謎の多い真澄だが、その一つに「黒頭巾」がある!!
・YouTube動画紙芝居はこちら:菅江真澄「水の面影」の謎を解く(上)
http://youtu.be/U4CB3A70s-U?list=UUREMhWUvS8K5Vbn9DVOi1QQ
・静止画 PDF画像はこちら
https://drive.google.com/drive/#folders/0B-lSVQpUarp_Q295U2NrV1FWaVk
1、謎の多い菅江真澄
いつから黒頭巾(常被り)なのか
2、信州では頭巾なし
信州は最初の旅地、不思議なことに「天妙の密偵」といわれるが
最初の一年間(30歳)この辺でいる・・・??
この頃の画像には頭巾はありません。
【引用はじめ】
菅江真澄『すわの海』から「御頭祭」 21.9.18
江戸時代の“ルポライター”「菅江真澄」が書いた「すわの海」があり、その中に「御頭祭」の見聞記があります。最近は、茅野市守矢神長官史料館の『しおり』に収録された「その文」が一人歩きし、それに「グローバルな解釈」が加わって“とんでもないこと”になっています。それを“憂いた”私は、「何とかしなければ」と(大げさとは思いつつも)一念発起しました。
【引用終り】
30歳の真澄が、諏訪湖のグローバルな行事(ユダヤ)を克明に記録したことが、地元では
このように大きな話題となっております。真澄はただの使い走りの密偵ではなかった・・!!
大苦難の上、往復した北海道の密偵の仕事(?)を終えて、いよいよ弘前です・・!!
3、秋田に来る前の津軽藩にて
4、秋田では黒頭巾
菅江真澄研究会の没後160年シンポにでました
この時の寄稿文・百目鬼恭三郎氏には
津軽では被っていなかったが、秋田に戻ってきた時は黒頭巾を被っていた。
時期はこれでいいのでしょう・・・!!
理由は・・・津軽藩の仕打ちによるものなのでしょう・・!!
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百目鬼恭三郎氏の寄稿文を載せます
2 件のコメント:
こんにちは。私は「らんで」と言います。
このブログの菅江真澄の内容を興味深く読ませていただきました。
さて、この「黒頭巾はいつからか」という内容と関連して、興味深い内容を書かせていただきます。
菅江真澄は1811年に久保田藩の那珂道博と出会い、その後藩主から久保田藩の地誌を作って欲しいと依頼されます。ところが、1821年3月頃から地誌作成の最中に、いきなり過去2度巡った盛岡藩の鹿角に出かけています。これはなぜでしょうか?
実はこの頃、相馬大作が花輪付近で弘前藩主を襲おうと計画を練っていたのです。菅江真澄がこの陰謀に荷担、あるいは参考になる情報を伝えて欲しいと依頼を受けた…とすれば全てつじつまが合うではないですか!まあ、完全に妄想が入っていますが。
菅江真澄は弘前藩の隅々まで知っており、藩主の人となりも知っているはずです。少なくとも、そのような人物の情報を相馬大作が利用しようとしたと考えても矛盾はありません。
江戸時代には大館市釈迦内の富豪日景氏は相馬大作の親戚で、相馬大作は襲撃予定の前にこの日景氏に宿泊しています。また、菅江真澄も「すすきのいで湯」で日景氏に宿を取ったことを書いていて、少なくとも日景氏を通して連絡は付けられるはずです。
これは単なる妄想ですが、自分自身なかなか面白い考察だと思っています。
御参考に。それでは。
こんにちは「らんで」さん
貴重な情報ありがとうございます!
「菅江真澄は1811年に久保田藩の那珂道博と出会い、その後藩主から久保田藩の地誌を作って欲しいと依頼されます」・・・これ以降は、津軽のことはアンタッチャブルとする交換条件で、地誌に没頭することが生きる道と思っていましたが!
そうでしたか、鹿角でしたか!!
ありがとうございました
jundo
2015年6月13日
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