弘前に行って猿賀神社に寄ってきました。昨年の岩木山神社もそうでしたが、津軽の北斗七星を考えてきました。
1、猿賀神社
2、津軽の北斗信仰
「荒俣博 歌枕謎解きの旅」より
熊野奥照神社の社殿によれば、津軽地方は王城の鬼門にあたることにより、古くから鬼神の蜂起が発生して庶民をおびやかすことがあったという。そこで津軽の阿姿羅というところに千坊の寺を建てて鬼神を平定し、国土擁護秘法を修した。ところが鬼神の横行は一向にやまなかった。そこで桓武天皇の時代に、田村麻呂が名を受けて官民五万八千とともにぴ集を攻めた。このとき、田村麻呂は閉廷した津軽に七つの社を建て、そこに武器を遺棄して、あたかも田村麻呂将軍がこの地に常駐するかのごとくに見せかけることにした。
田村麻呂はその際、七社を北斗七星の形に配し、星の威光を借りて鬼神を封じたという。
明治九年頃に岸俊武の「新撰陸奥国誌」に熊野奥照神社古文書から引用された図が掲載された。それは岩木山を中心とする十二里四方の範囲に点在する七つの神社の配置図であった。しかもその配置が北斗七星の形をなしていた。
2、怨霊で悩まされた桓武天皇
桓武天皇
道鏡追放後、再び藤原氏の天下がやってくる。白壁王(後の光仁天皇)を擁立し、その皇子の山部親王が桓武天皇である。桓武は長岡京に遷都を行うが、早良親王の怨霊騒ぎもあり、十年で遷都を決意する。
坂上田村麻呂と津軽の北斗七星
桓武天皇のビョ-キは平安京周辺だけでは修まらなかった。坂之上田村麻呂を東北に派遣したのである。そして津軽に”地上の星”が出現する。50キロに及ぶ北斗七星の形に並ぶ神社群である。
乳井神社、鹿島神社、岩木山神社、熊野奥照神社、猿賀神社、浪岡八幡宮、大星神社の七社。
天台密教最強の防御術・北斗供を津軽まで行って実行しなくてはならない理由はなんなのか?いったい桓武天皇はなんと戦っていたのか?。
各神社の地下には宝剣が埋まっているという。
乳井神社、鹿島神社、岩木山神社、熊野奥照神社、猿賀神社、浪岡八幡宮、大星神社の七社。
天台密教最強の防御術・北斗供を津軽まで行って実行しなくてはならない理由はなんなのか?いったい桓武天皇はなんと戦っていたのか?。
各神社の地下には宝剣が埋まっているという。
3、グーグルアースで配置図
①鹿島神社・・・鹿島といえば常陸の鹿島神宮、北方鎮護のシンボル
②岩木山神社・・・オオクニヌシが出雲から左遷された所(降臨)。田村麻呂伝説の拠点。また天台・・熊野の神秘世界がそのまま再現された土地。
③熊野奥照神社・・・北斗七星の言い伝えが残る神社
④乳井神社・・・田村麻呂が胸あてのご神体を奉納した
⑤猿賀神社・・・田村麻呂が田道将軍の神霊に祈誓し、霊感を得て蝦夷征伐。
⑥浪岡八幡宮・・・八幡を押し立てて東征にでた始まりは田村麻呂
⑦大星神社・・・大星とは北斗七星の意味。田村麻呂「コサ吹かば・・・」
4、北斗信仰はいつからか
いずれにしても、岩木山神社の北斗供は、坂上田村麻呂による武家としての北斗信仰(清水寺など)、ならびに東北の平定に力を貸した天台宗の呪術とを、背景としていること、まちがいないと思われる。
ここでもし、岩木山七社がすくなくとも西行の時代(13世紀)までに成立していたとすれば、北斗信仰の栄えていた当時のことだから、岩木山が歌枕入りしていたに違いない。
田村麻呂伝説は「古今集」や西行の時代には存在しなかったか、あるいはまだ普及していなかったためだろう。
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(まとめ)
・オオナムチの岩木山神社は昨年に見ました。ただただ驚くばかりの偉容でした。
・今回「猿賀神社」をみてきました。今までは、田道将軍を祀った神社は、大湯ストーンサークルの隣の「猿賀神社」との関係で見たかったのですが・・・恐れ入りました!!
・北斗信仰も「田村麻呂伝説」の一貫なのですね。坂上田村麻呂は山形、秋田、青森、三陸沿岸までは行っていないのです。
・田道将軍のことも、人物から時代関係まで疑問がますます増えます。(別途に)
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