2009年6月7日日曜日

01408■鹿角の紫根染と茜染(その一)  











ケフの狭布との関係資料
51 鹿角の紫根染と茜染(その一)                        参考(抜粋):鹿角市発行「鹿角市史」   〈伝承による起源〉  口碑によれば、鹿角の紫根染シコンゾメ・茜染アカネゾメの技法は遠〈伝承による起源〉
 口碑によれば、鹿角の紫根染シコンゾメ・茜染アカネゾメの技法は遠く奈良時代から伝わり、歴代の領主が遥々朝廷に献上してきたものとされている。そこまで遡ることの是非はさておき、わが鹿角地方は、古くから伝説や民話の多い平和郷として知られる。古代芸能の伝統を継承する国指定重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」を始め、白根・尾去沢鉱山発見に因んだ和銅年間の産金・産銅伝説や、歌枕の地として「けふの細布」「錦木」の故事に彩られた錦木塚などが、古代の息吹きを今なお伝えている。狭布ケフは京に通じると云う。
『三代実録』で上津野カヅノと記され、その後は京郡キョウノコオリとも呼ばれたように、鹿角は早くから中央との接触を持ち、文化の恩恵にも浴していたと言われてきたことと併せ考えて見ても、紫根染・茜染の起源伝承にはそれなりの信憑性があると思われる。
 
〈身近にあった豊富な原料〉
 元来、紫根染・茜染が鹿角の特産品として古くから育まれてきたのは、原料であるムラサキ草とアカネの根はもとより、唯一の媒染剤となる木灰の原木ニシコホリ(灰木ハイノキ科に属する落葉潅木で、サワフタギか)が、付近の山野に豊富に自生していたことに因るものであろう。このことについて『旧蹟遺聞』「錦木塚」の項には次のように記されている。
 
 錦木というは灰の木なり。物の色に合うゆえに其木を焼いてさせば言なり(略)けそう(懸想)文に用いて門にたつるなり(略)奥義抄に云う灰の木にてにしきぎの糸をも染むればにしきぎという(略)今、鹿角郡のあたりにて紫根染には必ずの此木の灰を用いそれににしごりあくともいう。しからばにしきぎ、にしこり木は同じ類の木にて袖中抄の説のごとく訓の通うままに、にしきぎともにしごりとも、にしこぎとも言いしなるべし(略)今は必ず紫根にのみ用うといへり。
 
 また延享元年(1744)領内物産を書き上げた記録には「根は所々に産するも、紫染は鹿角郡を上品とす」とある。更に安政六年(1859)の『御国産細見』には領内紫根の産地として次の通名が挙げられている。野田・沼宮内・福岡・三戸・五戸・七戸・野辺地・田名部・花輪・毛馬内。何れも領内北部の地方に限られているが、染物については特に花輪、毛馬内の両鹿角に「紫木綿、茜染木綿、右二品仰付けられ」云々と記されている。
 
〈染料紫根の激減〉
 南部領内岩手・二戸・鹿角を結ぶ線から北域に夥しく産出した紫根は、藩の政策により特産物として取り扱われ、物留番所、紫根改所などで抜荷・密移出が厳しく取締られ、更に藩直営の請負制度によって集荷・専売が実施されるなど種々の対策がとられた。
 宝暦十年(1760)以来、巷間好評の南部紫根は江戸の求めによって毎年大量に移出され「紫根、城北の在より出て年々江戸へ趣オモムキ、世にいう江戸紫は南部紫也」(『勘定考弁記』)と言われる状況であった。しかし年と共に地元での不足を来たし、遂には八方手を廻して買い集めても仲々思うに任せず、目標通りの反数を染めかねて困惑している状況が記された文書が残っている。
 
〈地元経済を潤した紫茜〉
 近世末における鹿角の紫染、茜染盛況について後藤捷一『南部紫根ゆかりの色』につぎのような記載(要旨)がある。
 
 鹿角の染色加工は今や立派な国産事業に到達しているが、紫根のほかに茜染も行われて居り、木綿原料の繰綿クリワタ代金が他領払(主として秋田)となる以外は、紡糸・織布・染色はすべて地元で行われて郡民の収入となり融通し生活を潤ほしている。最近は紫木綿のみならず茜木綿も他に比類の無いものとして他藩領からの注文殺到し(略)。いま鹿角地方が製出している紫・茜木綿の一ケ年販売額はおよそ金二千両とあり、うち繰綿代金を差し引いた残額一六七〇乃至一六八〇両、これに単なる染色加工代金を合算すれば
少なくとも一ケ年金二千両内外が地元経済の潤ほいとなって流通している。尤も染木綿一反の販売価額は銭壱貫五百文から三貫文で平均銭弐貫文とあるが、将来壱万貫の製織加工実現すれば金三千両の年収があるべき筈(下略)
 
〈絞り模様柄〉
 当時の諸記録からは一般には無地染の方が多いようである。しかし絞り模様柄ガラもあり、ここに絞りの種類と値段についての例を掲げて見る。
 
   覚
一、三貫九百文 紫無地二反
一、四貫百文 同大絞り一反 同らせん一反
一、二貫四百五十文 同立絞り一反
 〆五反 右ハ久慈某殿へ御謝儀の為遣さる。
一、壱貫八百五十文 紫無地一反
     右は下田様より御頼合之物ニて仕送。
                    (花輪南部家『諸御用留帳』天保十五年)
 
 今に伝えられる絞りの柄の大升オオマス・小升コマス・立枠の三種は、何れも昔からこの染め物に一番似合う絞り柄と云われているが、右の絞り名と照合すると、その関連性に頷けるものがある。
 
〈紫根染・茜染の特性〉
 紫根染・茜染は、湿気を呼ばず、身に着けていれば病魔は退散し且つ難病の予防さえ出来るとされ、中でも痔・肺病・くさかさには卓効があるとして多用されていたと伝えられる。『雑書』安政五年(1776)に「薬種屋にて相用候紫根は年中入用の程大略差積り、支配人中へ申出ハ、吟味の上御払方仰付けられ候間、始末仕り相調申す可く」とあるのは、このことを物語っている。寛政十年(1798)秋七、八月に花輪領主中野康房が痔を治すために在府の盛岡から大湯に逗留湯治した際、親交ある御給人や家来筋の人々から
紫染を見舞に贈られたことが、川村元家文書の『花輪御本丸御逗留中御留帳』にある。
 
一、旦那様御痔疾に付、大湯へ御入湯御暇御願上げ(略)廿七日湯元へ御出ニ付(御見舞の品が続々差上げられた中に)八月七日一、紫木綿壱反 村山善六殿より差上る。一、紫かせ糸壱把 立山専右衛門差上る。一、紫木綿壱反 山屋伊兵衛差上る。一、紫かせ糸壱 工藤要右衛門手廻共より上る。一、紫かせ糸壱 安保左三次より差上る。一、紫かせ糸壱 肝煎甚六より差上る。
 
 元来紫という色は光線に対しては著しく敏感で、直射日光に長時間晒すと非常に褪色し易いが、鹿角の古代染法は特に手数をかけるため、同じ紫でも他のものに比べて遥かに色が堅牢とされる。また箱にしまっておくなど光線を遮断する措置を講ずることにより、長く置けば置くほど年々歳々その色が安定していくと云う特性がある。それ故着物の場合でも外に晒すことのない襦袢ジュバンなどに用いられ、また夜具布団に多用されたと云う。


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 歴 代の領主が遥々朝廷に献上してきたものとされている。
 そこまで遡ることの是非はさて おき、わが鹿角地方は、古くから伝説や民話の多い平和郷として知られる。古代芸能の 伝統を継承する国指定重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」を始め、白根・尾去沢鉱山発見 に因んだ和銅年間の産金・産銅伝説や、歌枕の地として「けふの細布」「錦木」の故事に 彩られた錦木塚などが、古代の息吹きを今なお伝えている。狭布ケフは京に通じると云う。

 『三代実録』で上津野カヅノと記され、その後は京郡キョウノコオリとも呼ばれたように、鹿角は 早くから中央との接触を持ち、文化の恩恵にも浴していたと言われてきたことと併せ考 えて見ても、紫根染・茜染の起源伝承にはそれなりの信憑性があると思われる。   〈身近にあった豊富な原料〉  元来、紫根染・茜染が鹿角の特産品として古くから育まれてきたのは、原料であるムラ サキ草とアカネの根はもとより、唯一の媒染剤となる木灰の原木ニシコホリ(灰木ハイノキ 科に属する落葉潅木で、サワフタギか)が、付近の山野に豊富に自生していたことに因 るものであろう。

このことについて『旧蹟遺聞』「錦木塚」の項には次のように記され ている。    錦木というは灰の木なり。物の色に合うゆえに其木を焼いてさせば言なり(略)けそ う(懸想)文に用いて門にたつるなり(略)奥義抄に云う灰の木にてにしきぎの糸をも 染むればにしきぎという(略)今、鹿角郡のあたりにて紫根染には必ずの此木の灰を用 いそれににしごりあくともいう。しからばにしきぎ、にしこり木は同じ類の木にて袖中 抄の説のごとく訓の通うままに、にしきぎともにしごりとも、にしこぎとも言いしなる べし(略)今は必ず紫根にのみ用うといへり。  
以下 HP「鹿角の紫根染と茜染」で


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(まとめ)
・ストーンサークルのある鹿角市は茜染めの本場ですので、ケフの郷から受け継ぐものかと調べてきました。
・しかし、「ホツマ」の「毛布の細布」は鶴の羽とありますので、流れは引くのでしょうが、少し違うようです。
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