2014年7月4日金曜日

❏逆説・阿倍比羅夫東征の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

斉明征夷と秋田エミシ

 斉明征夷軍の将軍安倍比羅夫は安倍一族の出身であった

『東日流外三郡誌 第二巻』に真実を聞いてみよう。「元禄十年正月二日 藤井伊予」の署名のある[安東一族抄]はいう。この短文に倭国史が語らない興味深い史実が少なからず含まれている。
 「孝元帝の流胤(りゅういん 子孫)である安倍比羅夫は、朝廷から奥州東日流の蝦夷討伐の勅を奉じてきたものの、もとより比羅夫は荒覇吐一族に系ずるものなので、戦いをもってなさず、和をもって親交しようとしたことは歴史にいささか残っている。
 荒覇吐族の五王もまた、比羅夫に習って姓を安倍と号して、ここに安倍安国を姓の創めとした。                        
 すなわち、東日流から政処を閉伊に移してから、荒覇吐族の政治的な統一が成り難く、東日流の馬武(うまたけ)、宇曽利の青蒜(あおひる)、飽田の柿美、都母の宇佐、爾薩体(にさたい)の阿羅、閉伊の安邦らの荒覇吐五王の掟を破るものが出て、奥州一統の権は安倍安国が陣頭に、奥州一統の治司を布告して、従わない者は討伐した。
 安倍安国がまず兵を備えることを第一義として、軍馬となるべき種馬を靺鞨(まっかつ)から入手せしめて、祖来の騎馬軍を指揮せしめ、日下(ひのもと)将軍として奥州に大君臨した」
 この文章で、安倍比羅夫が荒覇吐系の一族であること、なぜ、荒覇吐族が安倍の姓を名乗ることになったのか、荒覇吐一族にも内部対立があったこと、荒覇吐族が軍馬を靺鞨から入手していたことなどが認識できる。靺鞨というのは、中国北東部に住むツングース系の騎馬民族で、粛慎と人種的にも、文化的にも、居住地域も重なる部分がある。
 『日本書紀』では征夷軍が、蝦夷に禄物と冠位と領土を与え、饗応して、戦闘を交えずに、荒覇吐軍を屈服させたことになっている。そして、朝廷の政庁を作って、役人を任命し、帰国している。つまり、征夷軍の遠征は成功裏に終わったことになっている。しかし、……。

 斉明天皇と安倍比羅夫による懐柔策も失敗
 
 前記の『日本書紀』の記述と『日之本文書』の記述を比較してみよう。まったく正反対のことが書かれてある。『東日流外三郡誌』には、荒覇吐族が手を変え、品を変えのさまざまな懐柔策にもだまされず、いかにして斉明天皇が派遣した安倍比羅夫の征夷軍を撃退したかを事細かく、より具体的に描かれている。『東日流外三郡誌』[東日流国古今抄]から。
 「斉明帝元年、難波の倭王宮に柵養荒覇吐族郡司九人、東日流荒覇吐族長老六人が招かれ、騎馬軍人六百人を従えて談義する。
 しかるに荒覇吐の居住地において、五王の制を異土の習として改め、彼らが倭国王の習に従うべきと言われたが、即答はせずに、比羅夫を赴かせて証明すべしということになり、冠二階を与えて帰した。
 同帝四年に比羅夫は船百八十艘を率いて東日流に赴き、荒覇吐族との体面を求めたが、倭国王に帰属するという答を得られず、空しく有浜に布陣し、いざ荒覇吐族討伐に兵を挙動しようとしたが、荒覇吐族はこれを察し、陸と海から安倍軍団を囲んで、あわや惨事の兆を起こした。
 時に比羅夫は、その討伐の準備を鹿狩とあわてて取り繕いはじめて、兵は弓楯を踊り用に変えて、大円形に後方の原野を踊り詰め、人垣に囲まれた獣、すなわち鹿二十匹、兎六十八匹、狐七匹、狸二十八匹、熊三匹、野生馬十七匹、山鳥三十一羽の狩をなして、荒覇吐族の蜂起をかわした。よってそのまま大饗を催して、獲物を供しながら、唄い踊ったという。
 このようにして危うく難を逃れたが、荒覇吐族を倭国へ従属させるという目的を果たすことができず、比羅夫は軍船に荒覇吐族と取引した北の海産物をもって、彼らの貢と称して退却し、朝廷の宮人に対して、取り繕った。
 比羅夫の一行は、このような失敗、失政をさらに取り繕ろうために、その翌年、軍船二百艘をもって荒覇吐族を再び討とうして、強くて勇気のありそうな者をそろえて来襲したが、東日流に討伐を避けて、粛慎へ遠征して帰ったという」
 比羅夫が作ったとされる政所については『東日流外三郡誌 第一巻』[安倍一族暦録]は「荒覇吐一族の長に安倍の姓を授け、ここに和交が成立して、東日流有間浦の恵留間崎に司津を置いて、阿部津刈丸にその任を与えたが、これは名前だけで、一族の暮らしに変わったことはなにもない」とこきおろしている。彼らの懐柔策は失敗に帰しているのである。

 安倍比羅夫の征夷を跳ね返した族長たちは荒覇吐王になっている

 面白いことに『日之本文書』には、『日本書紀』などにも出てくる荒覇吐一族の側の人物名も特定できるもの幾つかあるのである。『東日流外三郡誌 補巻』の[安倍大系譜控]という文書には、以下の王の代、王名、国名、君臨地、生地まで記載されている。
        代      王名             国名             君臨地               生地
 二百十一祖 青比留(青蒜) 稗抜(稗貫)      飽田         黒盛
 二百十二祖 青荷(恩荷)  宇曽利       皮内(下北川内)   錦渓
 二百十三祖 馬武      東日流       有澗         大里
 二百十九祖 安倍安国    来朝(くるま 宮城)多賀         衣川
 四人の代が集中しているので、同時代に活躍した人物とみてよいだろう。『東日流外三郡誌』にも『日本書紀』にも東日流の馬武、飽田の恩荷と記述されていたが、君臨地、生地もほぼ一致している。既述のように[安東一族抄]に「安倍安国を姓の創めとした」とあるように、安倍安国は第二百十九代の荒覇吐王で[安倍一族之事正伝大系譜]では飽田高清水主の安国日高見丸、[安倍大系譜控]では安倍安国と安倍姓をはじめて名乗っていることがわかり、衣川で君臨している大王である。
 前述のように『東日流外三郡誌 第一巻』[日下抄]では「荒覇吐族の勇者津刈丸の従臣、馬武、青蒜らの戦功が大なり」と描かれているが、おそらく津刈丸は荒覇吐五王の一人、馬武、青蒜は、この時には津刈丸の従臣(青蒜は県主)であったかもしれないが、後には彼らも荒覇吐王になっていたのである。いずれにしろ、安倍比羅夫の征夷に対して、荒覇吐国全体で対抗したと考えられる。
 『日本書紀』は「蝦夷に冠位や物品を与え、饗応したら蝦夷は屈従した」というような書き方をしているが、朝廷側の勝手な創作であるにすぎない。与えたとされる冠位の大乙上は大化五年に制定された位の中で下位のもので、小乙下にいたっては最下位のものである。これで誇り高い荒覇吐族が納得したとは到底思えない。

 海戦での多様な荒覇吐族の戦術で安倍比羅夫軍を撃退

 荒覇吐族の戦術は多様を極め、たとえば『東日流外三郡誌 第一巻』[東日流外三郡誌抜抄篇 第一」では、秋田の「地湧(じわき)の油」、つまり石油を燃やして上陸を阻んだり、ハタ舟という小舟を操って軍船を囲み、火箭を海に放なって軍船を炎上させる模様が生き生きと描かれている。『東日流六郡誌絵巻』では、比羅夫軍と荒覇吐軍の海戦については、次のように述べている。
 「顕慶(唐の高宗時代の年号)戊午(つちのえうま)三(六五八)年(斉明四年)、阿倍比羅夫は、越において軍船百八十艘を造り、奥州沿海を侵領略奪し、東日流の吹浦に上陸しようとしたが、浜辺に黒煙が昇るとすぐに海上に炎が上がり、比羅夫の軍船百艘に燃え移った。海を燃やしたのは地に湧く油であり、荒覇吐族の武器である戦意を失った比羅夫は降(くだ)って飽田(秋田)の県主(あがたぬし)の青蒜に貢(みつぎ)し、帰遁した。
 翌年、比羅夫は再び戦いの準備を整えて、東日流外浜に来襲した。このとき宇曽利の波舵(ハタ)、都母(つも)の波舵が、木葉のごとくかの大船に戦いをいどみ、油火弾弓によって炎弾を撃ち射れば、阿倍の軍船は移り火を消している間に、舵を荒覇吐族に破られて、迷走しながら沈没した。
 比羅夫が再び降るときに、東日流の馬武、宇曽利の青荷、粛慎の役舎因(やくしゃいん)らが、比羅夫を赦免にするか、死罪にするかを談義した。赦免にすると決定したので、残った船二十艘に詰め乗せて放逐した」
 これらの『日之本文書』を読めば、荒覇吐族は、東日流の馬武、宇曽利の青荷、飽田の青蒜が共闘し、さらには大陸の粛慎、渡島のアイヌとも連携していたのである。また、飽田の石油、宇曽利(恐山)の硫黄も武器に使い、宇曽利と都母の荒吐船の波舵(ハタ)を動員している。すなわち荒覇吐一族の抵抗は、荒覇吐国家の総力戦に近いもので、とても倭国の征夷軍が勝利できるようなものではなかった。荒覇吐族は同族に免じて、比羅夫を赦免したのであろう。


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