読み直してみれば、また安村さんの素晴らしさを感じます。荒俣宏さんもこれを参考にしたのではないでしょうか。
七十八(1/10)
1,要約
・鹿角は全国に聞こえた伝説の里。とくに十和田湖と八郎太郎、錦木塚、だんぶり長者の三大伝説は、ともにスケールの大きさ、史実との関連性、修験信仰との習合などにおいて、いずれも東北地方の代表的なものとの評価を得ている。
・とくに錦木伝説の特色をあげるとすれば、発端となったのは人物でなく、鹿角を含む古代みちのくの珍しい風俗・習慣ともいうべき「錦木」「けふの細布」という、歌枕そのものが主人公でした。
2,「錦木」の解釈いろいろ
①薪だとする説:毎日の薪集めは娘の持前、思う娘の手を荒らすまいとして、そっと門の外に置く 薪一束のこと(柳田国男説)
②錦木をアイヌのイナウとみ、イナウは神を招き降ろす時に立てる木幣のこと(金田一京助説)
③いずれにしても、錦木とは色どり飾った木を求婚の印に女の門に立てたもの、女に承諾の心あ れば家の中に取り入れ、その心なければいつまでも門の外に晒すという、文字を知らぬエミシ社 会の風俗であった。
3,「けふの里」の解釈
北地の防寒具、平安後期のほとんどの歌学書には、けふの細布とは機はりせまき布、鳥や兎の 毛を織り込んだ布。小袖のように下に着るもので、胸まではかからないもの。
4,平安貴族の好個の「歌枕」となった。
①「錦木」・・・みちのくの鄙びた風俗である錦木仲人木としてたてる求婚法
②「けふの細布」・・・細布の幅が狭くて胸が合わないという悲恋のイメージ
・この歌枕が最初にあらわれたのは、能因法師「錦木はたてながらこそ朽ちにけれけふの細布むね あわじとや」、
・能因法師は前九年の役終息期・・・源氏武者が京に話を広めたと想像する。
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七十九(2/10)
要 約
1,錦木伝説の発生は
前九年合戦に重なる。源氏軍団の将兵が戦線参加のため米代川を行軍・駐屯の折に、初めてエミシ村の珍しい習俗と物語に接触し、帰京の度ごとに京都の人々に披露。
2,やがて貴族たちの関心をとらえ、
「錦木」「けふの里」が歌枕として競って和歌に詠み込まれた。
・このように歌枕的情感を込めて温かくエミシ社会を理解するということ自体、かって九世紀初頭エゾ平定の際、坂上田村麻呂将軍の助命嘆願も空しく、エゾを鬼畜に等しい存在とみる公卿たちの反対により、アテルイやモレが非情にも処刑された時代に較べ、まさにエミシ認識の革命的変化であった。
3,十一世紀半ば過ぎの前九年合戦
からわずか四十年足らず後、見事実現した王朝国家のエミシ政策転換に、実はわが鹿角歌枕こそ原動力の一つに数えられてよいようにさえ思う。
4,その後、鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」に、
平泉二代基衡が仏師雲慶への礼物とした奥州選り抜きの特産物、円金、鷲の羽、アザラシの皮、安達絹のつぎに「けふの細布二千反」がひときわ目立ち、其の存在を明らかにしている。
5,「錦木」が再び世に現れるのは、
室町時代の初期、世阿弥の謡曲「錦木」によってでした。
しかし内容は陸奥狭布の里の地名の外、無名の男と女と旅僧三人の綿々たる語りに終始するものでした。
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