『日之本文書』
『日之本文書』は秋田氏の三春藩の民衆が中心に編纂した
『日之本文書』(『和田家文書』)は、どのようにして成立したのか。奥州三春(みはる)藩主秋田倩季(よしすえ)は「太古からの祖伝を東日流より諸縁者を訪ねて、安倍、安東、秋田一族にまつわる諸伝を集綴(しゅうてい)するように」との通達を出し、この命を受けた秋田土崎湊の秋田孝季(たかすえ)と津軽飯詰(いいづめ)の和田長三郎吉次(よしつぐ)らが、日本全国を行脚(あんぎゃ)して、一七八九年(寛政元年)から一八二二年(文政五年)の三十三年間に収集、聴取、編集、著述した文書である。
安倍氏、安東氏、秋田氏の累系である三春藩は、天明五(一七八五)年の城下の大火災で大きな被害を被っている。城の文庫も焼落し、多くの史書、諸書、文献が焼失してしまった。しかし、この不幸な災害を契機として、『日之本文書』という壮大で貴重な文書の収集、編纂がはじまったのである。
その後、城下再建のために借財に苦しむ三春藩からの援助も途絶え、秋田家、和田家ともに全精力を集中し、私財を投げうっての一大事業となった。さらに、これらの伝承、記録を文書の損傷、焼失などから護るために、江戸末期には和田基吉、権七(ごんしち)、明治に入って、末吉が大正のはじめまで、長作が昭和のはじめまでに再書、加筆してきたものである。秋田家の正本は焼失し、和田家に残された副本だけが残り、そのために『和田家文書』とか『和田家資料』とか呼ばれてきた。
現在に伝えられた『日之本文書』は数千巻にのぼり、それは実にシュメール都市国家からはじまった共同体国家の歴史書であった。それは諸民族の語り部が語り継いできた伝承の集積でもあった。ここにこそ人類の真の歴史が叙述されていることが認識できる。ここにこそ人類の良心が凝縮していることが認識できる。この平和と和睦と盟約と平等と連携の世界、すなわちクリルタイの世界に生きてきた人々の歴史こそが、人類に共有されなければならない。
『日之本文書』は朝幕藩ご法度、門外不出の禁書だった
『日之本文書』には、倭国によって創作された『古事記』『日本書紀』などと違って、歴史の真実が克明に描かれ、倭国の日之本国に対するさまざまな横暴、侵略行為が、生々と描かれているために、「他見無用」「門外不出」「朝幕藩法度」の禁書であった。この禁を犯していることがわかれば、文書の没収、焚書のみならず、当事者の流刑、処刑もありうるのである。秋田家の出火も三春藩の大火も、その筋による放火の疑いが強い。
「北鑑 第七巻」[書意]は、『日之本文書』寛政原本の再書作業、写本作業について、具体的に描いている。この文章には「大正元年正月一日 和田長三郎末吉」との署名があるように、明治写本の当事者である末吉のものであり、『日之本文書』の性格と変遷過程がわかりやすく、謙虚さをもって解説されている。彼の日之本の良民としての人柄がしのばれる。
「この書は古紙に再筆しているため、はなはだ読み取りがたい文章となり、誠にもって申し訳もない綴り方に相成り、これも百姓ゆえの貧しさに、紙代もままならず、ここに読み取りの労を心中からお詫びし、その旨を書き添えるところである。また、小生の請願に、この古紙を快く提供していただいた佐々木氏(五所川原の商家)に対して、有り難く感謝に耐えない次第である。
この史書は、わたしが綴ったものではなく、父及び先代の残した虫食いで朽ちたものを廃棄にしのびず、ここに再書をもって残して置いたわが志しに理解をいただき、夜明けである時々進歩する大正の世に、文語のものを解りやすく綴ったものである。
しかるにこの書は世にはばかり、倭国史が敵視するものである。よって代々にわたって日の目をみることがないのは無念に思うが、残し置くことによって、永代後に必ずや真実を表す鍵となるだろう。よって門外不出を心得、また、他見無用として、わが東北の日本史として大事とすべきである。真実は二つなく、また、その上の論はないだろう。よく心得るべきであろう」
この文章にも触れられているように、虫食いの寛政原本を明治、大正、昭和の初期に、和田末吉とその子息、長作が五所川原の商家から譲り受けた大福帳の裏に再書したものが現在も保存されている。明治写本と称される。そして今、「永代後に必ずや真実を表す鍵」となって、われらの眼前に出現したのである。これは奇跡の中の奇跡である。
『日之本文書』への倭国勢力による未曾有の偽書攻撃と奇跡の復活
『日之本文書』は、昭和四〇年代に青森県五所川原市の和田家から発見され、昭和五〇年以降に『市浦村史資料編 東日流外三郡誌』の三巻本として市浦村から発刊された。和田家は『日之本文書』の編纂、再書に深くかかわってきた家系であった。この文書が『古事記』『日本書紀』などの公認史とはまったく逆の立場から、すなわち征服された人々の立場から真逆の歴史が書かれていたために、大変なブームを引き起こした。
しかし、倭国の公認史やアカデミズムの歴史観をまもろうとする、揚げ足取りや新説否定を得意とする偽書派によって、『日之本文書』の中の『東日流外三郡誌』が、集中攻撃を受け、三〇年以上も前から「偽書」のレッテルが貼られてきた。この攻撃たるや執拗で、組織的で、極めて悪質なものであった。
偽書派の批判は、元の所蔵者とその行動に対する論難がほとんどであり、『和田家文書』に対する正当な批判はほとんどまったくなかった。彼らの『和田家文書』に対する論難はほとんどあたっていない。『和田家文書』は再書、加筆が繰り返されてきた伝承文献であるために、誤解が生じやすい文書であるが、悪意をもって特定の勢力の利益ために故意に捏造された「偽書」という範疇にはまったく入らない。『和田家文書』(『日之本文書』)は真実の書であるだけでなく、奥州人、日本人、いや世界の人々、人類にとっても貴重な文書であることは、偏見のない、真摯な立場で研究すれば、理解できるだろう。そこには宇宙史、地球史、人類史からはじまって、シュメール系の共同体国家の歴史が、連綿と詳述されているからである。
六年前ほど前から流れが変わってきたのである。寛政原本の一部が膨大な文書群の中から出現し、それが寛政年間に書かれたものであることが、責任ある研究機関、研究者、すなわち国際日本文化研究センター研究部教授笠谷和比古氏の手で証明され、「『東日流外三郡誌』は現代人が創作したものである」という偽書派の最大の論拠が崩れたのである。さらに活字化されていない文書も公開されはじめ、それの研究も本格化しはじめ、その研究成果も公表されはじめている。『日之本文書』は奇跡の復権をはたしたのである。
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