2009年12月8日火曜日

01619■養老の滝伝説

ダンブリ長者の伝説は岐阜県の「養老の滝伝説」を調べる必要があるようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

養老山といえば、養老の滝、孝子伝説が有名です。霊亀3年(717年)、奈良朝元正女帝は、この地を訪れ霊泉で体を洗われると、ご病気が全快しました。帝はこれをお喜びになり、年号を養老と改めました。この話はあまりにも有名です。

「よーろー」の名はもともと養老の滝のまわりにあり、奈良期に養老の当て字がなされたようです。「よーろー」とはゆるやかな坂を示す地名で、全国14県、30ヶ所以上にあります。養老の滝は、江戸時代の美濃の3大名所のひとつでした。そして養老郡養老町の名は明治22年(1889年)の養老村の誕生に由来します。その養老が、次のような孝子伝説とつながりました。

美濃の国に、源丞内(げんじょうない)という貧しい若者がいました。丞内は、老父を家に残して山へ「まき」を拾いに行き、それを売って米や父親のための酒を買うのが日課でした。老父は、目が不自由で日々酒だけが楽しみでした。
 ある日、丞内が山の中で転んで眠ってしまったところ、夢の中で酒の匂いがしました。目がさめると、香り高い酒が湧き出る泉がありました。丞内は喜んで、老父にその酒を与えました。すると老父の目が見えるようになるではありませんか。酒の泉は、不自由な体を直すということで有名になりました。それが帝の耳に達し、親孝行の丞内は、美濃の守に任ぜられました。


【参考】岐阜県小中学校長会(1970):美濃と飛騨のむかし話、岐阜県校長会館
服部真六・増田春風(2000):岐阜県おもしろ地名考、岐阜県地名文化研究会
岐阜地理学会(1978):岐阜県地理地名事典、地人書房
岐阜歴史地理学研究会(1981):各駅停車全国歴史散歩岐阜県、河出書房新社

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もともっと詳しい「養老伝説」はこちら


         「十訓抄 中巻 巻六 第十八話。」
  男の名前は後代になって「孝子」とされるようになります。養老伝説の初見は、続日本紀・養老元年十一月十七日条の「養老改元の詔」とされていますが、ここでは、孝子の話がない形で記録されています。また、ここではお酒が湧いているわけではなく、醴泉-美泉であり、若返る効果、薬効のある水が湧いていたという記録となっています。

癸丑、天皇、軒に臨みて、詔して曰はく、
「朕今年九月以て、美濃国不破行宮に至る。留連すること数日なり。
因て当耆郡多度山の美泉を覧て、自ら手面を盥ひしに、皮膚滑らかなるが如し。
亦、痛き処を洗ひしに、除き癒えずということ無し。朕が躬に在りては、
甚だその験有りき。また、就きて飲み治る者、或は白髪黒に反り、
或は頽髪更に生ひ、或は闇き目明らかなるが如し、自餘の痼疾、咸く皆平癒せり。
昔聞かく、
「後漢の光武の時に、醴泉出でたり。これを飲みし者は、痼疾皆癒えたり」
ときく。符瑞書に曰く、
「醴泉は美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なり」
といふ。
寔に惟みるに、美泉は即大瑞に合へり。朕、庸虚なりと雖も、
何ぞ天のたまひものに違はむ。
天下に大赦して、霊亀三年を改めて、養老元年とすべし」とのたまふ。

霊亀三年(養老元年)九月二十日、美濃国に行幸していた元正天皇は当耆郡(たきぐん)におでかけになり多度山の美泉を御覧になった。 同年十一月十七日天皇は詔して次のようにおっしゃった。
私は今年の九月美濃国不破の行宮に至り、数日間逗留した。
そこで当耆郡多度山の美泉を見に行き、その水で手や顔を洗ったところ、皮膚が滑らかになるようであった。また痛いところを洗ったら、その痛みが取れて治ってしまった。私の体でさえこれほどの効き目があった。
また聞くところによると、この泉の水を飲んだり浴びたりする者の、あるものは禿げた頭に髪が生じ、またあるものは見えない目が見えるようになった。その他の長く治らない病気もすべて治ったという。
昔、後漢の光武帝の時に醴泉が湧き出して、これを飲んだ者は長く治らなかった病気がすべて治ったと聞いている。符瑞書にも「醴泉は美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なり。」とある。考えてみれば、美泉は大瑞にかなっている。私は平凡で才能がないが、どうして大瑞という天の賜物に背けようか。天下に大赦して、霊亀三年を養老元年とせよ、と。

この醴泉-美泉の最初の記録は、日本書紀・持統天皇七年十一月、八年三月の条にあり、そこでは、近江国益須郡で多くの病人を治した水が沸いたとしています。
同様の記録は風土記中に多く見られ、
出雲国風土記・楯縫郡佐香郡、
播磨国風土記・賀古郡酒屋村、
同揖保郡酒井野、
同揖保郡萩原里酒田、
同加毛郡下鴨里酒屋谷、
豊後国風土記・速見郡酒水条、
肥前国風土記・基肄郡酒殿泉条、
等が記録されています。

養老伝説が"酒"が湧くとなったのは、これらの美泉が、酒の醸造に使われ、実際、続日本紀・養老元年十一月十七日条の記事の後に、この水で酒を醸した、という記録が続日本紀・養老元年十二月条の記事として記録されています。

では、実際に酒が湧いた、と言う記録はないのか?と言うとあるんです。

これは「養老伝説」とは別に「酒泉伝説」とされ、播磨国風土記・印南郡含藝(かむき)の里、酒山の起源説話となっています。

又、酒山あり。大帶日子の天皇の御世、酒の泉湧き出でき。 故、酒山といふ。百姓飲めば、即ち酔ひて相戦ひ相亂(みだ)る。 故、埋め塞がしめき。後、庚午の年、人ありて掘り出だしき。 今に猶酒の気あり。

大帶日子(景行)天皇の御世に酒の泉が湧き出て、酒山と呼ばれた。人々がその酒を飲み、酔って相乱したため、埋め塞がせた。庚午の年(天智天皇九年=670年)にある人が掘り出した。今に至っても酒の気がある。

実際に"酒"が湧いた、という記録はこれだけですが、他の美泉も後代になると酒が湧いたという事になっていきます。

「養老伝説」ものち、孝子の要素が加わり、「養老の滝伝説」となります。
文献上の初出は、1252年成立の「十訓抄 中巻 巻六 第十八話。」に、また十訓抄から補入されたと思われる同様の話が「古今著聞集」に記録されています。

生命の水・若返りの水より、お酒が湧いた方がめでたいのかもしれません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こちらはダンブリ長者の「お酒」の部分です


二人は、雪解けの春を待って、川をさかのぼり、日暮れてたどり着いた平間田(ひらまだ)というところに住みつきました。ここでも田畑を作って、一生懸命働き、やがて三年目の夏になりましたが、暮らしはちっとも楽になりません。

  その日も、怠けず朝から汗みどろで野良作業。昼ごはんのあと、二人は疲れていつのまにか眠ってしまいましたが、不思議な夢を見ます。目ん玉がものすごくでっかく、尾っぽの長い大きなダンブリ(トンボ)が飛んで来て、長い尾っぽを振りながら二人の口に甘い香りの酒を注いでくれたのです。

目をさました二人は、口の中に酒の香りが残っているのを知り、また同じ夢を見たと驚きあいますが、そのとき尾っぽの長いダンブリがスイスイと夕焼け空を飛んできました。夢に出てきたのと同じダンブリです。二人が追いかけて行くと、ダンブリは大きな松が生えた岩かげに入って行きました。そこには、いい香りのする水が湧き出している泉があり、すくって飲んでみると、なんとその水は上等な酒だったのです。

  この酒は、味がいいだけでなく、病気も直るというので大評判になり、二人はこれを売って、たちまち大金持ちの長者になりました。二人にはまだ子どもがいなかったので、家の中に大きな大日如来さまをまつり、子どもが授かるようお願いし、やがてその願いが叶えられたのか、可愛い女の子が生まれます。女の子は大変きれいな娘に育ったので、その評判が都の帝(みかど)の耳にまで届き、召し出されて吉祥姫(きっしょうひめ)という名前をもらい、大層出世しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)

・滝ではないのですね。「香り高い水が湧き出ている泉」は共通です。
・時代も霊亀3年(713年)似た頃です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

030261■行基は秋田には来ていない?

大日堂のことを調べていけば行基が出てきます。(行基図でおなじみです


1、行基は秋田に来ていない

比内独鈷大日堂の神成忠正元宮司のお話に出てきます、三つの大日堂のご神体は行基作と伝えられているが、学校の先生が「いや行基は東北には来たが秋田には来ていない・・・」「いや将来東北の歴史が判明したときには日本の歴史の1ページが変わるぞ!」と言われたとあります。(宮司さんは、やっぱり来たのだと言っています)

これは、「坂上田村麻呂伝説」と同じことになりますね。

(はりつけ)
それから聖武天皇。
大仏を造る、ということも思いつきました。それも、巨大な大仏。これを造れば、きっと世の中は平和になるに違いない、こう考えたのです。しかし、度重なる旅行と都の造営に人々は疲れ切っていました。この上に大仏とは・・・。

そこで聖武天皇。ひらめきます。
「危険な宗教家としていてマークしていた、僧の行基。あのカリスマを利用すればいいじゃないか。」
さて、この行基とは何者か。実は、それまで朝廷からは危険人物としてマークされていた人物です。なにしろ、当時の仏教は国家の統制にあったにもかかわらず、積極的に民衆へ布教し、民衆のために用水施設を造ったり、交通施設を造ったりと社会福祉に貢献していたので、人々から人気があったんです。一歩間違えれば朝廷にとって脅威となります。 

しかし、この人気を利用し、大仏建立のために中心となって働いてもらい、庶民を動員してもらうことにしました。こうして、大仏建立の詔が出され、まずは聖武天皇が都を移していた紫香楽宮で大仏を造り始め、しかししばらくして平城京に戻ったため、ここで再び大仏を造りはじめ、完成したのが東大寺です。行基は完成直前に亡くなっていましたが・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

年代西暦年齢事項天智 7年6681この年、行基 河内の大鳥郡蜂田の里に誕生(現在の家原寺)。天武  元年6725壬申の乱おこる。   
2年 67363月、川原寺で一切経写経。   
11年68215行基出家する。
文武  2年69831薬師寺の建立ほぼ終わり、衆僧を住まわす。    
4年700333月10日道昭死す(72歳)、栗原にて火葬。 
大宝 元年701348月3日、大宝律令なる
慶雲 元年70437行基、生家を改め家原寺とする。   
3年70639行基、和泉国和泉郡に蜂田寺を建てる。   
4年70740行基、生駒の山房に移り住む。
和銅 元年70841行基、和泉国大鳥郡に神鳳寺を建てる。  
3年71043平城遷都。   
5年71245諸国の役民、都の造営に駆り立てられる。奔亡や、帰郷のとき飢える者多く、行基の布施屋設置はこのころからか?
霊亀 2年71649河内の大鳥・和泉・日根の3郡を和泉監(特別行政区)にする。行基、大和国平群郡に恩光寺を建てる。
養老 元年717504月23日、行基の民間伝道を僧尼令違反として禁圧する。   
2年71851元興寺建つ。僧徒の乞食を禁じる。薬師寺を平城に移建する。行基、大和国添下郡に隆福院を起工する。  
4年72053行基、河内国河内郡に石凝院を起工する。  
5年72154行基、寺史乙丸より屋敷を寄進され菅原寺を起工する。
養老 7年72356三世一身の法発布される。
神亀 元年72457聖武天皇即位。行基大鳥郡に清浄土院(高渚寺)と尼院を建立する。 
2年72558行基、河内国交野郡に久修園院を起工する。    3年72659行基、大鳥郡に檜尾池院を建立する。  
4年72760行基、大鳥郡に大野寺と尼院を起工する。
天平 2年73063行基、摂津国西成郡に善源院・尼院、兎原郡に船息院・尼院、嶋下郡に高瀬橋院・尼院を起工する。   
3年73164行基に従う61歳以上の優婆寒と55歳以上の優婆夷らに入道を許す。行基、摂津国河辺郡に楊津院・崑陽施院、河内国丹比郡に狭山池院・尼院、山城国紀伊郡に法禅院、葛野郡に河原院・大井院、乙訓郡に山崎院、大和国添下郡に隆福尼院を起工する。行基の狭山池修造はこのころか?   
5年73366行基、河内国茨田郡に救方院・薦田尼院を起工する。   
6年73467行基、和泉国和泉郡に隆池院、大鳥郡に深井尼院、山城国愛宕郡に吉田院、摂津国住吉郡に沙田院・呉坂院を建立する。  
9年73770行基、和泉国大鳥郡に鶴田池院、大和国添下郡に頭施院・尼院を起工する。 
10年73871このころ成立した大宝律令の注釈書に行基を精進錬行の大徳と記す。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
4、秋田県の行基に関連するもの

・温泉   湯沢市 鷹の湯温泉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


追記 2010・11・16
副島隆彦氏より


その前には、行基(ぎょうき)という男が聖武天皇(しょうむてんのう)のわきにいて、東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)、奈良の大仏さまをつくる事業をした。おそらく2000人ぐらいの部下を率いていて、各地で土木事業を行っている。こういう技術も中国から伝来してきたものだろう。大事なことは水銀を持っていたということだ。この水銀を持っていないと、鉱山から、金を銅から分離することができないということがあったからだ。そのような技術を持っていた人々だろう。それが経済、あるいは生産活動としての初期の仏教が持っていた奇跡、あるいは、霊能者の才能に近いものとして、認められていたのだと思う。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2009年12月2日水曜日

01227■大湯ストーンサークルの地質調査









東北縄文文化研究会では
大湯ストーンサークル周辺の地質について調べてもらいました。
2009/11のものです。










































































































































































・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)

・j版調査の渡辺広勝氏は、ストーンサークルの一帯は人工的につくられたものである。炭を混ぜて付きたてたものであるという。
・このことを確認するために調査を依頼したものであるが、結果はそのようなものではなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


2009年12月1日火曜日

01017■鹿角民話・佐多六とシロ









鹿角の民話の「佐多六とシロ」が気になりまして調べました。先日秋田さきがけ新報に掲載された草木小学校の学校新聞に「佐多六が撃った“イノシシ”」とありましたのが気になったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【佐多六とシロ】(美の国あきたネットより)
昔、草木(くさぎ:現在の鹿角市十和田草木)に佐多六(さたろく)と言う「マタギ」(猟師)がいて、彼は、日本中どこの土地でも猟ができる巻物(免状)を持っていた。これは、佐多六の先祖が源頼朝公の富士の巻狩りで手柄をたてたことから、南部の殿様からもらった巻物であり、全国での狩猟が子孫代々まで許される天下御免のマタギの免状であった。
佐多六は、“シロ”という名の、とても賢くて主人思いの秋田犬を猟犬として飼っていた。
ある年の2月、冬の日としては珍しく晴れた日のことであった。佐多六はシロを連れて猟に出かけた。四角岳(現在、秋田県と岩手県の県境の山)のふもとまで行ったときに、岩の上に大きなカモシカを発見した。佐多六がカモシカを狙って鉄砲の引き金を引くと、カモシカはその瞬間棒立ちになったが、雪のうえに点々と血を流しながら、すぐに逃げて行った。佐多六とシロは血の後をどこまでも追いかけていき、気がつくと、いつの間にか鹿角と青森県三戸の境の来満峠まで来てしまっていた。
佐多六は、カモシカの血の跡が峠の洞穴で消えていたため、鉄砲を洞穴に向けて一発撃った。そのとき、三戸の方から来た5人の猟師達が「そのカモシカは俺たちが先に撃ったのだ。俺たちのものだ。」と強く迫ってきて、「お前はどこの者だ。そこの境小屋が見えないのか。お前もマタギなら勝手に他の領内で猟はできないことは知っているだろう。」と佐多六を捕まえようと詰め寄ってきた。佐多六は、しまったと思い鉄砲を振り回して逃げようとし、シロも主人を助けようと5人に向かって吠えたが、相手は5人であったためかなうはずはなかった。
佐多六はとうとう捕まえられて、無理やり三戸城に引っ張られていった。シロは、その後をこっそりとついて行った。牢屋に入れられた佐多六は、あの天下御免の巻物を忘れて来たことを後悔し、他の領内で狩猟をした罪のため明日にも打ち首になるかもしれないと思い、ため息をついたり涙をこぼしたり悔しくて仕方がなかった。
牢屋のそばに忍び込んだ主人思いのシロは、やつれた主人を見ると、「ワン」と一声吠え、暗い雪の道を草木へ向かって一目散に走りだした。
そのころ、佐多六の妻は、佐多六が3日も帰って来ないため心配して神様に祈っていたところであった。 シロは、山や谷を走りに走り、草木にやっと到着すると、まるで火がついたように吠えた。村人は、雪だらけになって帰ってきて吠えるシロを見て、何があったのかをなだめて聞こうとしたが、吠えるばかりのシロの状況からは何があったのかは理解できなかった。シロは、村人に理解してもらえないためどうしたらいいかわからず、食う物も食わずにすごすごと主人のもとへと帰っていった。
シロは再び遠い山道を越え、佐多六の所へ戻った。佐多六は帰って来たシロを見たものの、待っていた巻物が届けられずがっかりした。しかし、力をふりしぼって、「シロ、ほら、あの巻物わかっているだろう。竹筒に入れている巻物だ。仏さんの引き出しに入れている巻物を持って来ておくれ。それがあればおらは助かるんだ。シロたのむ。」と言った。
牢屋の中で、涙をためて言う佐多六のことばを黙って聞いていたシロは、やっと主人の気持ちを理解したのか「ワン」と大きく一声吠え、また草木へ向かって雪の中を走って行った。
草木へ着いたシロは、前よりももっと吠えた。ありったけの力をふりしぼって、仏壇に向かって吠えた。佐多六の妻は、ハッと思い急いで引き出しを開けて見ると、佐多六が猟に出るときにいつも持ち歩いているはずの巻物がそこにはあった。妻は顔色がサッと変わり「これだ、この免状だ。」と言い、ふるえる手で巻物の竹筒をシロの首にしっかりと結ぶと、「シロ、頼む。届けてくれ。」とシロの背中をなでてシロを見送った。
シロは疲れも忘れ、牢屋にいる主人の佐多六のために、雪の来満街道を、再び三戸に向かって夜通し走り続けた。来満峠を越えたときには、三戸の空が白々と明けてきた。
その頃、佐多六はシロが巻物を持って帰ってくるのを一生懸命待っていた。しかし、とうとう時間に間に合わず、夜明の鐘が鳴るとき、佐多六の命はこの世から消えてしまった。シロが命懸けで牢屋に着いたときは、主人はこの世の人ではなくなっていたのだった。処刑場に横たわっていた佐多六を見て、シロはとても悲しみ、しばらく死んだ主人のそばについていた。
それから何日かして、シロは三戸城が見える大きい森の頂上に駆け登り、三戸城に向かって恨みの遠吠えを幾日も幾夜も続けた。この森は今でも「犬吠森(いぬぼえもり)」と言われている。 その後間もなく、三戸には地震や火事など、災難が続き、町の人々は佐多六のたたりだと恐れた。
やっとのことで草木に着いたシロは、途中食べる物もなく寒さと疲れのため、とてもやつれた姿であった。
佐多六の犯した罪のために、お上のとがめを受けた一家は村に住むことができなくなり、村から出ることになった。佐多六の妻とシロは、南部領の草木から秋田領の葛原(現在の大館市句葛原)というところに移り住み、村人に親切にされて暮らした。そして、葛原で暮らしたシロはいつからか、「老犬さま、老犬さま」と呼ばれるようになった。
あるとき、村人が馬に乗り、村はずれのあたりを通ったとき馬が驚き、どうしても歩けなくなってしまった。不思議なことだと思い、その周辺を探してみると、シロが死んでいた。あわれに思った村の人々はシロの亡きがらを村はずれの南部領の見える丘に埋めてやった。
その場所は、現在でも“老犬神社”として、村の人々に祭られている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)
・ここではカモシカとなっています。
・草木地区の案内板には「青猪」と書いてあります・・・小学生はこれからでしょうね。青猪は「青じし」と読むそうです。青じしとはカモシカのことです。
・もう一つの民話には「羚羊(れいよう)」と書いてありました。れいようとはWIKIではカモシカなどの総称とあります。
・これで納得しましたが、「イノシシ」であれば大変な問題が孕んでおりますから調べました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



2009年11月20日金曜日

01226■915年十和田湖噴火・・早川説への疑問



大湯ストーンサークルの正確な築造年代を隠したい学説です。(第三次の田村麻呂伝説)



十和田湖の噴火
十和田湖の南,発荷(ルビ:はっか)峠の地表をつくる厚さ2mの毛馬内(ルビ:けまない)火砕流堆積物が,十和田湖の噴火堆積物の最上位を占める.この堆積物は,谷底だけでなく尾根の上にも薄く広く分布している.毛馬内火砕流は猛スピードで四周に広がり,噴火口から20km以内のすべてを破壊しつくした(Hayakawa, 1985).
疾走中の毛馬内火砕流の上には火山灰を多量に含む熱いサーマル雲が立ち上がり,それはやがて上空の風で南へ押し流された(Fig. 1).十和田湖に南から突き出している二本の岬のうち,東側の御倉(ルビ:おぐら)山は噴火口に栓をした溶岩ドームである(大池,1976).この噴火のマグニチュードは5.7であり,過去2000年間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である(早川,1994).
秋田県の米代川流域では,洪水のあとしばしば平安時代の家屋・家具・土師(ルビ:はじ)器・須恵(ルビ:すえ)器などが出土してきた.菅江真澄(ルビ:すがえますみ)(1754-1829)は文化十四年(1817年)の洪水で出現した埋没家屋のスケッチをかいている.平田篤胤(ルビ:あつたね)(1776-1843)は『皇国度制考』の中で,出土した六角柱の暦(平山・市川,1966)の復元図を示している.十和田湖最後のこの噴火が平安時代に起こったことは以下に述べるように出土遺物から確かであるが,この噴火を記した古記録は,現地では,みつかっていない.平山・市川(1966)はこの地変をシラス洪水とよび,秋田県に伝わる八郎太郎伝説に結びつけた.
白鳥(1980)は,仙台市の陸奥国分寺跡において,古記録から870年と934年に対応することがわかる遺物層に挟まれてこの火山灰がみつかったと報告している.また秋田県鷹巣町の胡桃館(ルビ:くるみだて)遺跡では,902年に形成された年輪をもつ杉材(奈良国立文化財研究所,1990)がシラス洪水の堆積物中からみつかった. 
京都延暦寺の僧侶によって書かれた『扶桑略記』の延喜十五年条に次の記述がある.「七月五日甲子,卯時,日无暉,其貌似月,時人奇之.十三日,出羽國言上雨灰高二寸諸郷農桑枯損之由」
延喜十五年七月五日(915年8月18日)の朝日に輝きがなくまるで月のようだったので,京都の人々はこれを不思議に思った.七月十三日(915年8月26日)になって,「灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ」と出羽の国から報告があった,と書いている.なお,西暦表記には,早川・小山(1997)の勧告に沿って,ユリウス暦を用いた.
大森(1918)は,この噴火記録を「或ハ鳥海山ノ噴火ナランカ」と考えた.この解釈は長い間支持されてきたが(たとえば村山,1978),1981年になって,十和田湖から噴出したテフラの調査をした町田・他(1981)が,この古記録は鳥海山ではなく十和田湖の大噴火を記したものではないかと初めて指摘した.
鳥海山では,915年ころに大きな噴火があったことを示す地質学的証拠が知られていない(林,1995).そのときすでに大和朝廷の支配下にあった鳥海山神社の位階はこの噴火で上がっていないので,これは当時朝廷の支配下になかった北方の火山の噴火であると考えるほうがもっともらしい.
中緯度地方の降下火山灰は上空の偏西風に流されて噴火口の東に分布することが普通である.しかし十和田湖のこの火山灰は南に分布している.この分布異常は,上空の西風が弱まる夏期に噴火が起こったと考えると説明しやすい.三陸沖を台風が北上中だったなどというシナリオが考えられる.『扶桑略記』の記述が晩夏であるのは,それを十和田湖の噴火とみる考えと矛盾しない.町田・他(1981)の指摘は適切であるといえる.
京都は十和田湖から800kmはなれている.火山灰を運ぶ上空の風の速さは,ジェット気流で100km/時程度であり,北風の場合はもっと遅いから,京都から見た日の出の陽光に異常をもたらすためには,その前日(915年8月17日)に噴火のクライマックスが起こっていなければならないだろう.
Stuiver and Pearson (1993)によると,915年に対応する放射性炭素年代は1140 yBPである.毛馬内火砕流堆積物中の炭化木から,1280±90yBP(GaK-548;平山・市川,1966),1470±100 yBP (GaK-10045;Hayakawa, 1985),1090±100 yBP (GaK-10046;Hayakawa, 1985) が報告されている.
なお,『扶桑略記』に「(延喜十九年)七月五日庚午(919 年 8 月 3 日),酉刻,日色赤黒,其光不明,又昨今之月色不似月之光」という日色・月色異常事件が書かれているが,十和田火山の噴火と関係があるかもしれない.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

915年(延喜15年)、十和田火山は大噴火を起こした。このとき毛馬内火砕流が周囲20kmを焼払った。この噴火は過去2000年間、日本国内で起きた最大規模の噴火であったと見られる[4]。この噴火の火山灰は東北地方一帯を広く覆い、甚大な被害をもたらしたと推定される。十和田火山の噴出物は通常偏西風に乗り十和田湖の東側に流れるが、この年の噴火では十和田湖の西側に流れている。これは夏のこの地方の気象現象であるやませが原因であると考えられている。東の三本木原は昔の十和田火山の噴出物でできているが、やませのため西に流れた噴出物は米代川流域を覆い尽くし、大災害をもたらした。そのことを人々は三湖伝説として残したと考えられている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)

・昨日、ヒューマンクラブの会合で」秋田県における地質学の大御所・狩野豊太郎氏とお会いし、お話を聞く機会がありました。
質問「この噴火についてご存じですか、秋田県内に資料がないことはありえますか?」
答え「これほどの大噴火があったことは知らない訳は無い」
   「地元鹿角市にも秋田県にも噴火の記録がないことはありえない!」

・地元が経験した記録も、言い伝えもない日本史最大の噴火がありうるでしょうか。

・都会での「モノガタリ」みたいですね・・・昔の東北史の抹殺「田村麻呂伝説」と同じ手法です。
 「第三次の田村麻呂伝説」と名づけたいですね。第一次は純粋な田村麻呂伝説時代、第二次は「歌枕の時代」です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


2013・8・24追加です

「やませ」と同じ冷たい空気が動く様子です。



桜島の噴火情報も合わせて

8月18日、鹿児島市の桜島で大規模な噴火が発生し、噴煙が5000mの高さにまで到達。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2012意識のルネッサンスを経て
既存のすべての壁が壊れています。すべての事の真実がわかってきます。






01225■秋田県の地震活動記録



番号 発生年月日  M   被   害

1  830年2月3日7.0~7.5
天長地震秋田城内家屋倒れる、圧死15、支体折損100余名、地割れ多し
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*天長七年正月癸卯28日 
秋田で大地震、城を始め大きな被害。秋田川(雄物川)も地割れがおきた。(雄物川)も氾濫し田夷の村添川覇別付近も堤防が崩れ、被害に遭う。農民は、山崗(岡)に逃れた。
朝廷は、軍を派遣し救援した。その後878年(元慶二年)俘囚の乱が起こり、その際俘囚添川・覇別村・助川村は、国府側につく。三代実録同年七月の条

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2  850年7 出羽の国府の城柵傾類し、圧死者多数

3  1644年10月18日6.5
久保田大地震 本荘城郭大破、死者あり、石沢村に被害、院内で地裂け、水湧く

4 1694年6月19日7
富根、駒形、桧山等能代以南地方を中心として死者
394、倒潰・焼失家屋2,132、能代のみにて死者300あり

5  1704年5月27日7
能代を中心として以北の地方に大地震、能代のみに
て死者58、焼失家屋759、潰家435

6  1804年7月10日7
象潟地震 象潟湖隆起由利郡内のみにて死者183、潰
家2,000象潟のみにて潰家423、死者65

7 1810年9月25日6.5
男鹿大地震 南秋田郡で死者59、潰家1,078、山本郡で
潰家51

8  1894年10月22日7 庄内地震 秋田県では本荘以南に被害

9  1896年8月31日7.2
陸羽地震 県内にて死者205、傷者736、潰住家4,738、
仙北郡のみにて死者184、傷者603、全潰住家3,295

10  1906年10月12日5.6 阿仁合村で小被害

11  1914年3月15日7.1
強首地震 強首村を中心に、死者94名、傷者324名、住
家の全壊640戸

12  1914年3月28日6.1
強首地震の余震金沢西根村、藤木村で小被害

13 1939年5月1日6.8
男鹿地震男鹿半島を中心に、死者28名、負傷者127
名、住家の全壊565棟、半壊1,089棟、焼失9棟

14  955年10月19日5.9
二ツ井地震 二ツ井町、響村を中心に負傷者4名、住
家の半壊3棟、非住家の全壊1棟、半壊310棟などの被

15  1957年3月1日4.3 二ツ井付近で軽微な被害

16  1970年10月16日6.2
東成瀬村や山内村を中心に、傷者4名、住家の全壊
19棟、半壊48棟、一部破壊216棟、沈下3棟などの被

17 1996年8月11日6.1
雄勝町で住家の一部破損9棟、農地及び農業用施設
3箇所、国道の法面崩落・路肩陥没29箇所などの被害

18  1999年2月26日5.3
秋田県南部沿岸沖を震源象潟町で住家の一部破損
126棟などの被害

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)

・地震だけです。

・三代実録に878年の天長地震は載っています。開聞岳の噴火も載っています。
915年の大噴火が記録にないことがありますか??

・秋田市のわが「こざくらの丘」には天長の地震が大きな出来事でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

03026■古代蝦夷関係年表












大湯ストーンサークルの正確な築造年代を隠したい学説を助けるものです。(第三次の田村麻呂伝説)

工藤雅樹氏の古代蝦夷関係年表がありました。
・830年の「天長の大地震」・・・雄物川が一夜にして新国道側から西に移動した
・915年の十和田湖の噴火



古代蝦夷関係年表                                             
工藤雅樹氏 作成  ~BC4世紀  
 
縄文時代。 BC3世紀~   津軽平野まで水田稲作がひろがる(田舎館村垂柳遺跡)
4世紀       会津大塚山古墳、郡山市大安場古噴、名取市雷神山古墳など。 
4世紀       東北北部に続縄文文化(後半段階)ひろがる。能代市寒川Ⅱ遺跡など          
東北北部の大部分は稲作が中断する。

5世紀       胆沢町角塚古墳、水沢市中半入遺跡など。
478          倭王武(雄略天皇)、南朝宋に使いをおくる。 
6世紀~7世紀中頃 国造制の時代(各地の有力豪族を地方長官に任命)、
      国造のクニの北限は阿武隈川と信濃川・阿賀野川の河口。 
7世紀       この頃から北海道で擦文文化の時代がはじまる。 

            
東北北部では稲作が復活しはじめる。 

7世紀後半   この頃から東北地方北部と北海道の一部に終末期古墳が出現する
645(大化1)   大化の改新はじまる。東国国司が派遺される。 
647(大化3)   渟足柵(新潟市)を置く。翌年には磐舟柵(新潟県村上市)を置く。
650年頃      評(コホリ)・国が設定され、陸奥国(はじめは道奥国といった)が置かれる。
 
658・59・60(斉明天皇4・5・6) 阿倍比羅夫の遠征。 

659(斉明天皇5) 遣唐使、蝦夷を中国に帯同し、洛陽で高宗に謁見。
701(大宝1)   大宝律令施行。 
708(和銅1)   越後国に新たに出羽郡を建てる。
709(和銅2)   陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍任命される。 
712(和銅5)   越後国出羽郡と陸奥国置賜・最上郡をもって出羽国を置く。
713(和銅6)   陸奥国に丹取郡[宮城県北部の大崎平野]を建てる。 
715(霊亀1)   陸奥の蝦夷邑良志別君[オラシベノキミ]宇蘇弥奈[ウソミナ]と              
須賀君[スガノキミ]古麻比留[コマヒル]の請により、香河村             
[不明]と閇村[へイムラ、宮古市附近]に郡家を建てる。

718(養老2)   陸奥国の南部の石城・標葉・行方・宇太・日理、常陸国菊多の六郡を
もって石城国を、白河・石背・会津・安積・信夫の五郡をもって              
石背国を置く。[両国は724(神亀1〕年ころまでに廃止] 
720(養老4)   暇夷反乱し、按察使[アゼチ] 上毛野広人を殺す。 
721(養老5)   出羽国を陸奥按察使の管轄下に置く。 724(神亀1)   
海道の蝦夷が反乱し、大掾佐伯児屋麻呂を殺す。多賀城が置かれる。

733(天平5)   出羽柵を秋田村高清水岡に遷す〔秋田村は秋田市附近] 

737(天平9)   大野東人、雄勝村[秋田県南部、後の雄勝郡、平鹿郡、
山本郡の地域] に城柵を置くために大軍を動員するが、雄勝村の
住民の反対により断念する。
 
749(天平21) 陸奥国、金を出す。 757(天平宝字1) 陸奥国眺生、出羽国小勝に
柵戸[キノヘ]を配し、桃生城・雄勝城の造営が始まる(759年中に完成)。藤原恵美朝臣朝 陸奥守となる。
762(天平宝字6) 多賀城の大改修が行なわれる。 767(神護景雲1) 
伊治城〔宮城県粟原郡築館町]作り終る。 
770(宝亀1)   蝦夷、宇漢迷公[ウガメノキミ]宇屈波宇[ウクハウ]ら、徒族を率いて            
賊地に逃げ還り、使をおくって呼び寄せても帰らず、同族を率いて必 ず城柵を侵すと言う。 
774(宝亀5)   海道の蝦夷が桃生城[宮城県桃生郡河北町飯野]を侵す。按察使の大伴     
駿河麻呂ら陸奥国の遠山村[宮城県登米郡]を撃つ。
776(宝亀7)   出羽国志波村[岩手県紫波郡地方]の賊と官軍とが戦い、官軍不利。          
陸奥国の軍3000人を発して胆沢[岩手県水沢市附近]の賦を伐つ。 
778(宝臼9)   睦奥。出羽国司以下、征峨に功ある呑2267人に叙爵。伊治公皆麻呂
外従五位下を与えられる。 780(宝竈11) 伊治公皆麻呂の乱。
781(天応1)   賊の首として、伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代の名が見える。
788(延歴7)   征東大使に紀古佐美を任命する。 789(延歴8)  
政府軍河を渡り阿弖流為[アテルイ]の率いる軍と戦い大敗。援軍5万余。

791(延歴10) 征夷大使に大伴弟麻呂を副使に坂上田村麻呂らを任命する

792(延歴11) 斯波[シワ]村の蝦夷の胆沢公阿奴志己ら、伊治村の俘にさえぎられて、   
王化に帰することができないので、伊治村の俘と戦って永く降路を開き           
たいと申し入れる。 794(延歴13) 征夷将軍大伴弟麻呂、斬首457級、捕虜150人、
獲馬85疋、焼落75処と             
奏す。征軍10万。 

797(延歴16) 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
801(延歴20) 坂上田村麻呂、蝦夷と戦う。征軍4万。 

802(延歴21) 坂上田村麻呂を遣して胆沢城を造り、多賀城から、鎮守府を遷す。   
     大墓公阿弖流為、磐具公母禮ら、種類500余人を率いて降る。
803(延歴22) 坂上田村麻呂、志波城を造る。
805(延歴24) 藤原緒嗣、菅野真道、天下の徳政を論じ、征夷と造都を中止。
810(弘仁1)  文室綿麻呂を按察使に任命。 
811(弘仁2)  和賀、稗貫、志波の三郡を置く。        
文室綿麻呂を征夷将軍に任命。         
出羽国、邑良志閇[オラシベ]村の降俘、吉弥侯部都留岐[キミコベノ              
ツルキ]の申請により、爾薩体村・都母[ツモ]村・幣伊村の夷を攻撃させる。

830(天長7)  大地震があり、秋田城に大きな被害。

850{嘉祥3)  出羽国で大地震。 
855(斉衡2)  陸奥国の奥地の俘囚が互いに殺傷し
あったため、非常に備えるために援助の兵2000人を発し、さらに近くの城の兵1000人を選んで危急に備える。 
869(貞観11) 陸奥国で大地震があり、多賀城に大きな被害。
875{貞観17) 渡嶋の荒狄が叛し、水軍80艘で秋田、飽海両郡の民21人を殺す。
878{元慶2)  元慶の乱はじまる。藤原保則を出羽権守に任命。
893(寛平5)  出羽国の渡嶋の狄と奥地の俘囚等が戦闘をしようとした。

915(延喜15) 出羽国に灰が降る(十和田湖の噴火)。

939(天慶2)  出羽国の俘囚が反乱し、秋田城の軍と合戦。 10世紀後半  
この頃、東北北部と北海道の一部に防御性集落が出現。。

1051(永承3) 前九年の合戦はじまる。
~1062(康平5) l067(治暦3)~1071(延久3) この頃、陸奥守、源頼俊、
閉伊七村の山徒と衣曾別嶋             
の荒夷を討つ。 

1083(永保3) 後三年の合戦はじまる

~1087(寛治1) 1094(嘉保1)~1104(康和6) この間に、藤原清衡平泉に居館を置く。
1189(文治5) 文治五年奥州合戦、平泉藤原氏滅ぶ。 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2009年11月18日水曜日

01224■一ノ目潟年縞解析による噴火の疑問



秋田県立博物館の「年縞」展示と、その解説の中での十和田火山に」関する疑問点です。

1、年縞展示です



青札の上が白頭山の噴火の火山灰(938)
下が十和田a噴火の火山灰(915)


















左が白頭山火山灰
右が十和田a火山灰

これは別途資料










3、御がで確認された広域火山灰




赤の囲いが十和田a火山灰(915年)といわれるもの。





黒の囲いが十和田八戸火山灰(1万5千年前)














4、火山灰・降灰分布図




十和田a火山灰の範囲は西側にはほとんど来ていませんが、どうして男鹿に火山灰の跡が残っているのでしょうか。











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
疑問点のまとめ

①白頭山火山灰の特定の根拠が、文献に残っている915年の十和田a火山灰としていました。
十和田a火山灰が文献で確認(  )できるというのは非常に疑わしい。

②上記図のとおり十和田a火山灰は男鹿半島には飛来していないのではないでしょうか。
(この関係をご説明いただきたいのですが・・・)
③十和田八戸火山灰が1万5千年前と今までの学説とピタリと一致しています・・・どうしてこんなに正確なのでしょうか。

④十和田八戸火山灰が飛来したのであれば、まだ解析していないようですが、その中間の9,500年前や、6,300年前の噴火の様子も解明できないのでしょうか。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2009年11月17日火曜日

01223■秋田県立博物館で年縞展示



秋田県立博物館で一の目潟からの「年縞」が展示されています。
年縞は超古代からの歴史の年代が明瞭に分かる可能性があるすごいものです。

1、これが年縞


手前が現在

一年ごとのいろいろな出来事がわかるのだそうです。













なんと十和田湖の噴火も分かるのだそうです
青の下が十和田湖a915年の噴火。



































































































・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2009年11月16日月曜日

01222■Towada Histryの十和田噴火記録(早川)



十和田噴火の最も分かりやすく、国・県の公式記録にも採用されている論文はこれです。

Towada Histryさんからです(早川1985)



十和田湖の成り立ちと平安時代に起こった大噴火

十和田湖の成り立ち
十和田湖は火山である.火山というと,富士山や浅間山のような円錐形に盛り上がった山を連想するかもしれないが,周囲より窪んだ地形をなす火山もある.そのひとつが火砕流の噴出にともなって生じる陥没カルデラであり,十和田湖はその好例である.北海道の屈斜路湖・支笏湖・洞爺湖,九州の阿蘇も陥没カルデラである.陥没カルデラのまわりには,大量の火砕流堆積物がかならず分布している.
十和田湖のまわりには,奥瀬火砕流(Q, 4万3000年前),大不動火砕流(N, 3万0000年前),そして八戸火砕流(L, 1万5000年前)の堆積物が分布している.白いシラスの崖で縁取られた火砕流台地は,青森県十和田市や秋田県鹿角市などでみることができる.

火砕流は,時速100km以上のスピードでジェットコースターのように山野を疾走した.とくに大不動噴火と八戸噴火では,十和田湖から50kmまでの地表が隈なく焦土と化した.
奥瀬噴火によって十和田湖の地下から噴出したマグマの量は100億トンだった.大不動噴火と八戸噴火では,それよりさらに多い500億トンずつが噴出した.これだけ大量のマグマが噴出したにもかかわらず,それに要した時間はわずか数時間だった.
状況証拠からいって,大規模火砕流の噴出と陥没カルデラの形成との間には密接な関係があることが確かだが,両者の具体的な因果関係は,本当のところ,まだよくわかっていない.大量のマグマが抜き取られて生じた地下の「空洞」にマグマだまりの天井が落ち込む(陥没)という伝統的な考えのほかに,激しい爆発によって地表ふきんの岩石が吹き飛ばされることが重要だという意見もある.また最近では,カルデラの陥没がマグマだまりの圧力を解放してマグマをいっせいに発泡させたために大規模火砕流が噴出したとみる逆転の発想も提出されている.
カルデラができる前の十和田湖全体を,富士山のような大円錐火山がおおっていた証拠はない.カルデラの北壁と西壁には第三紀のグリーンタフが露出しているから,カルデラ形成前のそこは非火山性のごくふつうの山地だった.
湖の南岸と東岸には,50万年前ころに北隣の八甲田山から流れてきた石ヶ戸(いしげど)火砕流の堆積物が露出している.これがつくる火砕流台地が,カルデラ形成前の南東半分には展開していた.
石ヶ戸火砕流の堆積物は溶結して堅い.崩れやすいシラスからなっている十和田湖の火砕流堆積物とみかけが大きく異なる.溶結とは,高温状態の火砕堆積物が自重でつぶれて密度を増すことをいう.奥入瀬渓谷の両岸に露出する石ヶ戸火砕流堆積物は整然とした柱状節理をもち,溶岩とみまちがえるほど強く溶結している.銚子大滝をはじめとする多数の滝はこの石ヶ戸火砕流堆積物にかかっている.
発荷(はっか)峠と青ぶな山にだけ,石ヶ戸火砕流堆積物の上に生じた火山の残骸が認められる.この二箇所には,十和田湖の東方にそびえる十和田山や十和利山に似た中型の円錐火山(発荷火山と青ぶな火山)がカルデラ形成前にあった.
八戸噴火のあとまもなくカルデラ内の南寄りで噴火が再開した.そのとき地表に現れたマグマは,SiO2含有量が18%も低下した玄武岩だった.
玄武岩マグマの噴火は,短い休止を挟みながら1000年ほど続き,小型の円錐火山である五色岩(ごしきいわ)火山をつくった.休屋(やすみや)から湖上遊覧船にのると,まず恵比須島・甲島・鎧島を訪れる.それらは不規則に曲がった柱状節理をもつ溶岩からなる島である.これは水冷によってつくられた構造だから,五色岩火山の形成末期の十和田湖の水面の高さが現在(海抜400m)よりやや高かったことがわかる.
1万3000年前ころから,噴出するマグマのSiO2が増えはじめ,安山岩をへてデイサイトに戻った.これに呼応して噴火の間隔が間遠になった.噴火様式は爆発的になり,高い噴煙柱をつくって軽石や火山灰を広範囲にまき散らすようになった.五色岩火山体の成長は止まり,逆に噴火のたびに中心火口が浸食されて拡大するようになった.
 瞰湖台(かんこだい)に露出する厚さ40mの粗粒軽石層は9500年前の南部噴火の堆積物である.基底近くの一部の層準は溶結し,つぶれた軽石塊は黒曜石に変化している.この南部軽石は,厚さ10cmの細粒軽石層として三陸海岸の種市町でもみつかる.
瞰湖台の眼下にある烏帽子岩は,堅い岩石が中心火道の浸食に堪えて烏帽子のような形状で残ったものである.これは,五色岩火山の地下でマグマが中心火道から側方に移動した通路(ダイク)である.五色岩火山の放射ダイクは,このほかに日暮崎・自篭(じごもり)岩がある.
6300年前の中掫(ちゅうせり)噴火では,70億トンのマグマが噴出した.この噴火末期に,五色岩火山の中心火口の壁が取り払われて外湖とつながる事件が起こった.爆発によって北側火口壁の一部が切断された瞬間,湖水が一気に火口内に流れ込んだ.こうして中湖(なかのうみ)が生じた.
流れ込んだ湖水はマグマとダイナミックに接触して,激しい水蒸気マグマ爆発が起こった.宇樽部の旧小中学校跡地にみられる成層したシルト層は,このとき発生した横なぐりの爆風(サージ)の堆積物である.火口内に勢いよく流れ込んだ湖水が刻んだ谷は,いまも湖底に残っている.
湖面にわずか頭を出す御門石(ごもんいし)は,カルデラ形成後に生じた溶岩ドームである.同時に噴出した火山灰がまだ知られていないので,この噴火がいつ起こったかわからない.
平安時代に起こった大噴火
京都延暦寺の僧侶によって平安時代に書かれた『扶桑略記』(ふそうりゃっき)の延喜十五年(915年)七月の条に,「915年8月18日の朝日には輝きがなく,まるで月のようだった.人々はこれを不思議に思った.8月26日になって,灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ,と出羽の国から報告があった.」(日付はユリウス暦に直した)という記述がある.これは十和田湖のもっとも新しい噴火を記録したものと考えられる.
十和田湖の噴火堆積物のうち,最上位にあるのは発荷(はっか)峠の地表をつくる厚さ2mの毛馬内(けまない)火砕流堆積物である.この堆積物は,谷底だけでなく尾根の上にも薄く広く分布している.毛馬内火砕流は猛スピードで四周に広がり,五色岩火山の上に開いた噴火口から測って20km以内のすべてを破壊しつくした.
疾走中の毛馬内火砕流の上には火山灰を多量に含む熱い入道雲(サーマル)が立ち上がり,それはやがて上空の風で南へ押し流され,仙台市の上空まで達した.
仙台市の陸奥国分寺では,古記録で870年と934年に対応する遺物に挟まれて,この入道雲から降下した火山灰がみつかった.また秋田県鷹巣町の胡桃(くるみ)館遺跡では,902年の年輪をもつ杉材がこの火山灰におおわれている.
中緯度地方の降下火山灰は上空の偏西風に流されて噴火口の東に分布することが普通であるが,この火山灰が南に分布している異常は,上空の西風が弱まる夏期に噴火が起こったとすると説明しやすい.『扶桑略記』の噴火記述が晩夏であるのは,それを十和田湖の噴火であるとみる考えと矛盾しない.
京都は十和田湖から800km離れている.火山灰を運ぶ上空の風の速さは,ジェット気流(西風)で時速100km程度,北風の場合はもっと遅いから,京都から見える水平線の位置で朝日の見え方に影響を与えるためには,噴火はその前日に起こっていなければならない.したがって,毛馬内火砕流の噴火は915年8月17日に起こったと考えられる.
この噴火では50億トンのマグマが噴出した.浅間山の1783年噴火(7億トン),雲仙岳の1991年噴火(4億トン)より桁違いに大きい.十和田湖のこの噴火は,過去2000年間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である.

噴火の最終段階で火道を上昇してきたマグマは,五色岩火山の中腹に開いた火口から少し盛り上がったのち,斜面を北と東へ流れ下って御倉(おぐら)山を形成した.中湖に面した千丈幕の崖には,斜面をわずかに流れた厚い溶岩流の特徴である垂直方向の規則正しい柱状節理がみられる.
米代川流域でしばしば出土する平安時代の家屋や器は,この噴火後まもなく発生した大洪水によって埋められたものである.地形的に不安定な毛馬内火砕流堆積物がこの大洪水発生の誘因となった.菅江真澄(1754-1829)は,文化十四年(1817年)の豪雨のあとに出現した埋没家屋のスケッチをなまなましく描いている.
十和田湖の最近の噴火が平安時代に起こったことは出土遺物の種類と年代からみて確かであるが,噴火を記した古記録は,現地では,みつかっていない.このため,毛馬内火砕流以外の事件(たとえば噴火の開始,御倉山溶岩流の形成と噴火の終了,米代川大洪水の発生)の日時の特定はまだできていない.
日本の自然 地域編 2「東北」205p,岩波書店,58-60ページ,1997


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)
・平安時代までは他の文献とも整合がとれ、年代もよく分かりすばらしい。
・しかし、平安時代の噴火については疑問がいっぱいですね。
・いっぱい根拠を探していますが、むりやりの作為が感じられます(われわれも過去にはよくやった手法です)。
・50万t ものマグマが噴出した、過去2000年の間で起こった最大規模(雲仙岳の約13倍)の噴火が起こったのに、地元にはなんらの記録が残っていないことがありうるはずがない。
(鹿角市の記録になし、秋田県もなし)
・平安の噴火は東北の歴史封印のための「現代の田村麻呂伝説」としか考えられませんね。学者先生方も真実を語れなくれ、お悩みのことでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

01221■鹿角市の噴火記録


5 火 山

(1) 概況
鹿角市の活火山は、十和田御倉山、秋田焼山及び八幡平であり、八幡平は奥羽山脈の北部、
秋田・岩手県境に位置し、那須火山帯に属する玄武岩の成層火山である。
最高峰(1,613m)を中心に頂部は高原状をほどこしており、付近には八幡沼、鏡沼
など多くの火山湖があり、八幡沼周辺は湿原となっている。
また、山腹には噴気地熱地帯、噴湯、湯沼、泥火山や温泉などが多数分布している。

(2) 過去の噴火活動

噴火記録はないが、昭和48年10月中旬から下旬ごろに有感地震が群発している。

(3) 火山観測

三菱金属鉱業株式会社では、大沼付近に地震計を置き、地熱発電所にテレメータして観測
している。
このほかに、気象庁、仙台管区気象台、地質調査所、秋田大学の臨時観測が実施されてい
る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




概要

二重のカルデラと後カルデラ溶岩円頂丘とからなる。約55000年前に、現在の十和田カルデラの位置から爆発的なプリーニー式の噴火が起こり、大規模なデイサイト質の降下軽石及び奥瀬火砕流の噴出があった。約25,000年前には流紋岩質の降下軽石の大不動火砕流が流出、13,000年前には大量の火砕流
(八戸火砕流)を流出して、直径11kmの第1カルデラが形成された。その直後からカルデラ内南部に小型の安山岩火山(五色岩火山)が生じ、5,000年前頃まで、数回の軽石噴火を行い、山頂部に直径3kmの第2カルデラを生じた(現在2つの半島に囲まれている中湖(なかのうみ))(高橋:1999)。
第2カルデラ形成後には、溶岩ドーム(御倉山(おぐらやま))と湖上の御門石(ごもんのいし))が生じているが、このうち御倉山溶岩ドームは約1,000年前の軽石噴火に引き続いて形成された。



最近1万年間の活動

13000年前の大規模噴火によって、十和田カルデラの大部分が形成された。カルデラ形成後、約2000年間にわたって安山岩質マグマの活動が続き、五色岩成層火山が形成された。その後、約1万年前からは珪長質マグマが活動し、約8500年前と5400年前に大規模な降下軽石が噴出した(南部降下軽石、中せり降下軽石)。最新の活動は、約1000年前の平安時代に発生し(古文書によると915年)、プリニー式噴火による降下軽石噴出後に、大規模な火砕流(毛馬内(けまない)火砕流)が流出した(Hayakawa:1985)



記録に残る火山活動

915(延喜15)年  軽石噴火(大湯降下火砕物層と毛馬内火砕流)に続き、御倉山溶岩ドームの生成。




  ※「概要」及び「最近1万年の活動」については日本活火山総覧(第3版)(気象庁編、2005)、「記録に残る火山活動」については前述の活火山総覧及び最近の観測成果による。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)
・地元鹿角市の公式記録には「扶桑略記」を根拠とした平安時代(915)の噴火は見られません。

・秋田県=国(気象庁)=早川1985=Towada Historyである・・・これが日本国の考え方。

・国まで「扶桑略記」程度の資料で「記録に残る火山活動」となっているのは、何か意図を感じます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2009年11月15日日曜日

01220■縄文前期の環状列石の事例


9月8日(金) 上原(わっぱら)遺跡の環状石籬~信州の旅(1)
大町での目的地は上原遺跡。立山・黒部アルペンルートの長野側の入り口である扇沢行きのバスに乗り、途中の大町温泉郷で降りる(片道510円)。実は次のバス停の方が近かったのだが、バス通りを西に向かって歩いていくと南へ張りだしている尾根が見える。めざす上原遺跡はその尾根の斜面に位置する。

上原(わっぱら)遺跡は1942年に地元の人によって発見され、1951・52年に大場磐雄先生を中心に調査が行われた。その結果、前期の集石と立石群、小竪穴などが見つかり、立石群は大場先生によって2基の環状石籬として想定復元された。ちょうど文化財保護委員会による大湯環状列石の調査などが行われた時期であり、戦後の配石遺構研究の出発点の1つである。1960年に県史跡に指定された。ただ、当時知られていた分布圏からは外れており、しかも前期ということで阿久遺跡発見までは配石遺構の中ではかなり特異な存在だったという。

そんなことを思い出しながら歩いていくと田園の中に柵で囲まれた一角が2箇所見えてきた。1つは環状石籬で、もう1つは小竪穴である。小竪穴の方は、かろうじて凹みが残っている程度であったが、環状石籬の方はしっかりと立っていた。径3m~1.5mくらいの小さなサークルであった。
遺跡の景観についていろいろ指摘されるようになってきていることから、私もこの場所から周囲を見回したり、少し離れたところから遺跡を望んだりした。しかしこの日は曇り空。北アルプスの山々はほとんど見えない。近くで農作業をしていた方に山の名を聞いたが、晴れた日は比べものにならないほど山が美しいということだった。なんとも残念だが、こればかりは仕方あるまい。
この遺構が中期以降のいわゆる環状列石と関係があるのかどうか。前期の資料はまだまだ少ないし、未調査のまま遺跡周辺の開拓が行われてしまったこともある、それに本当に環状だったかどうかも不明であるので、なかなか難しい問題のようである。実際に見れば何か得るところがあるだろうと思って来てみたが、遺跡の環境は別として環状石籬そのものについては謎はあまり解けなかった。

さて、この遺跡から出土した資料が大町山岳博物館に保管・展示されているというので駅へ戻り、そこから25分くらい歩いて博物館へ行ってみた。ところが、「近世以前の山と人」を考える資料として僅かな土器・石器・石製品・環状石籬のパネルが展示してあるだけであった。たまたま博物館へきていた教育委員会の方によると、資料は国学院大学にあるのではないかということだったので、休みが明けたら調べてみたい。ただ、この博物館は「山と人の関わり」をテーマとし、・御嶽教などの信仰関係の資料や、明治以後のレジャーとしての登山のあゆみ、その道具類、そして日本アルプスに棲むさまざまな生き物について紹介されておりなかなか面白い。

上原遺跡は今なお配石研究上特異な存在であるといえそうである。石を使った祭祀の系譜をたどるにはこの遺跡は重要な鍵を握る。周辺の遺跡が残っているかどうかは分からないが、大町市内からは中期の環状配石も出土しているので、この地域からの新資料の出現を期待したい。
市立大町山岳博物館(私の行った日のアルプスの写真が出ています)

03025■日本年年表 日本考古学











大湯環状列石がいつ作られたか、縄文後期(4,000)と言われているが、6,500年前にはこんな事例はないのか。ありました
①7,500年前・・・函館航空遺跡:ストーンサークル
②6,500年前・・・上原遺跡:環状列石
大湯ストーンサークルより古い??
③6,000年前・・・大館市池内遺跡
④5,000年前・・・三内丸山遺跡


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・