2011年11月14日月曜日

■田村麻呂伝説の鬼「大竹丸」とは


東北のいたるところで坂上田村麻呂が鬼の「大竹丸」を追って打ち取ったという伝説があります。
大竹丸とはいったい何者か




【引用】

1 安倍一族が『大竹丸』
大竹丸の記述をする前に、先に申し上げておくが、筆者は膨大に史料に目を通した結果、大竹丸は安倍氏だと確信している。詳細は別称で述べるが、蝦夷で有名なのは「アテルイ」唯一人と言ってもいいほど、他には名前が知られていない。「前九年の役」の安倍頼良も蝦夷だとされるが、実際はそうではない。
下の絵図を見ていただきたい。
  日本の正史には、日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録があり、一般に「六国史」と呼ばれています。

『日本書紀』    (? ~697年) 720年完成。撰者は舎人親王など。
『続日本紀』    (697791年) 797年完成。撰者は藤原継縄など。
『日本後紀』    (792~833年) 840年完成。撰者は藤原冬嗣など。
『続日本後紀』   (833~850年) 869年完成。撰者は藤原良房など。
『日本文徳天皇実録』(850~858年) 879年完成。撰者は藤原基経など。
『日本三代実録』  (858~887年) 901年完成。撰者は藤原時平など。

日本書紀』は藤原不比等が権勢を誇っていた時代であることを考慮すれば、『六国史』の編纂すべてに藤原氏が関与していることになり、さらには『日本書紀』の撰者の舎人(とねり)親王は、安倍氏の中興の祖である『安倍倉梯麻呂』の孫にあたります。
 
 このような事情から、『古事記』も含め藤原氏が関与する『六国史』では、安倍氏を蝦夷や鬼と結びつける記述はありません。また、『六国史』の完成までの間が、安倍氏族の全盛期とも重なっており、それが、坂上田村麻呂と蝦夷との戦いにアテルイらの記述はあっても「大竹丸」が登場しない理由ではないかと筆者は推理しています。

安倍氏族の始祖「大彦命・建沼河別命」親子の足跡が、奇妙に鬼の伝承地とも重複しており、この親子の戦の伝承は意外と少なく、先住の土蜘蛛を同化吸収して平穏に定着していったと考えられます。
その安倍氏族の族長の一人が「大竹丸」だと直感するのですが、それを本章のなかで追究していきます。

2,鬼首

① 鬼切部
日本全国の鬼に関連する地名を網羅した『おもしろ鬼学』(北斗書房)が出版されているが、全国津々浦々まで鬼の物語や鬼に関連した神社仏閣が多い。

『岩手県の由来』
盛岡市三ツ割の東顕寺に注連縄が張られた三つの大石がある。岩手山が噴火した時に飛んできた石で、「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
当時、羅刹鬼(らせつき)という鬼が、里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は三ツ石様に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を大石に縛りつけてしまった。
羅刹鬼は「もう二度と悪さはしませんから、どうぞお許しください」というので、三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら」といわれ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った。
この地を、岩に手形を遺したことから『岩手』と呼ぶようになった。

このように隣接の岩手県も『鬼』に由来するが、当然、鬼首の地名には古代史にその名が遺されている。

『(財)東北電気保安協会のHP』
栗駒国定公園の標高300mの高原にあり、全国随一の湯量と自然の豊かさを誇る鬼首温泉は、応神天皇六年(270年)頃に、すでに発見されていたと伝えられていますが、歴史に初めて登場するのは、平安時代の寿永・文治年間(1182-1189年)、奥州平泉の藤原氏によって開かれたのが起源とされます。
 鬼首の名の由来は、延暦二十年(801年)、坂上田村麻呂が蝦夷平定に東征した際に『鬼』と呼ばれ、恐れられていた大竹丸を追い詰め、この地で首をはねたことから、ここの地名を鬼切辺と呼び、それが後に鬼首に変わったと伝えられています。



3,錯綜する大竹丸
坂上田村麻呂が鬼と呼ばれた大竹丸を鬼首に追い詰め、その首をはねたというが、大竹丸(大丈丸・大岳丸・大武丸・大猛丸・大滝丸・大高丸)様々な漢字表記があるが別人ではない。平安時代の万葉仮名(一種のルビ)は、大和言葉に応じた読みの漢字を、どれでも適当に書けばよいとされていた。
大竹丸の大は尊称、丸は男子を表し、名前の部分は「たけ」だけ。従って、普段は「たか・たけ・たき・たく・たこ」のいずれかで呼ばれていたのだろう。ただ、後の安倍頼良の一族に「高星丸」という人物がいることから、高と丸の間に漢字が一文字入っていたかもしれない。

『宮城の伝説』(角川書店)
征夷大将軍坂上田村麻呂の東征のとき、牧山で賊将大岳丸を退治し、死体を首・胴・手足に分け、牧山・富山・箆岳の三ヶ所に埋葬し、そこに観音堂を建立した。
そして、牧山には魔鬼(まき)山寺を建立した。また、田村麻呂が退治したのは、石巻地方にいた魔鬼一族の酋長の妻、魔鬼女(まきめ)であるともいう。

 宮城県の牧山(魔鬼山)・富山・箆岳(ののだけ)の三山には、観音堂が建立(跡地だけのもある)されており、「奥州三観音」と呼ばれている。(左上から牧山観音像・富山観音堂・箟岳観音堂)
田村麻呂が退治した鬼の体を分け、それぞれに埋葬しているとのことだが、富山(松島町)の鬼は『大竹丸』、箟岳(湧谷町)の鬼は『高丸』、牧山(石巻市)の鬼は『魔鬼女』と、鬼の名前が錯綜している。
宮城県遠田郡涌谷町箟岳の無夷山「箟峯寺」の伝承では、蝦夷征伐の時、田村麻呂は敵味方双方の戦死者を葬った上に観音堂を建てたのが寺院の始まりだと案内書に記している。
ただし、この地で黄金が採集されたことに留意を要する。


4,ネブタ祭と大丈丸
 ネブタ(侫武多・倭武多)祭りでは、大丈丸が登場するが、同一人物である。
各地に「ネブタ祭」があり、ネブタの語源は一般に「眠た」が語源とされるが、ネブタ祭りには「ネブタ流れろ」「まめの葉残れ」という囃子(ハヤシ)がある。ネブタとは「賊・土着人」で、まめの葉とは「忠義な味方」だとする説が有力である。

『侫武多(ネブタ)の由来』
昔、陸奥きっての悪者の頭であった大丈丸は、遠くは駿河の国から伊勢の国までやってきて、都に上る人々に悪事を働いていた。
そこで武勇の名高い坂上田村麻呂を征夷大将軍として、大丈丸を討伐することになった。田村麻呂に撃破された大丈丸は陸奥に逃げ込み、平内山(浅虫温泉)の砦に隠れた。この砦は海中に突き出て、三方は海だったので田村麻呂も容易に攻撃できなかった。
そこで、部下の一人が「里の人々に太鼓や鉦を打ち鳴らさせれば、悪者の大丈丸とて賑やかな祭りだと思い、物珍しさに気を許すはずです」と言上した。
早速、紙を張って魚や鳥などの形をつくり、たくさんの山車(だし)の上に載せ、その内部に大勢の兵を隠した。張子のなかに火を灯し、太鼓や笛の音を響かせて、砦へ近づいていくと、案の定、大丈丸は砦から出て、華やかな祭り行列にみとれていた。突如、兵士らが紙を破って躍り出ると、不意をつかれた大丈丸には応戦する暇もなく戦いに敗れた。
こうして田村麻呂は大丈丸を征伐して都へ帰っていった。 

『ネブタはトロイの木馬』
大丈丸をイリアス軍、田村麻呂をギリシャ軍に置き換えれば、ネブタはギリシャ神話の「トロイエ戦争」に登場する『トロイの木馬』の日本版だといえる。
従って、『田村麻呂の張子祭り』と呼ぶほうがリアルだと思われる。

大竹丸(ネブタ)討伐を祝う祭りであれば、征服された人々が侵略者の勝利を祝うという悲惨な祭りだといえるが、江戸時代の藩主が景気づけに考案した祭りだとのことなので、深い意味はなさそうだ。
大丈丸には『大嶽丸伝説』があり、こちらでは青森県の霧山(場所不明)に城を築いたとしており、ネブタと青森県の関係が分かりやすい。
できれば、近い将来、鬼首地区で大竹丸の鎮魂祭としての『ネブタ祭り』をしてもらいたいものである。

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【まとめ】
大竹丸(大丈丸・大岳丸・大武丸・大猛丸・大滝丸・大高丸)様々な漢字表記があるが別人ではない。

②『鬼』と呼ばれ、恐れられていた大竹丸

③青森ネブタは大丈丸で鬼


1 件のコメント:

加茂真明 さんのコメント...

大高丸は阿弖流為だと思います。
宮城県丸森町耕野大高丸に大高丸伝承があります。
大高丸の近く東北自動車道国見パーキングの所の地名は馬ノ墓です。馬は駒、駒は高麗を意味し夷大墓公阿弖流為の夷大墓とは渡来系蝦夷の墓所と考えられ、阿弖流為は高麗系移民の子孫とかんがえられます。
坂上刈田麻呂も高麗系移民の子孫で忌寸の姓を除く願いをしています。刈田麻呂、田村麻呂は阿弖流為と同族の渡来家移民の子孫と考えられます。もし、阿弖流為の根拠地が通説通り胆澤であったなら、胆澤公阿弖流為や胆澤公母礼と称されたとかんがえられます。根拠地に因む姓が与えられたと考えると、夷大墓k未阿弖流為の根拠地は馬ノ墓付近から丸森町耕野大高丸であったと考えられます。磐具公母礼の根拠地は伊具と考えられます。延暦八年に宦官が敗績した場所は阿武隈川猿跳峡谷部東岸であった。東山栗生から突然逆賊が襲いかかり官軍兵士は逃げ場を失い川に飛び込み溺者多数で敗績した。生き残りノ兵士が泳ぎ渡った所に兜渡という地名がつけられ現存している。阿弖流為、母礼等の根拠地ちかくである、