2011年11月15日火曜日

■なぜ南部は馬産地か


一戸二戸・・・みな馬の産地、なぜ南部は馬の産地なのか?



1、日本の馬はどこから来たか
【引用】
http://www.jtng.com/thrc/p70nanbu/p70-08.html


史以前の日本には「原種」と言えるような馬はいなかったと言われていますその根拠は、3世紀に中国で書かれた『魏志倭人伝』によります。すなわち
「この国に牛馬、虎豹、羊鵲なし」


という一節です。これは魏(いわば当時の中国政府)から派遣された文官による日本視察レポートで、「牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギといった中国ではポピュラーな動物が、日本には棲息していない」という報告をしています。では和種馬はどこから来たのでしょう?

いくつかの説がありますが、ここでは江上波夫氏の学説を紹介します。氏は戦後『騎馬民族による日本統一』説を唱えました。それを土台に、4世紀の初めに朝鮮半島を経由して日本に上陸したツングース民族がもたらした馬が始祖であろうと言われています。いわゆるモンゴル馬です

っとも『魏志倭人伝』そのものが邪馬台国論争のタネになっているように、その記述にはあやふやな点が多々あります。また、そこに記述された倭(日本)は、近畿以南の地域を指しています。ですから東北や北海道には、西日本とは違う系統の馬がいたということも考えられます。
いずれにせよ、和種馬はどれも体型や体高が似ていて、モンゴル馬ともきわめて近い外形をしています。伝播と時代の違いはあったにしても、元をただせば同じアジア産であることは間違いないでしょう。

は南部馬の祖先はどこまで辿ることができるのでしょう。
枕歌に有名な「末の松山」は現在の岩手県二戸市にあって、そこでは先住民の遺跡が見つかっています。その中には、魚の骨や貝殻に混じって馬蹄の化石や、食料にしたと思われる馬の骨も出土しています。
わが国で馬が家畜として扱われるようになったのは5~6世紀と考えられます。二戸の古墳は、東北地方の山野には南部馬の祖先ともいうべき馬が、狩りの獲物として古代から存在していたことを物語っています。

具の出土品は8世紀から見られます。その時代に作られたと考えられる鹿島沢古墳群(主理研八戸市)で、金銅製の杏葉(馬の装身具)や馬具の一部と思われる金具などが見つかっています。埋葬されたのは、おそらく土地の有力者だったことでしょう。副葬品の馬具がこの地方で実際に使用されていたものかどうかは不明です。馬の飼育や利用方法についても判っていません。






2、南部馬

牧馬地方の春の歌

 現在も岩手県は北海道に次いで全国二位の馬産地ですが、この地域は伝統的に中世の頃から、良質の「南部馬」の産地として知られていました。
 このあたりで馬を飼う農家の人々が、まるで家族のようにその馬を大事にする姿勢は、人と馬が一つ屋根の下で暮らす「南部曲がり家」という家の造りにも表れています。また、信仰や芸能としての「チャグチャグ馬コ」や「南部駒踊り」などの存在も、この地方の人々の生活において、いかに馬というものの存在が大きいかということの証だろうと思います。
 このような旧南部藩領地の北上山地の高原こそ、まさに日本における「牧馬地方」と呼ぶにふさわしい地域と言えるでしょう。
 そして岩手に生まれ育った賢治が無類の「馬好き」になったのも、このような背景からして自然なことと思われます。
 1924年4月19日、農学校の仕事を終えた賢治は、盛岡から外山高原を目ざして、夜を徹して歩きました。この間の状況は、『春と修羅 第二集』の中の一群の作品に記録されています(「外山詩群」参照)。
 そして4月20日の朝に外山に着いた賢治は、近隣の村から農家の人々に引かれて次々と集まってくる、何百頭という馬を目にしました。実はこの日、外山にある「岩手県種畜場」で、「種馬検査」が実施されることになっており、賢治が苦労してここまでやってきた目的も、まさにこれを見るためだったのです。




3、こんな縄文まで遡るのもあります

http://ameblo.jp/jyoumon-no-uma/entry-10290469955.html
謎のパンツルック土偶 
青森県「合掌土偶」のパンツ姿のナゾ

国宝指定を受けた風張1遺跡「合掌土偶」が注目を集めています、 でも“安産を祈る姿”とだけ説明されていて、このまま定着しそうな気配で心配です。

でも、ちょっと待ってください。このパンツ姿は明らかに乗馬衣装でしょう・・しかも女性です。

亀ヶ岡遺跡の遮光土偶「シャコちゃん」も、函館市著保内野遺跡の「中空土偶」もパンツ姿の乗馬スタイルです。

東北の各地の遺跡からパンツ姿の土偶が数々出土していますが、すべて女性ということも、なんとなくイロっぽく、誰かに、助けを求めているようにみえませんか??

このパンツ姿の素敵な女性たちを、歴史学上見逃すわけにはいきません。当時の生活、習慣などを検証してみる価値はあります。

現代人も乗馬人口の8割は女性ということですので、縄文の女性も乗馬の趣味があったとしてもおかしくないですが、縄文の女性たちが、なぜ、ここまで乗馬に凝ったのでしょうか。暮らしが豊かであったように見えます。
 
 

古代のパンツルックは騎馬民族 

 パンツルックは歴史学的、考古学的にみても、騎馬民族ということが定説です。ウクライナ、アラブ、スキタイ、モンゴルなど大陸の古代騎馬民族の騎兵はパンツ、歩兵はスカートです。

「合掌土偶」の衣装は皮の服    衣装に注目しましょう 布に刺繍したデザインという見方が一般的です。はたして、そうでしょうか?これは明らかに皮を加工した衣装です。このような皮衣装でなければ、年間をっ通じて厳しい北国での生活はムリです。特に、バックスキン(毛皮を裏返し使用)です。デザインを意識した高度なテクニックが活かされています。ここまでの技術を得るまでに、どの位の年月を経たか、とても興味がわきます。

 肩と膝、腕のパットは何を意味しているのでしょう、現在の乗馬の安全防具と見間違うほどよくできています。全体のデザイン、カッテングは皮加工しか考えられません。

しかも、実用服ならもう少しアッサリとしたデザインでもよさそうですが、細やかなところまで手がはいっているのは工芸分野で高度な技術が高まっていたのです。趣味であればあるほど、当時の豊かさが感じられます。

大陸騎馬民族の実用的なパンツルックより、むしろ蝦夷のパンツルックデザインの方が遥かに芸術的です。それよりも、騎馬文化においても蝦夷の騎馬文化の方が大陸より早かったかもしれません。

風張1遺跡から同時に発掘された、漆で仕上げられた弓矢の遺跡は、縄文の騎馬人がいたことの証明を、さらに強力に裏づけてくれます。この新しい説が本物になれば蝦夷の縄文文化でメシが食えるウマ学者、考古学者が出てくるかもしれません。(漆文化の起源でも)

さて、東北各地からこんな勇壮なパンツ姿の女性土偶がぞくぞくと出土していますので、このまま見逃すことはできません。馬がいたからこそこのような素晴しい文化が生まれたのです。何としても、ここは「縄文の馬」の存在を考古学的な見地から立証してあげなければなりません。

そこで、“北のまほろば”が世界遺産登録にむけて、さらに前進するためにも、蝦夷の「縄文の馬」文化を裏付ける作業開始の宣言をしなければならなかったワケです。ご理解いただけますか。




1 件のコメント:


  1. 私は岩手のエズリコ出身で、非常に興味を持って、面白く読ませていただきました。

    時々読ませていただきます。

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