2009年6月17日水曜日

01014■津軽外三郡誌と田道将軍





津軽外三郡誌と田道将軍


(引用)
開化天皇は北九州の筑紫を除く日本全土を統一することに成功しました。しかし彼はその後、荒覇吐神の信仰を捨て、出雲族や日向族の神を崇めたために、畿内の荒覇吐族と奥州の荒覇吐族との間で争いが起こり、日本は二つに割れてしまいます。


アラハバキ族が仲間割れを起こしているうちに、騎馬民族を率いて海を渡って攻めてきたミマキイリヒコによって開化天皇は敗れ、ミマキイリヒコは天皇(崇神天皇)に即位しました。そして、律令制等を整えることで国力を強化し、奥州の諸勢力を服属させていきました。


もっとも、アラハバキ族は勇敢な兵士揃いだったので朝廷の遠征軍に敗れることはありませんでした。仁徳天皇の命により田道将軍、また、斉明天皇の命で阿倍比羅夫が津軽を攻めましたがいずれも大敗を喫します。


その後アラハバキ族は安倍氏という豪族集団に変化していきました。安倍氏は奥六郡を支配しますが前九年の役で、源頼義に攻められ滅びてしまいます。


この時安倍貞任の遺児高星丸(たかあきまる)が津軽の藤崎に逃れ安東氏を名乗ります。安東氏は十三湊を拠点にして海外との交易を活発に行い、やがて、中国大陸に安東という城塞都市を築くまでになりました。


しかし、室町時代に大津波が十三湊を襲い、町は一夜にして消滅してしまいます。この津波の影響で十三湊は水深が浅くなり、大船が港に付くことができなくなりました。もはや、十三湊は貿易港として使うことができません。そこへ、東隣の強豪、南部氏が津軽に攻めてきました。無駄な戦を嫌った安東氏は、津軽を捨て、秋田や北海道へ移っていきました。


秋田を拠点にした安東氏は、その後に続く戦乱の時代を乗りきり、江戸幕府の下で福島県三春に国替えになりながらも、秋田氏として近世大名の命脈を保ったのです。

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(まとめ)
・田道将軍と阿倍比羅夫が津軽を攻めたことがかかれています。
・田道将軍は津軽まで行ったのか、鹿角では鹿角を攻めたが鹿角で死亡したとなっています。
・阿倍比羅夫は荒俣宏説では、武力で攻めてはいないとなっていますがどうなのでしょうか。
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