にも出ている。そのような理由で、出羽国には石鏑(いわやのね)(やじり)が多いわけを言うのである。どこの国にも多い石弩(いし)(矢じり)ではあるが、出羽はこの石の名によってついた国なのだろうか。


16 濡 池(あまいけ)
濡池という小さな池がある。この池は、昔は水面が広く池も深かったという。いわれのある所だという。


17 御休山(おやすみやま)
御休山という丘があり、国守がここで休まれて眺められたことからいった。この丘に登れば太平獄(おろちがたけ)[(太平山:山形の蛟龍に似ているのでおろちねという]、迩別兎山(にべつやま)(仁別村あり。仁別と書くけれども、それはもと木別という蝦夷言葉で、意味は良い木の生える川ということである)が、大変近くには万固山(ばんこやま)(天徳寺山)が見られ、峰々に雪がしらじらと降り続く。


18 白坂山、寺内の謂われ
白坂山は、雪の名が冠せられる通り、眺めもたいそうに寒々しい。この山に白阪右近太夫某の柵の跡があった。その麓には、小菅野の渡の跡、なおその近くに朝日山東園寺という天台宗の寺があったという。根笹山の東の麓、油田の近くにも、夕日山西園寺という天台宗の寺があったという。朝日長者、夕日長者といって、お金持ちがおり、その両長者の菩提寺であったとのことである。なお寺の数が多い、その寺々の中なる里であるから寺内というのである。


19 笹岡、神田、八柳
 笹岡、四ツ屋、飯岡などの家々、また、泉、水口(みなくち)、神田(かんだ)などの民家が大変に多い。これは、

ちはやふる神田の里の稲なれば
月日とともに久しかるべし

と詠んだのは権(ごん)中納言大江匡房(まさふさ)卿の歌である。これは丹波の国にある同じ地名である、などと口ずさみながら歩き、また立ち止まりながら、鎌田正家(まさやか)が詠んだ歌
     
秋は又はつ穂手向むちはやふる
           かみ田の里にもゆる苗代

まもなく種を蒔く時だなあ、といえば人々「はは」と笑った。

 野村、西村、蕨岡などという小さな村などが並んで笹やぶ越しに見える。それらはすべて八柳の村というのだそうだ。
      
雪消なば軒端に折らむかげろふの
           もゆるわらびの岡のべのやど

「こちこち」と方言でいう柳は、いち早く木の芽が出て春めくといって、手折る人がいた。「こちこち」の枝とはケヤキのことをも言うとか。子供は、「おちこち」などと幼な言葉でも言っている。
   
梓弓やもとの柳春風に 
なびきて霞む遠近のさと

八柳長門守某、湊九郎道季(みちすえ)に味方して、この辺りの馬を戦に出して、檜山郡(今の山本郡)霧山城(檜山城)を襲った天正(1573~92年)の世の戦いの物語がある。

 生稲が沢(おいねがさわ)の池(空素沼)のそばに、再び出た。ある人の言うには、百年も前の基本台帳といって、検地帳に書かれてあるものによれば、この池は昔、寺内の人で平兵衛と彦右衛門の二人が耕した田だといっている。この事は前にも書いたが、詳しくまたいうわけである。


20 亀背坂(きはいざか)
なお分け入り、上って行くと小さい坂があり、名前を亀背坂(きはいざか)だという。それは亀の形に似ている山だからで、亀背坂と訓読でいうのは無理なこじつけであろうか。
けはい坂は化粧坂(けはいざか)を訛っていうのであろう、化粧坂はどこにでもかしこにも多い坂の名前である。昔、この坂を越えて八柳の城下(さと)通った道だという。それは、廓(さと)の入り口に衣紋坂(えもんざか)があるのと同じことである。


21 鶴が池(面影の池)
 小さな水溜りがあって、鶴が池という。昔は池も深かったと伝えられている。ここからは、東北の三里ほどに、新城岩見守の古い城跡が遠からず見える。それは同じ秋田郡岩城村下新城にあって、その城山の麓にも鶴が池、小鶴の池と並んである。
また、陸奥の名所にも、

千歳ふる子鶴の池しかはらねば
親の齢をおもひこそやれ

と詠んだ昔の歌人源重のの歌でも知られる。あちこちにある池の名前である。
この寺内の鶴が池の古い名は、面影の池とも、俤(おもかげ)の水ともいって、池の神に供物をあげて祈れば、恋しい人の俤が水に映って、自分と一緒に立っているように見える。また、長寿の人は水の俤の色がたいそう濃く映り、自分の影が薄く写る人は、男は太刀、弓矢、女は櫛、鏡など、この池に投げ込んで水神に奉納すれば、薄かった影も墨で書いたように、黒々となり、水の底に見えると言い伝えている。
これはそもそも、化粧坂と並べて、世間でいう鏡の池とも姿見の池ともいっていたものでないだろうか。また、鶴が池というのは、秋田藩主義処(よしみず)公と聞いているが、この付近を巡検した時に、面影の池に鶴が群れて七日間も餌を食べていた。その頃から呼び名がついたのであろう、その時の世を思い浮かべ、また今の世を想う。

齢をば君にゆつるの池ひろみ 
          ふかきこころはなれもしるらし


22 幣切山(ぬさきりやま)
 幣切山という所に来る。その昔、坂上田村麻呂将軍が多くの官軍を率いて、ここに来た。神幣を作ってこの岡に立て、鎧を身につけ、鉾を伏せ、礼拝して
奥山の賢木の枝にしらがつけ、木綿(ゆう)(御幣のこと)とりかけて、斎戸(いわひば)を忌(いわ)ひ穿居(おりすえ)、竹玉を繁(しし)にぬきたれ、ししじもの膝をりふせて、天地の神に祈りて
その願いのまま、矢を放ってきた蝦夷達をすべて退治できたということである。坂上田村麻呂将軍の物語である。その当時は桜も多かった所といわれている。

春霞色別れ行く山路には
花こそぬさと散りまがひけれ

と、古い歌を吟じて昔を偲べば、まだ消えていない雪に袖がたいそう寒く、しばらく立ち止まって、

    むかし君手向しぬさのおもかげも
 まだふりのこる岡のしら雪

鎌田正家は懐紙を開いて、これを幣に切り、笹を折って串とし、この岡に立て、さらに昔を思いやり詠んだ

    おのづからあだの雲霧はらひけむ
          君がみぬさの風のまにまに


23 石 神(いしがみ)
この幣切山の南の田畑を、石神という名で呼んでいる。その石(かみ)も社(やしろ)もないけれども、昔からいい伝える神の名前である。石神という神の名は、ところどころで聞くことがある。
京都の上京区上立売のあたりにも石像を据え祀っている。また、「陸奥国黒川郡石神山精社並びに官社となす」と『続日本紀』にも見える。また、遠江国新居村に近い中之郷という村に、飛神(とびかみ)、飛石(とびいし)の神といって、この辺りの貴勾玉(たかまがたま)をうやうやしく祀っている神社(二宮神社)がある。
神主の渡部越後某のいうには、この玉石は年によって増える年もあり、また少ない年もあって、この神が飛びあるくのである。それだから飛神と申し上げるといっている。平安時代の『金葉和歌集』には寄石恋として
逢事はとぶ石神のつれなさに
我心さへうごきぬるかな

という前斎院(さきのさいいん)六条の歌がある。昔は石を尊んで祀ることが多かったのであろう。


24 将軍浜(しょうぐんはま)
 大きな原に出た。昔は大河の流れた跡であろうか、また荒波の満ち寄せた所であろうか、ここの名を将軍浜という。坂上田村麻呂将軍がここに駐屯した跡ともいわれている。今は原野になってしまったので将軍野ともいっている。
また彼方の方に義定が嶋という所がある。この嶋とこちらの浜の間を中谷地という。この中谷地の古い名は、船が沢とも御船が沢ともいう。これは『類聚国史』巻大百九十、桓武天皇延暦十九年(800)十一月六日条に、
遣征夷大将軍近衛権中将陸奥按察使従四位上兼陸奥守護守鎮守将軍坂上大宿祢田村麻呂、検校諸国の夷俘

と見える。その時代のことであろう。将軍の官軍船(みいくさぶね)がここに停泊したといい伝えられている。
 また土崎湊の蒼竜寺の由来には、聖徳太子が御船に乗ってここにおいでになられた。その船には他人が乗ることが畏れ多いといって、その時代の人達は御船を土の中に埋めて、船が沢、御船が沢ともいったという。どちらがどちらなのだろうか。


25 義定が嶋
 義定が嶋に来る。将軍が合議で決める場所であろうか。中国の勇者、わが家の土地の桃の花盛りの頃に、三人の英雄たち(三国志の劉備、関羽、張飛)心を合わせて、白馬と黒牛を生贄のために引き出して、神に誓って、あの黄巾(こうきん)の乱(184年)の賊徒を討つべく相談したことと、少し似ていることで、中国の物語に例える人がある。
土崎湊の蒼龍権現の社誌には、坂上田村麻呂将軍、軍議評定をする場所だと記してある。そのことから、これを考えてみると、官舎のあった場所ではないだろうか。
南北朝時代の歌人二条藤原良基の書いた『雲井の御法(みのり)』という文には、
議定所八間を取払ひて、庇の御簾を巻いて、幡、華鬘を懸けまはしたり。北の方の御簾の中に御座を設けらる。母屋の簾にそふて畳を敷て公卿の座とす。南の方に同じき畳を敷きて僧たちの座とす。東の簀子に堂上の楽人の座を敷き、その前の庭に庇をさして地下の伶人の座とす。梅の匂いも御簾の中の薫りも、ひとつに吹送りたる追風も、身に沁みるここちぞし侍りし
とある。これは、天子の宮殿にある名前だからで、それを模してこの島に移し建てられた場所であろう。

 鳥屋場、朝鮮闢、大袋、杉田坡、二ツ森、一本柳、大崩、ミソハギ谷地、日蓮塚、鉄屑山などという場所は、全て議定が嶋の跡であるといい伝えている。
鳥屋場は八柳家で、鳥や鷹を飼っていたところで、目立っていたのだろう。また朝鮮闢は、長仙という人が開墾した田畑という。この二つの場所は八柳の村境にある。
大袋は、物に蔭れて余り見えないところから、少し多く外の方に突き出た所。また、山間がくぼまり、入り込んでいるところを、魚介を捕る魚袋ということになぞらえてつけた田畑の名である。なに袋、くれ袋といって非常に多い名前である。
杉田堤というのは、久保田の杉田新左衛門という人が開墾した土地の名である。その新田も水路も埋まってしまった。二ツ森というのは、もとは、ふたつ山といって箱根路に見える二ツ森にも負けない山であったが、地震で崩れてしまい、いずこもいずこも昔の姿ではなくなってしまった。この二ツ森も今はわずかばかり残っているだけだ。一本柳はいわれのある柳というが、枯れ果てて名前だけが残っている。二ツ森、一本柳は飯田村境に並んでいる地名である。
大崩は、古い昔の洪水で山が崩れた所である。下飯島村境にある。ミソハギ谷地は最近まで水かけ草の大変多い沢で、その花が盛りの時は濃い紫の絹を一杯に敷き詰めた様子であった。朝日夕日に映えて見る目もまぶしい所であったと語り伝えられている。それは、下飯島、花立、相染、この三つの村境にあった名前である。
日蓮塚は、日持上人(六老僧の一人『仏祖統紀』)の書いた表題、日蓮上人を祀った石碑を御塚と称して、土崎湊の山荘(やまやしき)という所にある。鉄屑山は、大同(806~810年)の初め古四王神社の大きい鐘を、殖野の野口の鐘つき堂につるした鐘は、この山で鋳造したといわれる。その時代の金屑が多かったので、かなくぞ山の名を引き受け、また、愛宕権現を祀ったので、今は阿多呉山(あたごやま)の名をいただき、麓を愛宕町といって同じ土崎湊にある。


26 幕洗川・太刀洗川
 この湊の国分町(今は穀保町)の北端の町中に板橋がある。それを幕洗川といって、水上は町の後ろの東の岡から出て、総吉と清九郎という家の間から、街道の中を、五郎八と清八という家々の間を西に流れて、御食川(雄物川)に注ぐ小さな水路である。その当時は広かった川であったろう。この辺りの軍勢、山に集まり野宿して、長雨の間に汚れた幔幕などを、この水の流れですすぎ落とし、山の松に掛けて干したことから、幕洗川の名前がつけられたという。
太刀洗川というのがある。官軍は当然の勝利を勝平山の麓で手にして、血をしたたらせ血にまみれた剣太刀などを、この水で振りすすいだ物語がある。
 この小川、同じ穀保町の町中を東から西の方に流れて、奉書倉という番所の前を流れて雄物川に流れる小川である。また、この土崎湊の新城町という場所から、東に清水小路といって、紙を漉く家には大変よい清水が湧く所がある。昔、官軍が来て、血に染まり汚れた鎧を清め、洗いすすぎ、身体も洗い、心まで清らかになったとて、今の世でも身を清める川であるといわれている。土崎湊にはこのような水が他にもある。


27 矢守坂
 同じ町中を引き返して、矢守坂に来る。慶長七(1602)年のことである。矢守和右衛門矩一(のりくに)という人、常陸の国から(佐竹候が)国替えの時、共をして来て、この坂の上に住んだので、ここを矢守坂というのである。矢守矩一は、兵術に名高い人である。万治二年(1659)の春この道を開削したので、土崎湊から久保田に真っ直ぐに往復が出来るようになったのは、矢守矩一の功績である。坂の上、東北の岡に、矢守稲荷といって神社がある。矢守矩一が常陸の国から遷しまつったものである。それは、自分の先祖から慎み受け継いだ神社である。詳しいことは《遊母能浦風()(真澄の未発見の日記)に書いてある。

野や山をあちこち尋ね歩いたが、長い春の日も暮れて、見ようと思う辺りも余り良く見えなくなり、朔日ごろの月もおぼろげで影うすく、道はたしかでなく、仲間と語り合いながら、近いうちにまた巡りましょうと約束して、寺内に着いた。

                                (前半終了)

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