2009年9月30日水曜日

01612■秘められた大日霊貴神社



鹿角市の歴史は楽しいですね。今日は大日堂舞楽世界文化遺産に決まる日です。

秘められた大日霊貴神社

レイラインハンテング」さんからです
さすがに鋭い突っ込みですね、参考にさせていただきます。


 









八幡平を秋田県側に抜け、大湯へ向かって北上していくと、途中に大日霊貴(おおひるめむち)神社がある。地元では「大日さん」と親しまれているこの神社は、だんぶり長者の善行を後世に伝えようと、今から1500年前、継体天皇の時代に創建されたと伝えられている。

 昔々、小豆沢というところに住んでいた貧しい夫婦が、畑仕事を一休みして昼寝をしていると、一匹のトンボ(だんぶり)が飛んできて、唇の上にとまった。その尻尾には甘い酒がついていて、その美味しさに思わず目を覚ました二人は、飛び立っただんぶりを追いかけた。すると、そのだんぶりが飛んでいった方向に泉があった。その泉の水を飲んでみると、先ほど一滴だけ味わったこの世のものとは思えない酒だった。だんぶりに導かれて酒の泉をみつけた二人は、その酒を汲んで商いをして、おおいに潤った。それが、「だんぶり長者」の話だ。

 それは、大地がもたらしてくれる資源を見つけ、富を成したことをそのままストレートに伝えたもので、この周辺に何か貴重な地下資源が埋蔵されていることを暗示している話のようにも思える。

















この神社は、はじめ、「大日示現社」と名づけられたが、大日つまり天照大神がこの地に示現したという意味だ。

その後、いったん荒廃を見るが、200年後の元正天皇の時代に再建される。このとき、天皇はわざわざ都から東大寺大仏建立に貢献した僧、行基を下向させた。そのとき随行した工匠・音楽師等が、里人に舞楽を伝授し、それが大日堂舞楽として現代まで伝わっている。

 都から見ればまさに僻遠の地に、当時随一の僧侶を派遣して建立させたということは、それだけ、この神社が重要であったことを物語っている

仏と神を同一の概念とみなす本地垂迹説を取り、真言宗と関係の深い両部神道。行基によって建立法要が営まれた大日霊貴神社は、その両部神道生粋の神社だ。



 真言宗といえば、その改組である空海は、陰陽道や中国固有の錬金術である「練丹術」に通じていたことでも知られる。高野山のある紀伊半島や四国の山奥に練丹術に必要な「丹=水銀」を探して歩いた空海、いっぽう、地下資源を掘り当てたことを連想させる「だんぶり長者」、この符合が意味するものは、いったい何だろう。

















 この神社には陰陽道と関係の深い両部神道ならではの「形代」の儀式が伝わっている。人の形に切り抜いた紙に自分の生年月日と氏名を書き、息を三回吹きかける。そして本殿の手前にある茅の輪を潜って形代を奉納するというものだ。この形を見て、陰陽師安倍晴明が式神を使うのに、同じような形代を用いていることを連想する人も多いだろう。

 ここでは、茅の輪潜りの作法が少し変わっている。茅を編んで輪にした茅の輪を潜って魔除けとするのは、年越しの祓いや夏越祓で良く見られるが、ほとんどは、一度この輪の中を潜るだけだ。ところが、ここでは、左足から潜り左回りに戻り、今度は右足から潜り右回り、さらにもう一度左足から潜って形代を納める形をとる。古代から続くシャーマニズムや陰陽道では、自分に取りつこうとする「魔」を巻くために、北斗七星の形に歩む「兎歩」や算用数字の八を横にした「無限」を表す形に歩む作法がある。兎歩は天体でもっとも力の強い北斗七星と北極星の力を体現する。「無限」の形を描く歩き方は、途切れのないメビウスの輪のようなその形の中に、「魔」を永遠に閉じ込めようとするものだ。

 だが、この大日霊貴神社にまつわる興味深い事実はまだ尽きない。じつは、この神社は、今回の取材のキーポイントである大湯ストーンサークルから、正確に南に位置しているのだ。
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(まとめ)
・鋭いお方ですね。
・「大日示現社」は初めてです・・・これは意味が深そうです。
 (たとえば「ホツマ」では、アマテル神が16歳になられたとき、トヨウケ神が東北にお連れしたこと)
・都から見れば僻地のこの地に大日示現社(大日霊貴神社)があること。
・そして、当時随一の僧侶を派遣したこと。
・大日霊貴神社の名を冠する神社は日本でここだけです(私が調べたのでは)
・だから鹿角市は不思議なところなのです。 

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