2011年11月14日月曜日

■「モッコくるぞ!」とは何か

子ども時代に、秋田でも青森でも「モッコくるぞ!」と言われました、なに?



1、青森の「もっこ」とは
津軽弁の「もっこ」の意味を教えて下さい。
子供のころ、悪いことや夜更かしをしていると「山からもっこ来るぞ~!!」と叱られたものです。
当時はお化けみたいなものを想像しておりましたが・・・。
昔を思い出して、質問させていただきました。
  • ベストアンサーに選ばれた回答
ainori_dewiさん
(津軽弁)もっこ:(意味) お化け/蒙古?:(用例(翻訳))なーげばやまがらもっこくるぞ (泣いてばっかりいると山から蒙古がくるぞ)
http://www2d.biglobe.ne.jp/~oga/tsugaru/ben.html
もっこ=幼児語のお化け(蒙古の意) ※津軽の子守唄の一節に「泣けば山からもっこくるぁねぇ〜」がある。
この「もっこ」は蒙古の訛ったものである
http://www.jomon.ne.jp/~ja7bal/jiten.htm#mo

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小さな子供が悪さをしたときに、ここ八戸では今でも
「そったこどせば、蒙古ぁ来るぞ」 (意味:そんなことしたら、蒙古が来るぞ)
と言って叱ります。

ここで言う蒙古とは元寇の事です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87

800年前の元寇が、現代でもなお語り継がれているぐらいに恐ろしい国難だったのだということが分かります。

今こそ800年間語り継がれたこの戒めを、あらためて心に刻み直すときです。

祖国を護るため、ヨーロッパをも震え上がらせたあの蒙古大帝国に敢然と立ち向かいこの国を護った私たちの祖先に感謝しつつ、私達も後に続きましょう。

2、秋田でも

秋田県も、特に県北では多く使われたようです。
調べると秋田市でも使われたそうです。

【引用】
http://blogs.yahoo.co.jp/akatomoyuka/10894891.html


今日、職場の同僚であるY氏(秋田県K村出身)と何気ない会話をしていた時のことです。
”そういえば、子供のころ、悪いことすると、
そんなことしてると、もうがくるど~~、と怒られたっけ”とY氏。
”もうがくる?”
”そう、蒙古の”もう”らしい”
”は?うそだ~~~、秋田に蒙古?
 どうせK村のことだから、牛かなんかの”もう”でしょうが~~~”と僕。
”いや、ほんとだって、ね~、Mさん”と少しムキになるY氏。
Mさんはうちの職場のO.B.で、今はパートとして働いている、とても温厚篤実な方で、やはり秋田県出身。
”ええ、確かに元寇の蒙古が来るという意味だっとと思いますよ”とMさん。
さらに同じく秋田出身のSさんも、
”そういえば俺も子供のころ、”もうがくる”って怒られたことがあるけど、そういう意味だったんですか~~”と。
”う~ん、Yはともかく、Mさんがこんな嘘を言うはずがないな~~
 やっぱり蒙古の”もう”なんですね~~~”と僕^^;
”だからそう言ったでしょ~~~が!!!”とY氏。
モンゴル帝国が日本に侵攻してきたのは13世紀の後半、700年以上前のこと、
しかも、来寇したのは北九州で秋田には来ていない。。。
それにしても、モンゴルが実際に来襲し、殺戮が行われた北九州にならともかく、直接的な被害が無いはずの秋田でこんな言葉が残っているは何故だろう、
僕はそのあとしばらく考え込んでしまいました
それと、僕が子供のときに読んだ本に、やはりモンゴル帝国の侵攻を被った東欧にも、長く、子供を叱る言葉として”モンゴルが来る”という言い回しがあったと記憶しています(子供のとき読んだ本で、今はその出典を明らかにできません。僕の記憶違いで、この記述に誤りがあるときは、ご指摘をいただければありがたいです)。
モンゴルが席巻したユーラシア大陸の東と西に、しかも秋田の地に同じような言葉が残っていたことに、何となく不思議な感じがした1日でした^^

タタールのくびきが参考になりますね

大韃靼人論もどうぞ

3,岩手でも

【引用 深い深いお話です】
http://yumifukuzawa.typepad.jp/blog/2011/02/%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%B3%E3%81%8C%E3%81%8F%E3%82%8B.html
夢の中でわたしは民俗学者の柳田國男といっしょに 
東北の浜辺にいました。 
「岩手では泣く子に『モッコがくるぞ』というのを知ってますか? 
 あれは蒙古だといまでは説明されていて、あなたもそう思っていると 
 思いますが、モッコというのは元寇襲来以前からある言葉なんです。 
 モッコとは外の地からやってくるものなんですよ。 

 かつての日本人は防塁を作って、それをせきとめようとしました。 
 防塁をみるとわかるけれど、高いところでも2メートルほど。 
 石を積んでいるので、足場があって、簡単に登って超えられるものなんです。 
 元寇襲来のときは、なぜこんなものでせき止められたのかと言うと、 
 これは結界の役割を果たしていたので、日本が護られたんですね。 
 ところがいまはほら、結界は壊れている。 
 補修するには結界というものの大切さを理解してもらわないといけないし、 
 いちばん恐れているのは、いまは飛行機でいきなり結界を越えて、 
 内地へ入れることなんです。 
 この地の結界も、九州の結界もかんたんに破られて、 
 すでにさまざまな災厄が入ってきています。」 

4,津軽の子守唄
 津軽の子守唄(ねんねのおどさ)

    ねんねこ ねんねこ ねんねこせ
    ねんねのお父(ど)さは どこさ行た
    お父さ鶏コ町さ 鶏コ買いに行た
    姉さ鰈(かれ)コ町さ 鰈コ買いに行た
    兄さ裏の山さ 柴刈りに行た
    柴にはじかれて 七ころび
    もひとげりころべば 八ころび
    寝ェろォじゃァ ヤイヤイヤイ
    
    ねんねこ ねんねこ ねんねこせ
    
寝んねば山がら もっこ来らね
    姉さま育でだ 唐猫コ
    抱いたり背負(おんぼ)だり 飯(まま)食(か)へで
    それでも泣げば 山さ捨てで来る
    寝ェろォじゃァ ヤイヤイヤイ





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6 件のコメント:

エミシ さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
エミシ さんのコメント...

モッコとは、中世、山に逃れたエミシの末裔ではないでしょうか。
蒙古が山から来るかな?と。
五所川原の持子沢の地名の由来、そして、そこにある遺跡の意味・・・

中央からエミシあるいは鬼と蔑視され、征伐を正当化された人々の行く末が、当地の鬼伝説や神社に残っているのではと推測します。

Unknown さんのコメント...

初めてコメントいたします。私ら津軽に住む40代の公務員兼三児の母です。
さて、津軽には昔から記事にある「泣げば山からモッコ来るぞー」という子守唄があり、実際に私も両親祖母から歌われたものです。いつしか「モッコ」が「蒙古」と知った訳ですが、主様もおっしゃるように、なぜ北九州でもない北東北でこうも恐れられていたか、大変自然な疑問だと思います。
しかし、たった今NHKで「歴史秘話ヒストリア」という番組を見ていたら、その謎が解けたように思いました。再放送だったのですが、テーマは蒙古襲来。その中で、津軽には九州對馬から逃れてきた一族がおり、その方は故郷を忘れないように「對馬」を名乗ったそうです。その子孫の方が「小さい頃から悪いことをすると蒙古が来るぞと言われたものだ」と語っていました。ここでハッとしたのです。遠く北九州から北東北に逃れたご先祖様が、ずっと語り継いできたのか!と。確かに津軽には對馬(対馬)という名字の方がけっこういます。
いや、これもひとつの説、というだけのことですが。長々とコメント失礼しました。

Unknown さんのコメント...

蒙古来襲から36年後に「出羽蝦夷再蜂起」(1320~1322)と「安藤の乱」(1318~1328)がおきますがこの大乱は鎌倉幕府滅亡を導いた歴史的事象ありながらいまだに原因も詳細もわかっていません。ここでいう蝦夷は縄文人後継のエミシではなくアイヌ人が主体だとされてますが本州は北東北を含めて北海道除く日本の津々浦々まで幕府支配体制にはいりおり幕府成立から120年以上経過していています。元来アイヌは蒙古に追われてアムール川からやってきた移民ですから北海道に降りてきたばかりであって東北にはまだ存在していませんでした。存在するはずのないアイヌ人が突然東北に現れて反乱を起こすというのは全くおかしな話です。しかしこの大乱は船で北海道からやってきたアイヌによる大乱であり二つの安藤氏同士の戦いの幕府側安藤氏と対峙するもう片方の安藤氏がそのアイヌ傭兵を雇い入れ手引きしたとすればすんなり説明が付きます(津軽大乱の切っ掛けになった最初の出羽反乱はやはり男鹿の海岸地域でした)。ちょうどその数年前にモンゴル帝国と対峙していた南宋・呂文煥将軍はモンゴル軍にの懐柔政策によってモンゴルの将軍としての優遇を約束され、優秀な将軍に寝返られた南宋は総崩れとなって滅亡してしまいます。それと全く同じ戦略がモンゴル帝国によって日本に対しても行われていたはずは絶対になかったと誰が断言できましょうか。九州への蒙古来襲文永・弘安の役で実際に戦ったのはモンゴル兵ではなく殆どが属国の朝鮮兵と中国兵と北方民族兵(なんと九州にもアイヌ兵!)でした。北の蒙古来襲が本当にあったすれば、九州への蒙古来襲と同じくモンゴル兵であるよりも蒙古属国の傭兵が使われていたのはごく自然です。つまり秋田・青森の子守り歌に伝承として残っている「モッコ来るぞ」の「もっこ」とは「蒙古軍」であり蒙古の属国となった北海道や沿海州の「アイヌ兵」であって「出羽蝦夷再蜂起」と「安藤の乱」の長く厳しい乱世の時期のことを伝承したものなのではないでしょうか(地元古文書には無人巨大蒙古船が十七一隻海岸に乗りつけていたため安藤氏による山狩りの記述も残ってますが、蒙古軍の侵入なのか安藤氏の手引きなのか郎党・悪党の反乱主体なのかいまだ判然としてないゆえに自由に私的解釈させてもらってます。一般民衆には大変な乱世であったにはちがいありません)。蒙古来襲から100年後に下北の蠣崎蔵人は南朝皇室の血を継承する北部王家(新田氏)を殺害し乗っ取りをはかろうとして八戸・三戸南部連合に鎮圧される蠣崎蔵人の乱をおこしますが、このとき人員兵力ともに不利な蠣崎氏は北海道からアイヌを傭兵として大量に雇い入れています。この戦い蠣崎蔵人は先輩の安藤氏をまったく真似た戦いをしています。かつての朝敵蠣崎氏は今では北海道の偉大な父ですが、世界最大帝国モンゴルに南宋の呂文煥将軍と同等に扱われていた先輩安藤氏を蠣崎氏は誇りに思っていたかもしれません。あくまで私の推測です。ごめんなさい。

Unknown さんのコメント...

違うよ。
蒙古は確かにアイヌ攻撃したけど
東北来てない。
ムー大陸からモッコ(ムー人、毛人)は攻めて来たんだよ。
ムー大陸沈没で毛人が日本に来た。

匿名 さんのコメント...

上記2018年4月21日のコメントについて、五所川原市発行の「旧五所川原市の地名」に関連する内容が載ってますね。
以下、引用:
原子歴史を語る会の佐藤愼一氏は、村名の由来について、「古代においては、蝦夷のことを魅鬼(もこ)と呼んでいた。持子沢には、蝦夷の城跡ではなかったかとの説のある持子沢城(持子沢館)があり、ということは、持子沢には蝦夷が住んでいたのではないか。つまり持子沢は蝦夷の村、魅鬼の村であり、大和側の人達がモコと呼ぶ人々の住む地域であったことから、持子沢という名がついた」
https://www.city.goshogawara.lg.jp/lib/document/files/chimei43-106.pdf

当地域の丘陵地帯(標高約35m~200m)には9~10世紀に北緯40度以北~北海道で流通した須恵器の大規模な窯跡群(五所川原須恵器窯跡)や、古代の蝦夷館跡(原子館)や、北日本各地の蝦夷館地名と同様にエミシ・エゾとの関連が指摘されている所謂アイノ・オイノ系地名(狼野長根)も含んでおり、蝦夷が住んでいたことはほぼ確実かと思われますが、あとは原子歴史を語る会の伝承の信憑性ですね。
“山から襲ってくる”歌詞の謎や、この子守唄がなぜか北奥のみで唄われているという謎も同時に解いてくれる、現実味のある説ではあります。
付近の高屋敷館遺跡や、碇ケ関の砂沢平遺跡に見られるような微高地の防御性集落が平安時代後期から青森県を中心に頻出しており、その時期ないしは後の蝦夷館が各地に築かれた時期を想定できますが、その急襲を恐れた和人が近接した里に居住していたことも時代の比定条件として考慮しなければいけません。