2010年9月29日水曜日

01125■イギリスのエイヴベリーニに「クロマンタ」が!









久しぶりですね、投稿は
グーグルアースでストーンヘンジやエイヴベリーを見ていたら、この情報に会いました。
エイヴベリーの小高い山のルベリー・ヒル(高さ39・5メートル)がクロマンタにそっくりだと!!

イギリスの巨石めぐり


イギリス巨石めぐりの旅12(ストーンヘンジとエイヴベリーの遺跡)  「ヨーロッパ旅行(23179)」
[ 不思議な世界 ]    

ストーンヘンジとエイヴベリーのストーンサークルが南北一直線上に並んでいるのは偶然ではありません。ちゃんと経線(南北線)を測量して配置したんですね。

なぜそんなことがわかるのか、ですって?

それは、私がその測量をした本人だからです(笑)。

本当に私が測量した技術者集団の一員だったかはさておき、エジプトから日本まで天空浮船で飛来し、東経137度11分に羽根ラインを築いた天空浮船(気球)族なら、ストーンヘンジとエイヴベリーに南北一直線上に二つのストーンサークルを配置するのはさぞ簡単だったろうな、と考えるわけです。

そもそもエジプトにいた天空浮船族がどこから来た一族なのか、わかっていません。もしかしたら、イギリスの巨石群を構築した後、エジプトに渡ったのかもしれないし、あるいはエジプトから四方に散って、一部がイギリスまでたどり着いたのかもしれません。

私たちの古代人や古代に対する見方は偏見に満ちていますから、まさかそれほどの技術はなかっただろうと思い込み勝ちです。しかし、私が退行催眠で見た前世ビジョンや秋山さんの前世リーディングにより浮かび上がった前世の映像を見ると、かなりの古代において、彼らが空を飛んでいた姿が浮き彫りになってきます。

そう考えると、彼らがイギリスや世界各地の巨石群を空から測量しながら、あるいは天空浮船の力を利用しながら巨石を運んで、それらを造った可能性もあるのです。

私たちはストーンヘンジ巨石群の複合施設とみられるウッドサークルを見た後、エイヴベリーのストーンサークルへと車を飛ばしました。もちろん空は飛びませんよ、念のために(笑)。

直線距離で28キロですが、道はくねくね曲がっているので、50分ほどかかったと思います。

エイヴベリーに着いて、最初に出迎えてくれたのが、この小山でした。

silbury hill

ヨーロッパ最大の人工マウンド(盛り土)とされるシルベリー・ヒル(高さ39・5メートル)です。まるで日本の古墳みたいですね。

私はこのマウンドを見た瞬間、エイヴベリーのストーンサークルがこの小山を含んだ複合施設であることを直感します。なぜなら、これはまさに秋田県大湯のストーンサークルと黒又山(クロマンタ山)の縄文遺跡とそっくりなんですよね。大湯のストーンサークルでも、サークルとクロマンタ山の位置関係がいろいろと論じらています。

そしてこの後、私たちは一つの村を包み込むほど大きいエイヴベリーのストーンサークルを見ることになります。

(続く=おそらく夜の更新となると思います。前回のブログに出てきた岐阜県の金山巨石群については、拙著『竹内文書の謎を解く』のP172「飛騨王朝のその他の巨石群」を、今回のブログに登場した大湯ストーンサークルとクロマンタ山に関しては、同P135「太古の神都・十和田高原 大湯ストーンサークル」をご参照ください)


最終更新日  2010年06月19日 17時17分39秒
TWITTER コメント(0) | トラックバック(0) | コメントを書く

2010年8月24日火曜日

03029■タガノコフは多賀の国府でない









ホツマは鳥居礼さんの著書から、ヒタカミのヤマテ宮、タガのコフは多賀の国府としてきましたが、このような見方があるのですね。
私は多賀ではないと睨んでいますから、うれしい説です。

ヒタカミ、ヤマテ宮、タガは大変重要なキーワードなのです。資料として。 
鳥居礼さんのホツマの見方についても教えています。


真名の日本巡礼さんから


最後に、漢字表記とかな表記について、一言しておく。
ホツマについて、筆者は、漢字表記の恐ろしさを十分に理解していないと考える。
漢字表記を行うこと自体はかまわないが、それは、高度の研究者が、十分な注意を払って行うべきである。
日本でそれが許されるのは、池田満氏一人であろう。
ヲシテ文献について、学会での再検討を必要とする業績をあげているのは、事実上、池田氏一人であると言ってよい状態だからである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鳥居礼氏の書籍は、労作であるが、しかし現代語訳本にとどまるであろう。
その池田氏が、漢字表記に対して徹底的に慎重な態度を守っていることを、wikipediaの筆者は尊重するべきであろう。
なお、普通の研究者なら、漢字表記の恐ろしさは当たり前の前提であり、議論の余地はない。
Wikipediaのまさにその「外部リンク」から例を挙げる。

「秀真伝」が語る太古ヒタカミの神々

▲ オシホホミは即位後、都をトヨケの故地、ヒタカミのヤマテ宮の跡に置くことにした。その都はまたタガのコフとも名付けられたという。さて、このヤマテ宮とは、いったい何処のことであろうか。「ヤマテ」を仙台の訓読みとすれば、それは現在の宮城県仙台市方面に求められることになるであろう。『秀真伝』においては、漢語をむりやり読み下したような語彙は、他にもしばしば見受けられるところである。また、仙台をあえてヤマテと読むことで「邪馬台国」と関連付けるつもりだったのかも知れない。
 日本では新井白石や本居宣長が研究を始めるまで、邪馬台国の名は魏志倭人伝よりも、むしろ日本の未来を予言したという『邪馬臺詩』の方でよく知られていた。
「タガのコフ」を多賀の国府、すなわち多賀城(多賀柵)のことだとすれば、そこから仙台市までは十キロほどしか離れていない。有名な多賀城碑文によれば、この城は神亀元年(七二四)、陸奥按察使の大野東人によって置かれたものだという。
 もっとも仙台とは、もともと青葉城が国分市の居城時代、千代城と呼ばれており、それを伊達政宗が仙台城と置き換えたところから生じた地名だそうだから決して古いものではない。多賀城の国府もまた、当然ながら神代まで遡りうるものではない。この種の時代錯誤は「古史古伝」では珍しいものではなく、むしろその真の成立年代を考察する上での貴重な手掛かりとなりうるものである▲


この著者は、「タガのコフ」を、「多賀 国府」と訳してある。

しかし、原文にはもちろん「多賀 国府」なんて書かれてはいない。 当然であるがヲシテで書かれている。

イサナギ、イサナミのフタカミは「タガのミヤ」で治世を行った。
社会秩序の乱れや精神の闇を直して明るい、幸福に暮らせる世の中をもたらしたことを「タガ」と呼んだことが、ヲシテ文献から読み取れる。
オシホミミは、ヒタカミにミヤを移すのに際して、その治世を慕い、それを手本として治世を行うことを「タガ ノ コフ」と呼んだのである。

「タガ」はフタカミのミヤの名前であるのとともに、ヤミを治めるという意味が掛け詞になっている。
「コフ」は、フタカミの治世を恋い慕うといった意味であり、そのミヤをヒタカミに移植したということである。

そのような意味は、漢字はもちろん、カタカナからも脱落している。
ヲシテを見ないと理解できないようになっている。

そこには、「国府」という意味はないのである。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2010年5月9日日曜日

011241■温泉から塩製造は特殊温泉



中央構造線研修で、遠山郷の鹿塩温泉で温泉から塩製造に出会いました。どこでもできるのではないようです。前に書いた大湯温泉でも塩製造か・・・は違うのではないかと想います。

1、鹿塩温泉

ここは、長野県、南アルプスのふもとにある大鹿村。

鹿塩温泉 塩湯荘は、創業明治三十七年。

山奥なのに塩辛い、不思議な温泉の宿です。

【引用はじめ】

ちょっと、寄っておいきて。

みんなは、大鹿村がどこにあるか、知っとるかなむ?

伊那谷から、南アルプスに向かって、まっと、ずう~~~っっ・・・

・・・・・・・・っと(20km)山奥に入った、山奥谷なんだに。

そこには、昔っから海のようにしょっぱい塩の泉があってなむ。

鹿がそれを飲んでおったから、見つかったっちゅうことで、

平安の時代から、ここは、鹿塩(かしお)と呼ばれとった。

こんな山奥じゃあ、塩は何ちゅっても貴重だったで、

ここは特別な所な。

不思議だなむ。

2、塩を製造している



















3、成分はマグネシュウムが非常に少ない
onsen_column_vol4_02.jpg

謎の鹿塩塩泉は、海水と同じぐらいの塩分を溶かしています。

塩分といっても、いろいろな成分があります。

鹿塩塩泉と海水の成分(グラム/リットル)
成分(イオン)鹿塩塩泉海水
ナトリウム10.6010.77
カリウム0.160.40
マグネシウム0.071.29
カルシウム0.360.41
塩化物19.3019.35
臭素0.040.07
硫酸0.012.71
炭酸水素-0.24
サラサラの食塩泉
圧倒的に多いのが、食塩分、塩化ナトリウムです。
ナトリウムイオンと塩化物イオンをあわせて
1リットルに3グラムもあります。
この濃さは海水と同じです。
けれども海水に多いニガリ分、
マグネシウムイオンは、ほとんどありません。

やはり海水に多い硫酸イオンもほとんどありません。
カルシウムイオンは、海水よりやや少なめです。

このように、鹿塩塩泉は海水よりも純粋な食塩水にちかく、
ベトつかない塩水です。
原水の塩分は海水よりも濃い
塩泉は、地下のどこかにある"もとの水"と、
ふつうの地下水がまざって湧いてきたものです。
鹿塩の"もとの水"の塩分は、海水よりもずっと濃いはずです。


4、なぜ山で塩が
海のない信州で塩採取!?

なぜこの地に塩泉が湧き出るのか解明しようと乗り出したのが、黒部銑次郎でした。

明治9年から黒部は岩塩鉱を求めて発掘を始めましたが岩塩は発見できず、その後黒部は製塩を開始しました。

当時発掘作業時に掘った洞窟が現在も存在し、洞窟には実際に入る事も出来ます。


現在黒部銑次郎が半生をかけた塩泉の遺志を受け継いで製塩事業と旅館を営むのが


「山塩館」4代目主人平瀬長安さん(67)。


明治38年に塩の専売法の施行で途絶えてしまった塩作りを近年復活させ、


宿の敷地に製塩施設を設け、塩を作っています。


隣接して流れる川は真水ですが、川床から10mも掘ると塩泉が湧きでてくるそうです。


一般的な食塩は、ほぼ塩化ナトリウムによって構成されているのに対して、


山塩は口の中で苦味やべったりとした印象を与えるマグネシウムが少ないので、


さらりとし、ショッパイ中に甘みを感じる特徴的な味わいです。


また塩分のほかに、温泉成分も含まれています。


「どうして山でこんな美味しい塩がとれるのか原理を証明する事は出来ないが、


キレイな水と空気、緑から出来る塩だから美味しい。


わからない事を追い求めた男のロマンを受け継いでいきたい」と主人は語ります。


この塩を使って山塩館では、お風呂のお湯も塩泉を使用し柔らかい肌触りで良く温まるそうです。


また食事も岩魚や特産の鹿肉、豆腐を塩で食べるなど山塩を存分に堪能することが出来ます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)
・塩が取れる温泉はありますがごく少ないようです。
・何故かの原理もよくは分からないようです。
・鹿塩温泉の塩の成分はマグネシューム(にがり)が極端に少ない。
・マグネシュームが少ないことは今の人工の塩に近いのでしょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2016/4/9
秋田市新屋温泉で「温泉から食塩」
秋田魁新報より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2010年4月21日水曜日

01124■クロマンタの薬師、大日、阿弥陀



二宮翁夜話に(第90夜)

仏教の考え方というのは誠にすぐれたもんだな。太陽が朝、東方に出るときの恩徳のことを「薬師」と名づけ、中天に照らすときの太陽の功徳を「大日」といい、夕日の功徳を「阿弥陀」といっている。だから薬師、大日、阿弥陀といっても、その実こういう仏があるわけではなく、みな太陽の恩恵をこういう仏の形にして教えたんだよ。
また大地の恩徳を「地蔵」といい、空中の恩恵を「虚空蔵」といい、世の中の情報をとらえ、これを見分ける力を「観世音」と言ったんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
クロマンタに当てはめて調査をしました。

1、クロマンタの東西南北




























1、薬師神社
クロマンタの頂上、東向きになって立っている。

2、大日堂
ほぼ真南に位置する。大日堂舞楽の大日堂です。

3、月山神社
ほぼ西側の茂谷山に位置する。
月山神社は、山形県の出羽三山のHPから、月山の本地仏は阿弥陀如来となっている。

WIKIより
それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。羽黒山に3社の神を併せて祀る三神合祭殿があり、宗教法人としての社務所も羽黒山(鶴岡市羽黒町手向7)に置かれている。
現在、多くの参拝者を集め賑わっている出羽三山ではあるが、参拝者の多くは信者ではない観光客であり、出羽三山の数十年後の未来を担う若い世代の信者は少なくなっている。信仰の継承が未来への課題である。
山名社名祭神本地仏所在地
月山月山神社(がっさんじんじゃ)月読命(月山権現)阿弥陀如来鶴岡市・庄内町・西川町
羽黒山出羽神社(いではじんじゃ)伊氐波神・稲倉魂命羽黒権現正観世音菩薩鶴岡市・庄内町境
湯殿山湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)大山祇神大己貴命少彦名命(湯殿山権現)大日如来鶴岡市・西川町境
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)
*仏教は神道のずっと後に日本にわたってきたものですから、クロマンタを仏教で解こうとするのもおかしなものでしょうが、薬師についてはまだ途中ですが、おもしろいkン系が出てきました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2010年3月20日土曜日

01228■大噴火の様子(開聞岳の事例)



十和田湖の噴火を追求するにあたって、鹿児島の開聞岳の大噴火の様子が秋たさきがけに掲載されていました。参考資料として。

記事
「大地を灰で覆い尽くす火山の噴火は、時に集落や農地を復興不可能な状態にした。・・・・・
天皇の命で編纂され901年に成立した歴史書「日本三代実録」によると、噴火は874年3月25日夜に発生した。『開聞岳の山頂に炎が立ち上がり、噴煙が天を覆った。夜が明けても光が差さず、昼間も夜のように真っ暗だった。細かく黒い砂が降り続けた』 約10km北東の遺蹟周辺では、火山灰がわずか一日で0.5~1mほど積もったとみられる。」
































・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)
・これほど大きな噴火は正式な記録として残っているのですね(874年)。

・大変参考になる資料です。
十和田湖の噴火(915年)が同じころなのに、地元に記録がなく、地域の地質学者も考えたこともないと言っているのに・・・です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2010年3月15日月曜日

04016■東北縄文の歴史を深く耕す




秋田さきがけ新報に石川好さんの「秋田の歴史を耕そう」が掲載されています。

1、秋田の歴史を耕そう









































■要旨は
①横手市の大鳥井山の山城発見が素晴らしいものとニュースとなった。
②文書に残らなかった歴史が東北にはあった。歴史についての見直しが必要でしょう。
③「遅れている」と無自覚な秋田県民はどう理解し、生かして行くか。
④秋田県内の歴史遺跡を耕してみれば、可能性としての秋田の未来が現れる。
秋田に自信と誇りを蘇らせよう!!

2、児桜町内子ども会「児桜貝塚跡調査」
なぜ児桜町内会は(子ども会中心ですが)縄文時代の児桜貝塚跡調査を行ったか。
それは行政の発掘調査は天平時代の秋田城址が目的です。中央政府がわれわれ蝦夷(エミシ)つまり縄文の昔からここに住んでいた人々を征服した頃の調査なのです。だからわれわれは、我々の住む児桜の丘に、縄文時代にすでに集落があり生活していたことを深く調べたくなったものです。



























3、刻字作品「耕してやまず」











私の巡堂工房作品に「耕不尽」(たがやしてやまず)があります。
その前の大館市の実業家Kさんには「深耕」を希望され彫って差し上げてあります。

石川さんと同じく、すべてのものを今より更に深く掘り下げて行けば、必ず原点に立ち返ることが出きて、今ある壁を突き抜けることができるのです。
そして、その継続です。耕してやまず!!

4、東北縄文文化研究会も同じ目的です
私のもう一つの顔は「東北縄文文化研究会」主宰です。特に鹿角市のストーンサークル、クロマンタが中心です。東北の縄文時代は律令国家が国をあげて歴史を封印したものです。たとえば「田村麻呂伝説」というのがあります。岩手県でアテルイと10年戦争をしてついに捉えた大将軍ですが、実は岩手県真でしか来ていないのに、山形県にも、秋田県にも、青森県にも来た事になっています。しかも来てない各地に神社が一杯建っています。

教え込まれている常識というのは本当にアテにならないのです。歴史を深く耕すことで、その常識の壁を突き抜けて良ければ明るい未来がひらける、と石川好さんは言っているのですね。

ますます、「東北縄文文化研究会」もやる気がでてきました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2010年3月8日月曜日

03028■四道将軍とは(wiki)











ウイキで四道将軍を確認しましたら、なんと鹿角に遺跡のある「田道将軍」は入っていませんでした。


四道将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

四道将軍(しどうしょうぐん)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、
大彦命(おおびこのみこと)、
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、
吉備津彦命(きびつひこのみこと)、
丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。


『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、

西道、丹波に派遣された。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと

将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させ

て凱旋したとされている。なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀

人物とされている。概要

 [編集]

古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して
取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦
命は別名で記載されている。
また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命
の父である彦坐王が記述されている。
四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル
伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト
王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解があ
る。事実その平定ルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重な
っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)
・なんと鹿角に来た田道将軍がいません。
・秋田市の古四王神社に四道将軍の一人「大彦命(おおひこのみこと)」
が越の国から遠征したことになっています(大いに疑問に思いますが)
(古四王神社 はりつけ)
社伝では、崇神天皇の時代、四道将軍大彦命蝦夷を平定するため
陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(「あぎ
たのうらのかみ」は日本書紀に記載されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・