2011年11月15日火曜日

■田道・比羅夫・田村麻呂将軍のつながり

秋田には田道・比羅夫・田村麻呂の三将軍が来ています。なぜ来たのかわかりません?



1、三将軍の足跡

①田道将軍
仁徳天皇55(331年) : 蝦夷の反乱、上毛野田道が派遣されるが伊峙水門で敗死(伝説)・・・・・・・・・・・・・・・・鹿角市


















②阿部比羅夫
明天皇4658年) : 阿倍比羅夫が遠征
明天皇6年(660年) : 阿倍比羅夫は、粛慎に攻められた渡島の蝦夷を助ける・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋田市,能代市












③坂上田村麻呂
天平 5年(733年) : 秋田城(出羽柵を移動)設置
延暦13年(794年) : 征夷副将軍坂上田村麻呂による蝦夷征伐
延暦16797年) : 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任官。
延暦20年(801年) : 坂上田村麻呂、閉伊村まで平定。
延暦21年(802年) : アテルイ、モレら降伏、処刑
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋田市他?























2、役目は何だったのか、全く分からない

阿倍比羅夫将軍の粛慎征伐が天から降り、地から湧いて出たことのように皆目見当がつかない。
下記の引用が普通のみ方でしょう!!

【引用】
東北遠征の理由
阿部比羅夫の大群はそのための陸奥遠征だった。
その当時、大和朝廷の勢力は越の国(こしのくに)、現在の新潟県・山形県まで及んでいた。
新潟を出発して山形沖を通り、秋田沖へと到着した、ということらしい。
彼が寄ったのは秋田だけではなく、青森の沿岸線をぐるり辿って戻ったようである。
水軍の演習も兼ねた、長期征夷遠征というのが彼らの目的だったと推測される。
だが実際はさしたる戦闘もなく、各地の長から盛大なもてなしを受けて楽しんで帰ったようだ。


(演習で180艘もの軍団を出せる日本だったのでしょうか??)


3、三将軍の接点は何か

・上毛野田道将軍は蝦夷征伐

・阿倍比羅夫将軍は粛慎征伐

・坂上田村麻呂は大韃靼人(蝦夷)討平


従って、蝦夷、粛慎、大韃靼人が同じなのか、違うのか!!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本書紀に記されている
「蝦夷」「粛慎」「靺鞨」「女眞」「刀夷」「蒙古」後の「満州」は皆違うのか・・・

白柳秀湖は「それは単一民族ではないが、血統、地縁、人種その他の要因によって
「大韃靼人」として包括される
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・











・このようにみな同じく「大韃靼人」でくくれることになれば、田道将軍も比羅夫将軍も、田村麻呂将軍もみな同じ敵(大韃靼人)と戦って、日本、特に東北を救ってくれた神将であることになります。

4、これで糸のもつれがほぐれた

これが解らなかったので、古代日本国を悩ませた東北の蝦夷を、アイヌとばかり思い込んでいたので、田道将軍から阿倍比羅夫、坂上田村麻呂まで、其の戦役の実態がまるで見当がつかなかったが、これで糸のもつれがほぐれたように明らかになった。











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 田道将軍と田村麻呂の関係
【引用
津軽 猿賀神社
坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐で苦戦に陥った時、田道の神霊が現れ大勝に導いたので、此の地に祠を造って祀った。それを桓武天皇の奏上し、勅許により、大同二年(807年)奥州猿賀深砂(しんしゃ=神蛇)大権現として勧請した。



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