2012年12月15日土曜日

◆丹生と空海



1,丹生都比売神社

『丹生都比売神社』(和歌山県伊都郡かつらぎ町)
丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前がある。朱砂を精錬すると、水銀となる。金鉱石は丹生によって精錬されてはじめて純金となる。
丹生都比売大神とは、この地に本拠を置く全国の朱砂を採掘する古代部族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は88社、丹生都比売を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、その総本社である。


2,空海と丹生都比売神社
この丹生都比売と、空海(弘法大師)には密接な関係がある。
唐から帰国した空海が、密教の根本道場を建てる場所を探すため、高野山の山中深く分け入ったところ、白と黒の紀州犬を連れた狩人姿の狩場明神の導きで、天野の地で丹生明神に出会い、高野にたどり着いたといいう伝承がある。
高野山は真言宗の総本山で、その中核は根本大塔を中心とする壇上伽藍である。この壇上伽藍の西端に御社(ミヤシロ)と呼ばれる「丹生明神と高野明神」を祀る神社と十二王子百二十伴神も同じく祀られている。
空海は壇上伽藍建築に際し、この御社を最初に建てたとされる。ただし、空海は御社のことについては一切記録を残していない。地主神を祀ることに不思議はないが、寺院の中核となる壇上伽藍の一角に主要な堂宇に比肩する規模の神社を建てるのは不可解である。

3,空海がなぜ唐に渡れたのか
『日本書紀』景行天皇51年条
日本武尊が熱田神宮に献上した蝦夷らは昼夜を問わずうるさく騒ぎ(サエギ)立て、礼儀も悪かったので、倭媛(ヤマトヒメ)命は、蝦夷らを神宮に近づけないように命じ、朝廷に奏上した。そこで三輪山の辺りに置かれることになったが、幾日も立たないうちに三輪山の木を伐ったり、大声を上げて村人を脅かしたりした。これを聞いた天皇は、その蝦夷たちを遠方に置くことにした。これが播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五つの国の佐伯部(サエキベ)の先祖となった。

空海は宝亀五年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)の佐伯氏に生まれている。つまり上記の蝦夷の末裔で、土蜘蛛の系統である。そして、丹生明神は丹砂を採取する土蜘蛛の一族が祀る神。両者に同族意識があっても不思議はない。
30歳まで空海は高野山周辺で山岳修行をしており、その一帯が水銀の産地であることは承知していたはず。丹砂の利権を有する彼らに資金援助をさせたのではないかと思われる。そもそも空海が唐に渡ったのは私費留学であり、莫大な渡航費用を弱小豪族の佐伯氏が負担できたとは思えない。すでに、その段階からスポンサーになっていた可能性もある。

4,空海は蝦夷を熟知していた

悪路王はツングース族
 ロシア連邦ハバロフスク地方のアムール川流域、沿海州、サハリン州などに、エベンキ族、ナーナイ族、ウリチ族、ニブフ族、エベン族、ウデゲ族、ネギダール族、オロチ族、サハリン・アイヌ族などツングース語系諸族が現住している。
  日本史に登場するツングース族は、粛慎・靺鞨(マツカツ)・女真(ジョシン)・高句麗・百済・扶余・渤海国などである。
  弘仁六年(815)正月、小野朝臣岑守が陸奥守に任じられた時、空海(弘法大師)が彼に贈った歌があるが、そこには当時の人々の蝦夷に関する印象が明記されている。

『遍照発揮性霊集』(野陸州に送る歌)
時々、人の里に来住して千万の人と牛とを殺食す。髻(モトドリ)の中に毒箭(ドクヤ)を挿し、手を上げる毎に刀と矛を執り、田(デン)せず、衣(イ)せず。鹿やと麋(トナカイ)を逐う。馬を走らせ、刀を弄すること電撃の如く、弓を彎(ヒ)き、箭(ユミヤ)を飛ばす。誰か敢えて囚(トラ)えん。

  この歌から、当時の蝦夷の生活は狩猟民族そのものだと思える。空海は唐に留学していた経験があり、蝦夷と粛慎(当時は靺鞨)が同じツングース族であると知っていたのではないかと推察する。
  さらにいえば、空海は天台宗が嫌いだから、天台座主の円仁も嫌い、円仁が庇護する蝦夷も嫌いである。文面にも蝦夷を嫌悪する感覚が現れている。







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