2009年10月18日日曜日

03023■やはり芭蕉はただの隠密ではない















東北の歴史を見ていくと、田村麻呂伝説の延長線上に芭蕉「隠密説」が出てくるようです。

1、まずは、こちらからwebで学ぶ情報処理概論」さんからです。



奥の細道はスパイ行
(情報収集)


松尾芭蕉は元禄二年(1689)三月末、江戸を立ち、門弟河合曽良をただ一人伴って、奥州への旅に出る。 そして、北陸路を経て、九月美濃大垣に帰り着く。この旅の紀行文が有名な「奥の細道」である。

この芭蕉の旅は、実は、情報探索、すなわち、スパイ活動を目的としたものであったとの説がある。

Basho 芭蕉は伊賀上野の赤坂農人町(現在の上野市赤坂町)に、松尾与左衛門の次男として生まれる。 伊賀上野は忍者の里である。家は無足人と呼ばれた郷士・地侍級の農家である。 十九歳の時、藤堂藩の侍大将の藤堂良精(ヨシキヨ)の嗣子、良忠に子小姓として仕える。 この時、主君の良忠と共に俳諧を学ぶ。 しかし、芭蕉二十三歳の時、良忠が病没したので致仕し、その後は専ら俳諧の道を歩むことになる。  ここで、彼の生家が「無足人」と言われる階級の家であったことが、まず注目される。 伊賀は甲賀と並び称せられる忍者の里である。 かつて、伊賀の郷士たちは「伊賀惣国一揆」を組んで守護大名の支配に抗して自治をはかり、各々、 伝統の武芸である忍術の修練に励んだが、やがて、織田信長の二度にわたる伊賀討伐によって壊滅する。 この時、多くの者が全国に四散して諸大名に仕えたが、また多くの者は郷士として伊賀に留まった。 彼らが無足人である。芭蕉隠密説が第一の根拠とするところである。

他方、俳諧と云うものは中世の連歌から発展したものである。 ところが、中世以来、連歌師たちは諸国を遍歴するので、しばしば諜報活動を担わされた。 室町時代の連歌師柴屋軒宗長などが、その有名な例である。 宗長は今川家の有力な家臣である朝比奈氏の掛川の城を詳細に探索し、日記の中に書き残している。 これが、芭蕉隠密説の第二の根拠である。

芭蕉隠密説が、その決定的な根拠とするところは、 その東北旅行に同行した河合曽良の「曽良旅日記」(「奥の細道随行日記」)と、 芭蕉自身の「奥の細道」との間に、八十個所以上にのぼる食い違いがあることである。 まず、江戸深川を旅立った日から既に食い違っている。 芭蕉は三月二十七日、曽良は二十日としている。 芭蕉の「奥の細道」は文学作品であるから、ある程度の文学的デフォルメがあるのは已むを得ないにしても、 その食い違いの多くは、そのようなことでは解釈出来ず、 そこには、何か隠されたものがあると見ざるを得ないと云う。

では、芭蕉は何を探索しようとしたのか。 最上川上流における紅花の技術を探ろうとした産業スパイであったと云う説もある。 これは、尾去沢の紅花問屋に十日近くも滞在して、 「眉掃きを俤 (オモカゲ) にして紅花 (ベニ) の花」と云う句を作っているからである。

しかし、最近の研究によると、芭蕉の目的は仙台伊達藩の動静を探ることにあったと云われている。 当時、幕府は伊達藩に日光東照宮の修繕を命令したが、莫大な出費を強いられることから、 伊達藩が不穏な動きを示す可能性があったためと云う。 そして、彼はこの探索を水戸藩を通じて命ぜられたと云う。 事実、彼の旅程を詳さに検討すると、伊達藩領内については、何かと異常と思われる節が多く見られるのである。



2、次は副島隆彦氏の「学問道場」から

・・・忍者のことを隠密というのですか。

副島:そうです。千石時代は、乱破(らっぱ)とか素破(すっぱ)と言いました。恐ろしい戦場の謀略人間    たちです。刺客も忍者ですね。
    私は4年前、「伊賀もの」の本場である、三重県の伊賀上野市に講演会で招かれて行って、地元  の経営者たちにあちこち親切に案内してもらってわかりましたが、「奥の細道」の松尾芭蕉も公儀隠  密(政府の隠密)なんでしょうね。

    彼は、まさし伊賀上野の人です。記念館がいくつも残っています。本当に4百年前の芭蕉が、生  活した家なのかは不明です。ですが観光名所になっている。実に枯れ果てた感じの、芭蕉の庭園つ  きの居宅もありました。
   弟子の俳諧師の、向井去来や、与謝野蕪村も同じ系統の人でしょう。伊賀上野の地元の人たち    は、平気でそういう噂をしていましたね。現地に行けばたいていのことは分かります。 

   俳諧師、連歌師というのは、まさしく徘徊師で、全国の諸藩を、密貿易の「抜け荷」の証拠を  探って回っていたのでしょう。だから、芭蕉は「奥の細道」のような長い旅行をしていますが、   相当に特別な鑑札(証明書、許可状)がなければ、諸藩の国境(くにざかい)の関所を越える  ことはできなかったはずだ。

   彼らは、はたして、町人なのか太字、武士なのか、百姓なのか身分が分からない。今では、すぐれた日本の文学者たちですが、一体、何で生計を立てていたのか、分からない。藩主である藤堂高虎の藤堂家に仕えていたことははっきりしている。

・・・句の中にそれを隠して詠んだそうですね。

副島:その可能性もあるでしょうが、まだ解明されていない。彼らは、枯れ果てた精神をした人間たちですから、いっさいの記録を残していない。おそらく本当に隠密だったのでしょう、鑑札も許可状もないのに、あの時代に日本中をふらふら歩けるわけがないのですから。



3、荒俣宏の「歌枕 謎ときの旅」からp155~
芭蕉が「壺の碑」の前後の奇妙な行動

さて、いよいよ奥州歌枕の核心にせまりだした芭蕉だが、このあたりからかれの行動が謎めいてくる。
①たとえば、芭蕉は笠嶋というところをめざし、一句を詠んだのだが、体が疲れたことを理由にして現地に行かず仕舞にしてしまった。この塚は西行も見て歌を詠んだところなのに。

②さらに妙なことがある。芭蕉は重要なポイントで日数をごまかすのだ。「おくの細道」によれば、芭蕉はその後に岩沼に宿り、武隈の松、壺の碑などを訪ねて、その夜に目盲法師の琵琶を聞くことになる。しかし、曾良の日記などによって、芭蕉が岩沼には泊らなかった事実が明らかになっている。

③おまけに、さかのぼって仙台に入ったときに、画工の加右衛門を訪ねている。芭蕉は彼から地図をもらい、これを頼りに旅して壺の碑に到着しているのだ。

④ これを整理すれば、芭蕉は案内や地図まで頼んで「壺の碑」へ向かっていたことが分かる。だとすれば、この数日間の旅は壺の碑に行くことが主たる目的だった、と考えられる。そして壺の碑に到着した感激を「疑ひなき千歳の記念、いま眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、旅の労を忘れて,泪も落ちるばかりなり」と綴っている。

調査をさせ、画図を描かせ、しかも用意周到の下で辿り着いた壺の碑。この執念は、単に西行や能因が行きつけなかった幻の名所を発見したいという文人の執念によるのではない。千年前を偲ぶ歴史的な視点がそなわっていたからだろう。

⑤壺の碑につづく次の平泉の旅でも奇妙な行動がみられた。石巻に一泊したとことが偽りな可能性があり、そうだとすれば、ここでも一日の空白を稼いでいる計算になる。


⑤これらの事情はいったい何を暗示するのだろうか。
答えは一つしかないと思う。芭蕉は壺の碑を見て、「これは坂上田村麻呂が建てたという日本中央の碑ではない」と気づいたからだった。ここではなく、どこか別の場所に本物の石碑があるはずだと信じて、多賀城周辺を訪ね歩いたとしたら、どうだろうか? これで、芭蕉がこのあたりで日数をごまかした理由も明らかになる。また壺の碑で発句していない理由もあきらかになる。歌枕に地でないと分かったところでは、心をいつわって句を詠めないのだ!

であるとすれば、芭蕉にとって歌枕「壺の碑」は、かなり重要な「現実の土地情報」となっていたことになる。芭蕉の時代になると、歌枕はフイクションを脱して、そのまま具体的な地名になりつつあった。本当に歌枕の地を探しあてることができると考えられていた。

⑥多賀城は、大和の国を蝦夷から守る最前線の城砦だったが、同時に蝦夷に何度も襲われている。それは大和の東北経営の心細い拠点で会った以上に、蝦夷たちの反抗や抵抗を今に伝えるシンボルで会ったのだ。

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(まとめ)

4、芭蕉は「壺の碑」で悟った

・芭蕉隠密説は上記1,2で決定ですね。
・でも、この東北縄文文化研究会では、芭蕉隠密が抜け荷を調べた・・・程度では満足できません。
わが秋田県と縁がある、菅江真澄ならエゾ地の抜け荷調査で納得ですが・・・。

・芭蕉は多賀城の「壺の地」ですべてを悟ったと解釈したらどうでしょう。
①ホツマからは多賀城が日本の「3つ壺」の一つであることが分かります。(他は富士山と琵琶湖)
②憧れの壺の地に来て「壺の碑」を見た。(徳川光圀公が定めたもの)
③世に言われる「日本中央」とは書かれていなかった・・・芭蕉は分かっていたのではないか。
芭蕉は蝦夷への鎮魂のために「壺の碑」を訪ねたのではない。

芭蕉が求めた「壺の地」とは坂上田村麻呂の時代ではない。はるか縄文の時代であるのだ。だから「日本中央」と書かれたものは論外で、現地で見たものは里程が記された「壺の碑」であった。芭蕉が思い描いていた「壺の碑」とはほど遠かったのだった。

④したがって、まだ何かあるはずだと探し求めたのだった。しかし、時間がなく諦めたが、「奥の細道」には「・・・・泪も落ちるばかなり」と書いておいた。 としたらどうでしょう・・・。
東北縄文文化研究会はこう解釈しております。

結果的には、芭蕉も田村麻呂伝説以来大和朝廷・・幕府・日本政府が行ってきた延長線上のものとなってしまったのです。


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