2011年11月15日火曜日

■やはり田村麻呂将軍は東北の「神」であった!

われわれの先祖と思っている蝦夷が、そうではなく大韃靼人であったという話



【引用】(太田龍『縄文日本文明1万5千年史序論』より)出典は白柳秀湖説

1、阿倍比羅夫将軍と「蝦夷」
従来の日本の歴史は、幸徳・斉明両朝の革新政府を悩ました東北のいわゆる蝦夷なるものを、アイヌとばかり思惟してきた為に、阿部比羅夫将軍の粛慎征伐が天から降り、地から湧いて出たことのように皆目見当がつかなかったのだ。

阿倍比羅夫将軍








2、なぜ蝦夷が騎馬戦術に長けているのか
アテルイが率いるいわゆる蝦夷が、縄文原住民の生き残りだとすると、なぜ、その蝦夷が騎馬戦闘に熟達しているのか、全く説明できない。

これに対して、ドイツ生まれケンフェル(ケンペル)の「日本志」では
・日本の二つの害難
 ①桓武天皇の時の大韃靼人の侵入・・・これが東北へ
 ②後宇多天皇の時における同じく大韃靼人(蒙古人)の襲来・・・これは九州‥教科書に載る


「日本の地は自然と堅固にして、今に至るまで、外寇の恐るべきもの、極めて少なし。稀には犯し、襲うこともありといえども、未だ寡って、敵に利ありしことなし。およそ勇猛無敵の国民は未だ寡って他人の命令聴くことなし。


一千年前なる桓武の御宇に当たって、大韃靼のその地広大なるより、大軍を挙げて、しきりに日本の浦に打ち寄せたり。攻撃火急にして、敵軍は早くも陸地を取りて、基地としける程に、日本人もこれを退落することははなはだ難なりけり。その故は、毎々に挑戦して、しばしば敗戦して、その勢大に衰滅せしかども、韃靼より日を追って、新軍を送り備って、勢いを助ける程に、ついに、一五〇年の久しきに堪えて、猶も日本の地に居て動かざりけり。

しかるに、七九九年(延暦18年)国の守護神(田村麻呂)の威力冥助と、日本軍兵の鋭き多勢力と一斉に起張して、ついに彼らを抜き滅ぼしけり。」

つまり
孝徳天皇、斉明天皇の御代から桓武天皇の御代まで約150年、大韃靼人は大軍を日本(奥羽東北地方)に送り、打ち破られてもまた新手の軍勢を増派してくる。彼らは日本(奥羽)に確固たる武力による支配権を打ち立ててしまう。


3、やはり田村麻呂将軍は東北の「神」であった

「しかるに当の日本では、ちょうどこの時代のことを記録した国史『日本後紀』の一部が湮滅して伝わらぬ為、田村麻呂将軍の英邁を以ってして、わずかに打ち勝つことが出来た大韃靼人の奥羽地方における動静及び官軍との戦況を、詳しく知ることが出来ない。だから当の日本の歴史には、坂上田村麻呂の東征ということが、一面著しく魯鈍で、お人好しでありながら、多面その固有の血統と文化に対する矜持のいたずらに高いために、千年一日の如く進歩なく、発展なき発展なきちっ粛たる生活を送ってきたアイヌの気まぐれな反逆かなどのように、軽く取り扱われている。」






















4,東北の隠された歴史


①日本の原住民第一号が縄文人である。

②東北・日高見に占拠した民族は従来漫然と断定されてきたアイヌ人ではなかった。満州東部の日本かい沿岸から沿海州にかけて蕃衍していたウラル・アルタイ種の各派が、日本海を渡って、わが北陸道の沿岸から両羽地方に漂着し、そこからアイヌ人を主とする先住民を追い払い、脊梁山脈を越えて三陸・日高見に進出した。

③田村麻呂将軍による奥羽平定のあと、奥羽地方の蝦夷(韃靼人)は日本民族に同化された、そしてそれは、日本民族にとって最後の異民族同化であった。









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