尊敬する安村二郎さんの鹿角市広報掲載文です。
八十五(7/10)
要 約
・初回の幕府巡見使(江戸初期)に、地元古川村錦木の古人・黒沢覚平が語ったものは変わっていないと判断、幕末(天保9年)の「御巡見御用控」による。
・「錦木塚の伝記」 長い長い物語が記されている。
・ただし、この物語には、古いなじみの政子姫など全く現れなかったことに、大きな疑問。
八十六(7/10)
要 約
・前回紹介の「錦木塚の伝記」は、最終回の九回目となる幕府巡見使(天保九年)に代々説明役の黒沢覚平の案内内容だった。
・概要
前半
①古川村赤森近く芦田原(現錦木付近)の市にて、鳥や兎の毛を織り交ぜた細布を売る美しい娘と、草木村から錦木を売りに出る若者と、いつしか愛し合う仲となる。
②若者は娘の親の許しを得るため、三年近くも錦木を娘の門に立てたが、親は一向に取り上げてくれない。若者も娘も悲しい想いが募り、ついに男は涙川に身を投げ、娘もその跡を追い空しくなる。
③親たちは嘆きのあまり、男女を一緒に葬り、三年立て置いた錦木をもつかに埋めたので、人々は錦木塚と呼んだ。
④その後も、男の通った道筋の狐崎より狐騒ぎ、松桂が谷のフクロウのさえずりもかしましく、帰り道涙を洗った涙川、その通い路をけふの細道というなど。
⑤塚のほとりに現れる美しい女の機織り姿は、かえって遠く離れた物見坂からだけ見える。
・昔の室町時代初期の世阿弥が書いた謡曲「錦木」の筋を通日に語り継いで、説明の前半部分を終えている。
後半
・前半との脈絡を絶つが如く
①天長年中(824~834)淳和天皇勅命にて錦木を改め「錦木山観音寺」とした。
②三大日を建立。万谷田中の中台寺、小豆沢の喜徳寺、長牛の仁量寺
③古えの歌書・謡本に伝わる通り、前代まで塚の中から機織る音が聞こえるのを、大湯の領主不思議に思い、中に有るは何かと掘ってみたところ、その後」一切機の音は無くなった。で終わる。
・疑問(2)
この後半の説明内容は、果たしていつの時代に、何を根拠とし、突如といってよいほど、近世中期に及んで追加されたのだろうか。
・私の結論は
延享二年(1745)黒沢覚平自らが公開した、「奥州狭郡錦木山観音寺縁起」の外には考えられない。
・短期間のうちに鹿角はもちろん、全国的に流行をみたのは、毛馬内桜庭家中の文人集団の献身的案内活動にあった。
・その内容は次回
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