2014年7月6日日曜日

■逆説・高志王国の成立

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

高志王国の位置


 高志王国の成立

三内・亀が岡文明の南下

高志王国とは何か。どのようにして形成されたのか。どのようにして展開されたのか。
 『日之本文書』には「越(こし)の国」とか「加賀」と出ているが、越というのは、もともとは高志ないしは古志と表記され、越前、越中、越後に分かれ、一般的には越前が福井、越中が富山、越後が新潟と考えられている。越という呼び方は、比較的新しいので、本書では高志という呼び方をする。
白山王国と高志王国は、明白に亀ケ岡文化の影響を受けているが、亀ケ岡人が高志王国、白山王国に移住してきたからである。これらは考古学的な見地からも、さまざまな納得のいく共通点を指摘できる。高志王国の中心地は、糸魚川下流の長者ケ原遺跡であり、ヒスイの集積、加工基地が寺地遺跡であろう。大型住居跡のある不動堂遺跡も高志王国の勢力圏にあっただろう。
 亀ケ岡文化圏は、東日流(つがる)の荒覇吐王国の支配圏と重なるが、亀ケ岡文化圏は、荒覇吐一族が拡大したものである。白山王国、高志王国から多数の亀ケ岡土器が出土している。その勢力圏は近畿にも広がり、九州にも影響を与えた。
 『日之本文書』には、八甲田の火山噴火により、三内丸山人が大挙して、石神地区や十腰内地区に移動し、最終的に亀ケ岡に定着したことが記されている。亀ケ岡人はもともと三内丸山人であったのである。三内丸山人の巨木建築技術は、亀ケ岡人を通じて、高志王国、白山王国に持ち込まれたものである。
 『日之本文書』には、紀元前千年頃から紀元前数百年頃の間には、白山王国、荒覇吐(あらはばき)王国、高志(越 こし)王国、出雲王国、信濃王国が次々と形成され、それらが、奴奈川(ぬながわ)氏、三輪氏(阿毎氏)、出雲氏、荒覇吐氏の血縁で結ばれていたことが、はっきりと記されている。彼らは耶馬台国国家連合、耶馬台五王国を形成していたのである。 
耶馬台国五王国への流れは、次のように示すことができる。これまで、考古学的に東北の縄文文化と北陸の縄文文化は、互いに影響しあってきたことは、指摘されてきたが、『日之本文書』の記述を見ると、三内丸山文化から十腰内文化、石神文化を経由して亀ケ岡文化への人と文化の流れがあり、亀ケ岡文化の拡大に大きな役割を果たした荒覇吐王国から高志王国、白山王国、出雲王国、信濃王国へは、人的な移動と血縁による結びつきがあったことが理解されるであろう。

  三内丸山文化(津保化族)
                          
     十腰内文化 石神文化
                          
     亀ケ岡文化(荒覇吐王国と重なる部分が多い)  
                     
         高志王国(奴奈川姫)→黒姫
                        ↓
  白山王国(白山姫)  出雲王国(大国主 奴奈川姫)
           
  信濃王国(建御名方命)

 荒覇吐王国と高志王国

 荒覇吐王国とは、東日流(つがる)に亡命した耶馬台族と、大陸から渡来した晋一族と、土着の阿蘇辺、津保化一族が、融合して形成された荒覇吐族、彼らが紀元前七世紀に石塔山で建国した王国のことである。
 東日流とは、晋の君公子一族が、この国を賛美して、東の方に日が流れる国のゆえに、東日流と称された。これが東日流のはじまりだとされる。津軽藩が東日流を占領するようになって、津軽と表記されるようになった。
 白山王国が紀元前千年前後に創建されたとすれば、縄文晩期と時期的にほぼ一致し、亀ケ岡文化ともほぼ一致することになる。白山王国が亀ケ岡文化と併存していたことになる。さらに東日流に荒覇吐王国が建国されたのが、紀元前六六一年頃なので、白山王国と荒覇吐王国も長い間、併存していたことになる。そして、白山王国は高志王国とともに、亀ケ岡文化、荒覇吐王国から強い影響を受けたことは、後述の『日之本文書』でも明白であるし、考古学上からも証明することができる。
 『白山 自然と文化』(白山総合学術書編集委員会編)の「白山のはじまり」という論文では「晩期では東北地方の亀ケ岡土器が、近畿まで強い影響を与えた時期で、北陸では直接的ではないまでも、東北日本系の特徴を持ち、土着色の濃厚な御経塚式土器(野々市町御経塚遺跡)が成立する」と、亀ケ岡土器と白山王国の土器とのつながりが指摘されている。  
高志王国、白山王国、信濃王国、出雲王国に多大な影響を与えてきた荒覇吐五王国の構図は、以下のように示すことができる。
 
 『日之本文書』が描く荒覇吐王国と高志王国、白山王国

 『日之本文書』には、東日流と高志王国と白山王国とのつながりを示す地図や記述がたびたび出てくる。特に『東日流外三郡誌 第一巻』には、頻繁に出てくる。
 『東日流外三郡誌 第一巻』[荒吐族南押領録]には、荒覇吐五王がポロチャシを配置した地域として、西海の魚津(富山)、糸魚川、岩船(以上、新潟)を記している。同書は[日高見国城柵]として磐舟柵(岩船 新潟)、渟足柵(ぬたり 新潟)を挙げている。同書[東日流内三郡誌大抄 上の巻]では、北方からやってきた民族として「越国なる那賀美化族」を挙げている。同書[秋田家訓義]に描かれた東日本の地図には、越後として磐舟柵と渟足柵が描かれている。同書[日高見国実史雑抄]の神州国之図には、日高見国と日本(やまと)の間に古志と描かれている。同書[耶馬台日下(ひのもと)王安倍氏]では、耶馬台五王に属する八氏として、越氏を挙げている。同書[王政処移宮之抄史]では、西分倉として岩船(新潟の村上市の岩船だろう)、黒崎(新潟市の黒崎町だろう)、怒足(ぬたり)、加茂(新潟の加茂市だろう)を挙げている。    
 『總輯 東日流六郡誌 全』にも、東日流と越国の結び付きが記されている。高志王国も耶馬台国を構成していたのである。以上が高志王国に関する記述である。
 『東日流外三郡誌 第一巻』[耶馬台王国之治国]では、耶馬台国の分倉(わけぐら)を敦賀の野坂山に、県主(あがたぬし)を越前の白鳥に置いたとしている。野坂山は野坂山脈の主峰で野坂岳、敦賀富士ともいう。標高九一四メートルで、頂上が三峰になっている。越前もまた、耶馬台国の圏内に入ったのである。以上が敦賀に関する記述である。
 このように、阿毎族の耶馬台国、荒覇吐族の荒覇吐王国、安倍一族の日高見国を通じて、越国(越後、越中、越前)は、彼らの勢力圏であり続けたといっても過言ではないだろう。したがって、石川県のチカモリ遺跡、御経塚遺跡のみならず、能登の真脇遺跡も含めて、日之本国を構成していたと考えてよいだろう。これで真脇遺跡が、濃厚に東日流の縄文文化と類似していたかが理解できるであろう。倭国の公認史は、これらの事実を隠し続けてきたのである。

 『日之本文書』が描く荒覇吐王国と高志王国、白山王国

 『日之本文書』には、東日流と高志王国と白山王国とのつながりを示す地図や記述がたびたび出てくる。特に『東日流外三郡誌 第一巻』には、頻繁に出てくる。
 『東日流外三郡誌 第一巻』[荒吐族南押領録]には、荒覇吐五王がポロチャシを配置した地域として、西海の魚津(富山)、糸魚川、岩船(以上、新潟)を記している。同書は[日高見国城柵]として磐舟柵(岩船 新潟)、渟足柵(ぬたり 新潟)を挙げている。同書[東日流内三郡誌大抄 上の巻]では、北方からやってきた民族として「越国なる那賀美化族」を挙げている。同書[秋田家訓義]に描かれた東日本の地図には、越後として磐舟柵と渟足柵が描かれている。同書[日高見国実史雑抄]の神州国之図には、日高見国と日本(やまと)の間に古志と描かれている。同書[耶馬台日下(ひのもと)王安倍氏]では、耶馬台五王に属する八氏として、越氏を挙げている。同書[王政処移宮之抄史]では、西分倉として岩船(新潟の村上市の岩船だろう)、黒崎(新潟市の黒崎町だろう)、怒足(ぬたり)、加茂(新潟の加茂市だろう)を挙げている。    
 『總輯 東日流六郡誌 全』にも、東日流と越国の結び付きが記されている。高志王国も耶馬台国を構成していたのである。以上が高志王国に関する記述である。
 『東日流外三郡誌 第一巻』[耶馬台王国之治国]では、耶馬台国の分倉(わけぐら)を敦賀の野坂山に、県主(あがたぬし)を越前の白鳥に置いたとしている。野坂山は野坂山脈の主峰で野坂岳、敦賀富士ともいう。標高九一四メートルで、頂上が三峰になっている。越前もまた、耶馬台国の圏内に入ったのである。以上が敦賀に関する記述である。
 このように、阿毎族の耶馬台国、荒覇吐族の荒覇吐王国、安倍一族の日高見国を通じて、越国(越後、越中、越前)は、彼らの勢力圏であり続けたといっても過言ではないだろう。したがって、石川県のチカモリ遺跡、御経塚遺跡のみならず、能登の真脇遺跡も含めて、日之本国を構成していたと考えてよいだろう。これで真脇遺跡が、濃厚に東日流の縄文文化と類似していたかが理解できるであろう。倭国の公認史は、これらの事実を隠し続けてきたのである。

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