2011年11月14日月曜日

■「モッコくるぞ!」とは何か

子ども時代に、秋田でも青森でも「モッコくるぞ!」と言われました、なに?



1、青森の「もっこ」とは
津軽弁の「もっこ」の意味を教えて下さい。
子供のころ、悪いことや夜更かしをしていると「山からもっこ来るぞ~!!」と叱られたものです。
当時はお化けみたいなものを想像しておりましたが・・・。
昔を思い出して、質問させていただきました。
  • ベストアンサーに選ばれた回答
ainori_dewiさん
(津軽弁)もっこ:(意味) お化け/蒙古?:(用例(翻訳))なーげばやまがらもっこくるぞ (泣いてばっかりいると山から蒙古がくるぞ)
http://www2d.biglobe.ne.jp/~oga/tsugaru/ben.html
もっこ=幼児語のお化け(蒙古の意) ※津軽の子守唄の一節に「泣けば山からもっこくるぁねぇ〜」がある。
この「もっこ」は蒙古の訛ったものである
http://www.jomon.ne.jp/~ja7bal/jiten.htm#mo

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小さな子供が悪さをしたときに、ここ八戸では今でも
「そったこどせば、蒙古ぁ来るぞ」 (意味:そんなことしたら、蒙古が来るぞ)
と言って叱ります。

ここで言う蒙古とは元寇の事です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87

800年前の元寇が、現代でもなお語り継がれているぐらいに恐ろしい国難だったのだということが分かります。

今こそ800年間語り継がれたこの戒めを、あらためて心に刻み直すときです。

祖国を護るため、ヨーロッパをも震え上がらせたあの蒙古大帝国に敢然と立ち向かいこの国を護った私たちの祖先に感謝しつつ、私達も後に続きましょう。

2、秋田でも

秋田県も、特に県北では多く使われたようです。
調べると秋田市でも使われたそうです。

【引用】
http://blogs.yahoo.co.jp/akatomoyuka/10894891.html


今日、職場の同僚であるY氏(秋田県K村出身)と何気ない会話をしていた時のことです。
”そういえば、子供のころ、悪いことすると、
そんなことしてると、もうがくるど~~、と怒られたっけ”とY氏。
”もうがくる?”
”そう、蒙古の”もう”らしい”
”は?うそだ~~~、秋田に蒙古?
 どうせK村のことだから、牛かなんかの”もう”でしょうが~~~”と僕。
”いや、ほんとだって、ね~、Mさん”と少しムキになるY氏。
Mさんはうちの職場のO.B.で、今はパートとして働いている、とても温厚篤実な方で、やはり秋田県出身。
”ええ、確かに元寇の蒙古が来るという意味だっとと思いますよ”とMさん。
さらに同じく秋田出身のSさんも、
”そういえば俺も子供のころ、”もうがくる”って怒られたことがあるけど、そういう意味だったんですか~~”と。
”う~ん、Yはともかく、Mさんがこんな嘘を言うはずがないな~~
 やっぱり蒙古の”もう”なんですね~~~”と僕^^;
”だからそう言ったでしょ~~~が!!!”とY氏。
モンゴル帝国が日本に侵攻してきたのは13世紀の後半、700年以上前のこと、
しかも、来寇したのは北九州で秋田には来ていない。。。
それにしても、モンゴルが実際に来襲し、殺戮が行われた北九州にならともかく、直接的な被害が無いはずの秋田でこんな言葉が残っているは何故だろう、
僕はそのあとしばらく考え込んでしまいました
それと、僕が子供のときに読んだ本に、やはりモンゴル帝国の侵攻を被った東欧にも、長く、子供を叱る言葉として”モンゴルが来る”という言い回しがあったと記憶しています(子供のとき読んだ本で、今はその出典を明らかにできません。僕の記憶違いで、この記述に誤りがあるときは、ご指摘をいただければありがたいです)。
モンゴルが席巻したユーラシア大陸の東と西に、しかも秋田の地に同じような言葉が残っていたことに、何となく不思議な感じがした1日でした^^

タタールのくびきが参考になりますね

大韃靼人論もどうぞ

3,岩手でも

【引用 深い深いお話です】
http://yumifukuzawa.typepad.jp/blog/2011/02/%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%B3%E3%81%8C%E3%81%8F%E3%82%8B.html
夢の中でわたしは民俗学者の柳田國男といっしょに 
東北の浜辺にいました。 
「岩手では泣く子に『モッコがくるぞ』というのを知ってますか? 
 あれは蒙古だといまでは説明されていて、あなたもそう思っていると 
 思いますが、モッコというのは元寇襲来以前からある言葉なんです。 
 モッコとは外の地からやってくるものなんですよ。 

 かつての日本人は防塁を作って、それをせきとめようとしました。 
 防塁をみるとわかるけれど、高いところでも2メートルほど。 
 石を積んでいるので、足場があって、簡単に登って超えられるものなんです。 
 元寇襲来のときは、なぜこんなものでせき止められたのかと言うと、 
 これは結界の役割を果たしていたので、日本が護られたんですね。 
 ところがいまはほら、結界は壊れている。 
 補修するには結界というものの大切さを理解してもらわないといけないし、 
 いちばん恐れているのは、いまは飛行機でいきなり結界を越えて、 
 内地へ入れることなんです。 
 この地の結界も、九州の結界もかんたんに破られて、 
 すでにさまざまな災厄が入ってきています。」 

4,津軽の子守唄
 津軽の子守唄(ねんねのおどさ)

    ねんねこ ねんねこ ねんねこせ
    ねんねのお父(ど)さは どこさ行た
    お父さ鶏コ町さ 鶏コ買いに行た
    姉さ鰈(かれ)コ町さ 鰈コ買いに行た
    兄さ裏の山さ 柴刈りに行た
    柴にはじかれて 七ころび
    もひとげりころべば 八ころび
    寝ェろォじゃァ ヤイヤイヤイ
    
    ねんねこ ねんねこ ねんねこせ
    
寝んねば山がら もっこ来らね
    姉さま育でだ 唐猫コ
    抱いたり背負(おんぼ)だり 飯(まま)食(か)へで
    それでも泣げば 山さ捨てで来る
    寝ェろォじゃァ ヤイヤイヤイ





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■男鹿のナマハゲは何者か

田村麻呂の大嶽丸の鬼退治を調べると、男鹿のナマハゲはどうなのか?





1,鬼ヶ城伝説

【引用】
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-4-1.htm

 世界遺産になった鬼ヶ城
  平成16年7月に、熊野古道や鬼ヶ城を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたが、この鬼ヶ城の鬼も、実は『大竹丸』である。

『鬼ケ城伝説』
その昔、桓武天皇(737~806)のころ、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多娥丸(たがまる)、天皇の命を受けた坂上田村麻呂が征伐したという伝説が残っており、その伝説に基づいて鬼の岩屋と呼ばれていましたが、後に鬼ケ城といわれるようになりました。

  多娥丸(たがまる)となっているが、伊勢と熊野は伊勢路でつながっており、坂上田村麻呂に成敗されたとすることから、伊勢国で暴れたとされる「日本三大妖怪」の一人『大嶽丸』に間違いない。

  ここでは海賊とあるが、秋田県の鬼「なまはげ」と長崎県五島列島の久賀島の鬼は同一だと考えられる。そして、佐渡島の人々に鬼と恐れられた粛慎(みしはせ)の容貌は「なまはげ」そのものである。


2,粛慎は挹婁(ゆうろう)

  ツングース族の粛慎は紀元1世紀に挹婁(ゆうろう)と名を変えるが、中国の史籍に次のような記事がある。

『三国志魏書』挹婁伝
漢代(前漢)以来、扶余(ふよ)に臣従していたが、扶余の賦課が重いので、黄初年間(220年-226年)には、これに叛いた。扶余はこれを何度も討伐するが、人口は少ないけれど、場所が険しい山中で、隣国の人々も、その矢(毒矢)を畏れるほどで、兵(軍事力)では帰服させることができず、隣国はこれを患いとしている。

『後漢書』挹婁伝

彼らは気の向くままに船に乗って、巧みに略奪を働くので、隣國ではこれを畏れ、患うが、兵をもってしても服させることはできない。

  上記から、粛慎(みしはせ=挹婁)は、東アジア最古の海賊だったと思われる

扶余については別紙に記述したが、高句麗や百済の宗族でもあり、朝鮮半島の
平壌からアムール川までという広大な領地を有した大族である。その扶余ですら手に負えない彼らに、当時の倭人も略奪を受けたのだろう。




3,安東水軍
  鬼首の鬼達は、後に「安東水軍、伊予水軍、松浦水軍」となることから、海運にも優れていた事実が推察できる。また、大竹丸が陸奥の山中で隠遁していた訳ではなく、安倍水軍をもって都に近い伊勢国や紀伊国まで攻め上っていたとも思える。
  また、後世のアイヌはの名残だと思われる「毒矢」を交易品としている。

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4,ナマハゲは海賊?


福見の鬼について、久賀島(長崎県)からさっそく追加情報が届いた。
地元の方から伝説を聞き取り中のわたしのスナップショットから、最近の福見の様子まで、たくさんの写真が久賀島公式ページで公開された。
鬼取材をした福見の様子はここをクリック

さて、秋田のナマハゲと、五島・久賀島の鬼伝説。
東西互いに、遠く離れたところに伝わるコケコッコー型鬼伝説だが、
もう少し突っ込んで見ていくと、違いもある。
それは、「鬼の正体」に関する解釈。

秋田のナマハゲは、諸説ある中で、漂流したロシア人にルーツがある、ということはすでに見たとおりだ。
それでは五島・久賀島はどうか?
面白いことに、鬼とは「海賊」のこととあり、伝説が伝わる福見はその昔、もともとの「福建」から改名した地名であるという。ということは、その鬼こそ、中国、福建から渡って来た中国の海賊であるということになろうか?

ここで海流を見なければならない。沖縄から南西諸島を通って北上してくる海流は、九州の南で二手に分かれる。一方は太平洋岸をなめるように東へ走り、もう一方は東シナ海を北上して、日本海へと入り込む。

上図からもわかるとおり、海流は中国の福建をかすめるように通っている。
久賀島の鬼は、海賊であり、福建(福見)であるというが、この対馬海流はその伝説の正当性を無言のうちに裏付けているようでもある。
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5,粛慎人来着(みしはせびとらいちゃく)

 粛慎人は、やまとことばでは「みしはせびと」と読む。日本で最初に記録された外来の鬼で、『日本書紀』第十九の欽明紀(五四四)の頃に、次のように書かれている。
 五年十二月越の国言さく
 佐渡の島の北の御名部の碕岸に粛慎人あり
 一つ船舶に乗りて淹留る
 春夏は魚を捕って食に充つ
 彼の島の人
 人に非ずと言ひ亦鬼魅なりと言ひて敢て之に近づかず
 島の東
 禹武の邑の人
 椎子を採拾ひ熟し喫わにと欲して
 灰の裏に著いて炮る
 其皮甲化して二人となり
 火上に飛騰ること一尺余計
 時を経て相闘う
 邑人深く以て異しと為し
 取て庭に置く
 亦前の如く相闘ひて己まず
 人ありて占ひて云う
 是れ邑人必ず魃鬼の為に迷惑されんと
 久しからずして言の如く其の抄掠を被る
 是に於て粛慎人瀬河浦に移り就く
 浦の神厳に忌み人敢て近つかず渇して其の水を飲み死する者且に半ばならんとし
 骨巌岫に積む
 俗粛慎の隈と呼ぶ也

鬼と書かれてはいるが、民族学上では大陸の沿海州北部から、旧満州にかけて住んでいた狩猟民の、ツングース族とする説に定着しつつあり、古記には蝦夷ないしアイヌ説もみられる。
右記中の地名、「御名部」「禹武」「瀬河浦」がどこであるかには、諸説があって定まらないが、佐渡博物館編『図説・佐渡島』では、東は藻浦から西は橘海岸などが挙げられ、北片辺の馬場遺跡の発掘によって、石花川河口付近に上陸地が比定されたりしている。右記した欽明紀は、実録によったものではなく、それ以前の口碑伝承を、越の国の者が報告する形式で書かれている。それゆえ鬼魅や魃鬼が抄掠したとして、蛮族の暴力的行為をうけたことになってはいる点については、中国人が用いた漢字表記では、「粛」も「慎」もむしろ穏やかで、つつしみ深い意味があるので、他の個所の記述と比較しながら、真実を見極める必要がある。

【関連】馬場遺跡(ばんばいせき)・韃靼塚(だったんづか)
【執筆者】本間雅彦

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
 

■田村麻呂伝説の鬼「大竹丸」とは


東北のいたるところで坂上田村麻呂が鬼の「大竹丸」を追って打ち取ったという伝説があります。
大竹丸とはいったい何者か




【引用】

1 安倍一族が『大竹丸』
大竹丸の記述をする前に、先に申し上げておくが、筆者は膨大に史料に目を通した結果、大竹丸は安倍氏だと確信している。詳細は別称で述べるが、蝦夷で有名なのは「アテルイ」唯一人と言ってもいいほど、他には名前が知られていない。「前九年の役」の安倍頼良も蝦夷だとされるが、実際はそうではない。
下の絵図を見ていただきたい。
  日本の正史には、日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録があり、一般に「六国史」と呼ばれています。

『日本書紀』    (? ~697年) 720年完成。撰者は舎人親王など。
『続日本紀』    (697791年) 797年完成。撰者は藤原継縄など。
『日本後紀』    (792~833年) 840年完成。撰者は藤原冬嗣など。
『続日本後紀』   (833~850年) 869年完成。撰者は藤原良房など。
『日本文徳天皇実録』(850~858年) 879年完成。撰者は藤原基経など。
『日本三代実録』  (858~887年) 901年完成。撰者は藤原時平など。

日本書紀』は藤原不比等が権勢を誇っていた時代であることを考慮すれば、『六国史』の編纂すべてに藤原氏が関与していることになり、さらには『日本書紀』の撰者の舎人(とねり)親王は、安倍氏の中興の祖である『安倍倉梯麻呂』の孫にあたります。
 
 このような事情から、『古事記』も含め藤原氏が関与する『六国史』では、安倍氏を蝦夷や鬼と結びつける記述はありません。また、『六国史』の完成までの間が、安倍氏族の全盛期とも重なっており、それが、坂上田村麻呂と蝦夷との戦いにアテルイらの記述はあっても「大竹丸」が登場しない理由ではないかと筆者は推理しています。

安倍氏族の始祖「大彦命・建沼河別命」親子の足跡が、奇妙に鬼の伝承地とも重複しており、この親子の戦の伝承は意外と少なく、先住の土蜘蛛を同化吸収して平穏に定着していったと考えられます。
その安倍氏族の族長の一人が「大竹丸」だと直感するのですが、それを本章のなかで追究していきます。

2,鬼首

① 鬼切部
日本全国の鬼に関連する地名を網羅した『おもしろ鬼学』(北斗書房)が出版されているが、全国津々浦々まで鬼の物語や鬼に関連した神社仏閣が多い。

『岩手県の由来』
盛岡市三ツ割の東顕寺に注連縄が張られた三つの大石がある。岩手山が噴火した時に飛んできた石で、「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
当時、羅刹鬼(らせつき)という鬼が、里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は三ツ石様に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を大石に縛りつけてしまった。
羅刹鬼は「もう二度と悪さはしませんから、どうぞお許しください」というので、三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら」といわれ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った。
この地を、岩に手形を遺したことから『岩手』と呼ぶようになった。

このように隣接の岩手県も『鬼』に由来するが、当然、鬼首の地名には古代史にその名が遺されている。

『(財)東北電気保安協会のHP』
栗駒国定公園の標高300mの高原にあり、全国随一の湯量と自然の豊かさを誇る鬼首温泉は、応神天皇六年(270年)頃に、すでに発見されていたと伝えられていますが、歴史に初めて登場するのは、平安時代の寿永・文治年間(1182-1189年)、奥州平泉の藤原氏によって開かれたのが起源とされます。
 鬼首の名の由来は、延暦二十年(801年)、坂上田村麻呂が蝦夷平定に東征した際に『鬼』と呼ばれ、恐れられていた大竹丸を追い詰め、この地で首をはねたことから、ここの地名を鬼切辺と呼び、それが後に鬼首に変わったと伝えられています。



3,錯綜する大竹丸
坂上田村麻呂が鬼と呼ばれた大竹丸を鬼首に追い詰め、その首をはねたというが、大竹丸(大丈丸・大岳丸・大武丸・大猛丸・大滝丸・大高丸)様々な漢字表記があるが別人ではない。平安時代の万葉仮名(一種のルビ)は、大和言葉に応じた読みの漢字を、どれでも適当に書けばよいとされていた。
大竹丸の大は尊称、丸は男子を表し、名前の部分は「たけ」だけ。従って、普段は「たか・たけ・たき・たく・たこ」のいずれかで呼ばれていたのだろう。ただ、後の安倍頼良の一族に「高星丸」という人物がいることから、高と丸の間に漢字が一文字入っていたかもしれない。

『宮城の伝説』(角川書店)
征夷大将軍坂上田村麻呂の東征のとき、牧山で賊将大岳丸を退治し、死体を首・胴・手足に分け、牧山・富山・箆岳の三ヶ所に埋葬し、そこに観音堂を建立した。
そして、牧山には魔鬼(まき)山寺を建立した。また、田村麻呂が退治したのは、石巻地方にいた魔鬼一族の酋長の妻、魔鬼女(まきめ)であるともいう。

 宮城県の牧山(魔鬼山)・富山・箆岳(ののだけ)の三山には、観音堂が建立(跡地だけのもある)されており、「奥州三観音」と呼ばれている。(左上から牧山観音像・富山観音堂・箟岳観音堂)
田村麻呂が退治した鬼の体を分け、それぞれに埋葬しているとのことだが、富山(松島町)の鬼は『大竹丸』、箟岳(湧谷町)の鬼は『高丸』、牧山(石巻市)の鬼は『魔鬼女』と、鬼の名前が錯綜している。
宮城県遠田郡涌谷町箟岳の無夷山「箟峯寺」の伝承では、蝦夷征伐の時、田村麻呂は敵味方双方の戦死者を葬った上に観音堂を建てたのが寺院の始まりだと案内書に記している。
ただし、この地で黄金が採集されたことに留意を要する。


4,ネブタ祭と大丈丸
 ネブタ(侫武多・倭武多)祭りでは、大丈丸が登場するが、同一人物である。
各地に「ネブタ祭」があり、ネブタの語源は一般に「眠た」が語源とされるが、ネブタ祭りには「ネブタ流れろ」「まめの葉残れ」という囃子(ハヤシ)がある。ネブタとは「賊・土着人」で、まめの葉とは「忠義な味方」だとする説が有力である。

『侫武多(ネブタ)の由来』
昔、陸奥きっての悪者の頭であった大丈丸は、遠くは駿河の国から伊勢の国までやってきて、都に上る人々に悪事を働いていた。
そこで武勇の名高い坂上田村麻呂を征夷大将軍として、大丈丸を討伐することになった。田村麻呂に撃破された大丈丸は陸奥に逃げ込み、平内山(浅虫温泉)の砦に隠れた。この砦は海中に突き出て、三方は海だったので田村麻呂も容易に攻撃できなかった。
そこで、部下の一人が「里の人々に太鼓や鉦を打ち鳴らさせれば、悪者の大丈丸とて賑やかな祭りだと思い、物珍しさに気を許すはずです」と言上した。
早速、紙を張って魚や鳥などの形をつくり、たくさんの山車(だし)の上に載せ、その内部に大勢の兵を隠した。張子のなかに火を灯し、太鼓や笛の音を響かせて、砦へ近づいていくと、案の定、大丈丸は砦から出て、華やかな祭り行列にみとれていた。突如、兵士らが紙を破って躍り出ると、不意をつかれた大丈丸には応戦する暇もなく戦いに敗れた。
こうして田村麻呂は大丈丸を征伐して都へ帰っていった。 

『ネブタはトロイの木馬』
大丈丸をイリアス軍、田村麻呂をギリシャ軍に置き換えれば、ネブタはギリシャ神話の「トロイエ戦争」に登場する『トロイの木馬』の日本版だといえる。
従って、『田村麻呂の張子祭り』と呼ぶほうがリアルだと思われる。

大竹丸(ネブタ)討伐を祝う祭りであれば、征服された人々が侵略者の勝利を祝うという悲惨な祭りだといえるが、江戸時代の藩主が景気づけに考案した祭りだとのことなので、深い意味はなさそうだ。
大丈丸には『大嶽丸伝説』があり、こちらでは青森県の霧山(場所不明)に城を築いたとしており、ネブタと青森県の関係が分かりやすい。
できれば、近い将来、鬼首地区で大竹丸の鎮魂祭としての『ネブタ祭り』をしてもらいたいものである。

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【まとめ】
大竹丸(大丈丸・大岳丸・大武丸・大猛丸・大滝丸・大高丸)様々な漢字表記があるが別人ではない。

②『鬼』と呼ばれ、恐れられていた大竹丸

③青森ネブタは大丈丸で鬼


■アテルイは耀星か鬼か(2)

アテルイは輝く北の星である説







1、アテルイは耀星

御存じ「わらび座」(田沢湖芸術村)の創立50周年記念作品ミュージカルです。
二回も見ましたが感動の物語でした。
原作は高橋克彦の「火炎」


2、蝦夷の誇りをかけて立ち上がる

黄金を求める大和朝廷は蝦夷(えみし)を「まつろわぬ民」として征圧を企てる。 度重なる侵攻に、蝦夷は人間の誇りにかけて立ち上がる。その若きリーダーがアテルイだった。
大和軍との激しいたたかいが続く。 アテルイは今は征夷大将軍となった幼なじみの田村麻呂と岩手山の麓で一騎打ちの場面を迎える。 ふとよみがえる遠い記憶。 愛瀰詩。 エミシとは母の愛のような広々とした大河の詩を意味すると語り合った日を。
蝦夷の慟哭のような岩手山大噴火。 敗走する仲間たち。 その姿に、アテルイはついに決断する―。

3、清水寺のアテルイとモレ
田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。 (日本の公式見解)


■アテルイは耀星か鬼か(1)

アテルイとは北の輝く星か、はたまた鬼伝説の「鬼」なのか・・・隠された東北に真実が見えてきそうです。


最初はwikiから、やはり二つの見方があるということを

1、現代のアテルイ像 [編集]

評価 [編集]

1、坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であった。

2、再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めたことと、一般社会において地方の自立が肯定的に評価されるようになったことが、背景にある。アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。
これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

2、アテルイは悪路王で鬼である説
【引用】
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-4-1.htm

悪路王(あくろおう)

『鳴子町史』に、延暦八年(797年)に紀古佐美を征東大使に任じ、兵五万余をもって征伐に向かわせ、衣川まで進んだが、食料不足と寒気に悩まされ、結果的に阿弖流為(アテルイ)に破られ、数千人の戦死者をだして惨敗したことを示す『日本後記』が掲載されているが、そこには、当時の道がいかに悪路だったかが明記されており、アテルイが悪路王と呼ばれた理由が想像できる。


 左の写真は、水沢市埋蔵文化財調査センターに保管されている悪路王の首像である。


3,悪路王

 明治時代、遠野民俗学の先駆者である伊能嘉矩(かのり)氏が「悪路・赤頭・高丸・大竹丸・岩武」などの伝承を収集、更に関連する地名伝説にも触れ、悪路王を検証した「悪路王とは何ものぞ」(「遠野の民俗と歴史」・三一書房)など、資料や史料が多いが、代表的なものを列記する。

『中尊寺西光院の毘沙門堂縁起』
およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸らの蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ、女子供を掠める等の乱暴な振舞い多く、国府もこれを抑える事が出来ない。
  そこで、人皇五十代桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より3千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発する報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。
  延暦20年(801)、大将軍は窟(達谷窟)に篭る蝦夷を激戦の末に打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。
 大将軍は、戦勝を毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を摸ねて、九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として達窟毘沙門堂(別名をいわや窟堂)と名付けた。 

  大竹丸の名がなく、高丸となっているが、両者を同一人物としているのだろう。

『吾妻鏡』
源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある青山に目をとめ、その名を案内役の奥州人の豊前介実俊に尋ねると、「それは、田(達)谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、城塞を構えていた岩屋」だと実俊が教えた。そして、田村麻呂は、この田谷窟の前に九間四面の精舎を建て、鞍馬寺をまねて多聞天の像を安置し、西光寺と名づけたということを語る、という場面がある。

『平泉舊蹟志』
達谷窟は岩井郡達谷村に有り、東鑑(吾妻鏡)には田谷窟と記す。中尊寺より未申の方奥道十二里、東鑑に「田谷窟は、田村麻呂・利仁の将軍綸命を奉り、征夷の時、賊王悪路王ならびに赤頭らが塞を構えた岩室なり……(中略)……坂上将軍、この窟の前において、九間四面の精舎を建立し、鞍馬寺を模し多門天の像を安置し、西光寺と号して水田を寄附す」と述べている。

毘沙門堂縁起だけに高丸の名があるが、悪路・赤頭・高丸は別人であろう。
悪路王が坂上田村麻呂の戦った蝦夷の酋長とすれば、史実に照合すれば、悪路王は阿弖流為(アテルイ)、赤頭は母礼(モレ)のことになる。事実、毘沙門堂境内の碑は「アテルイの碑」と呼ばれている。


4,