2014年7月16日水曜日

■逆説・田村麻呂とアテルイ・・・秋田城

日高見防衛戦争から
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 田村麻呂は武力では制圧できずに謀略を仕掛ける

 「北鑑 第十二巻 十九」の阿弖流為の記事も、田村麻呂による謀略について描いている。「江刺の翁(おきな)、物部但馬(たじま)という人物から聞き書きしたものである」という寛政六年九月十三日の秋田孝季の署名がある。
 「丑寅日本国の五王に通称アトロイという王がいる。大公墓阿弖流為または阿黒王、悪路王と倭史は記している。
 大和朝廷の朝議は、相謀(あいはか)って坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。すでに官軍は討伐行を羽州から鬼首(おにこうべ)峠を越え、日高見川において千三百三十六人の兵を殉死させ、阿弖流為軍は八十九人の殉死あるのみで、官軍は全ての兵糧を奪われた。よって田村麻呂は軍謀について和睦を先としていた。田村麻呂曰く。
 日本将軍五王に朝議の趣旨を申す。互いに戦いの原因を作ることなく、和をもって東西の睦みを護ろうではないか。よって率いてきた者が宿泊する柵の造営を許可願いたい、と多賀城、玉造柵、伊治城、雄勝(おがち)柵、胆沢(いさわ)柵、徳丹(とくたん)柵、払田柵、秋田城跡に市場を築くことを請うた
 ときに阿弖流為はひとり合点(がてん)がいかず、日本将軍の安倍安堯(やすあき)に申したところ、市場ならばとして、濠がなく、柵がないように築くという条件を約束して許可を得た。しかるに阿弖流為が一見要塞としか見えない市場造りに不審をいだいて、これぞ倭朝の議に偽りがないかと田村麻呂に何度か問うたが、田村麻呂は曰く、我も倭の大王に言わしめれば蝦夷なり、何事あって丑寅日本を憎むだろうか、とその都度答えた」
これを裏付けるように田村麻呂によるしたたかな慰撫作戦、謀略作戦が実行されたのである。田村麻呂は仏法に公布を装って、武装移民を多賀城や胆沢柵に進駐させ、和睦と称して、阿弖流為を拉致し、胆沢から京都へ引き連れる策略を考えていたのである。
 『總輯 東日流六郡誌 全』[田村麻呂奥州経略]においても、田村麻呂が蝦夷征略の一切を任せられ、武器を持たない民団を派遣し、日之本将軍安倍安東から日高見国での駐在を許され、各地に神社仏閣、城柵を建設した。これに阿弖流為、母礼が「戦いなき心の侵略」「日高見はみな倭のようになってしまう」と疑念をもち、それを安倍将軍に告訴したが、聞き入れられなかったとしている。
 延暦年間には安倍安国、安東、国治(東)、安堯らの日之本将軍の名が『日之本文書』に出てくるが、安倍一族の年譜と照らし合わせると時代的なズレが見られ、その存在自体が希薄に感じられる。田村麻呂と直接対峙していないためか、日之本将軍による彼に対する警戒心が乏しかったように感じられる。大和朝廷による攻勢によって、荒覇吐国家と日之本将軍の統率力が弱まったようにも感じられる。日之本将軍の田村麻呂に対する警戒心が足りなかったことが、大きな悲劇を生み出すことになったのである。

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