秋田県に関することを抜き出します
テルイの首像
『「日之本文書」とアテルイ・エミシの戦い』より
アテルイ
アテルイとは荒覇吐五王の一人で、祖先は山靼人
桓武天皇の延暦年間に、胆沢(現在の岩手県胆沢地方)エミシを中心に、五万人以上の朝廷軍を向こうに回して、互角以上に戦い、大勝利をあげた戦いは、日本列島でも最大の先住民抵抗戦争であった。この戦争を指導したのが、。胆沢エミシの族長であり、荒覇吐五王の一人、阿弖流為(アテルイ)であり、磐井エミシの族長であり、荒覇吐五王の一人、母礼(モレ)であった.
彼らは日高見国の種族連合、荒覇吐五王連合の戦士を見事に組織し、神出鬼没のゲリラ戦によって、大和朝廷に大打撃を与えた。
彼らは日高見国の種族連合、荒覇吐五王連合の戦士を見事に組織し、神出鬼没のゲリラ戦によって、大和朝廷に大打撃を与えた。
『北斗抄 十三ノ四』には、阿弖流為が日高見国の中で、どのような地位を占めていたかが記されている。この文章を読めば、王国の構造が見えてくる。
「荒覇吐五王の一人に四の阿弖流為がいた。日本将軍安倍国東の四天王である。延暦二(七八三)年、安倍国東が領土を武蔵に拡め、その住居を移した。よって胆沢の住居を四丑の阿弖流為に住まわせて、その統治を任せた。
陸奥の領土を任せたのは阿弖流為のほか、磐井の母礼、飽田の鬼振、閉伊の悟理貴、庄内の勘太、黒川の頼貴、磐城の松蟲等である。これを束ねたのが阿弖流為である。坂東に常駐する日本将軍安倍国東のもと荒覇吐王の指揮によって統治した」
阿弖流為とは、現在の岩手県水沢市にある跡呂井(あとろい)を本拠地とする荒覇吐五王の一人、東王である。四丑は「しうし」と読み、現在の四丑橋の地名と関係あるだろうか。あるいは巣伏地名と関係あるだろうか。モレは、現在の前沢町(水沢市の南隣)を本拠地とする五王の一人である。当時の荒覇吐五王は、この二人のほか、高丸王、阿黒丸王、阿氏利為王からなっていた(『東日流外三郡誌 第四巻』[東日流精霊灯之由来])。
『北斗抄 十三』では、阿弖流為と母礼の祖は山靼人であり、満達からきたとされる。「阿弖流為及び母礼の祖は山靼人である。彼の先祖の出身地は興安嶺満達であり、騎馬首領である。日本将軍安倍安国によって帰化が許され、一族百四十人、老若男女、出羽に渡り、陸奥人となった。それ以来、安倍氏の臣として、騎馬軍師を勤めている」と。興安嶺というのは、中国黒竜江省の山岳地帯で、ロシアに接し、モンゴルにも近い、騎馬民族が跋扈(ばっこ)する地方であった。おそらく軍馬の取引から友好関係がはじまったのであろう。ここにも外来者を快く受け入れて厚遇する安倍一族の度量が現れている。
阿弖流為、母礼の胆沢連合軍は、千数百人の戦士からなっていたが、これを支えたのはエミシの種族連合勢力、日高見国そのものであったに違いない。和賀、稗貫、斯波、閉伊のエミシ種族連合、東西南北の日高見国も胆沢部族連合を支えたと考えられる。さらに中央の権力争いに敗れた物部氏、大和朝廷に敗れた磐井氏などの亡命勢力が、何らかの支援をしていた可能性もある。日高見国全体では数万人の兵士がいた。
『北斗抄』[阿弖流為軍鑑]は偽作ではない
「北斗抄 十三ノ九」には、阿弖流為と田村麻呂の責めぎあいについての文章が続いている。その中に「阿弖流為軍鑑」というものが掲載されている。この名簿が創作だとして、偽書派の攻撃を受けている。はたしてそうなのか。
阿弖流為軍鑑
櫻河磐具驛(さくらがわいわとものうまや) 磐井土基
羽田大萬柵巣丑(すうし) 大公多岐志利(たきしり)
田茂亜吐呂井(たもあとろい) 阿弖流為(荒覇吐五王の一人)
男女川七清水 伊治公津加奴(いじのきみつかぬ)
北鵜貴(きたうのき)大林苑台 金車流奴
江刺厳堂柵丑寅 母禮高丸(荒覇吐五王の一人)
膽澤(いさわ)川羽黒台四丑 大貴利高丸
日高見川澤尻 森加美彦
衣川江刺子柵 安倍継重
米澤内牛子 清原吐部
江尻子和賀丘 津奴多美
伊津沼太媛迫 及川多民奴
伊具津保化山(いぐつぼけやま) 玄武東日流丸
飽多(あきた)高清水 尾野津部奴
生保内(おぼない)石津 小鴉津化丸
荷薩體(にさたい)安日山鍋越 大津奴彦
閉伊魹崎(とどがさき)十二神 荒覇吐丸
[阿弖流為軍鑑]は阿弖流為のもとに結集した軍事的リーダーの名簿である
阿弖流為は、荒覇吐国の東王国の王であり、荒覇吐国の軍事総司令官の位置にあった。彼は現在の岩手県の中南部、胆沢を統治していた。この「阿弖流為軍鑑」の十七人の名前を見れば、胆沢、磐井を代表する軍事リーダー(将軍)が多いが、北王国(東日流、荷薩體)、西王国(飽田、出羽)、東王国(閉伊)、南王国(宮城、伊具)の将軍たちも含まれている。つまり、日高見国の五つの王国の将軍が名を連ねているのである。このため一つのリーダーが受け持つ地域は、比較的広域になる。名前に冠している地名は、彼らが受け持つ地域の代表的な二つか三つの地名を表している。阿弖流為の軍隊が、どれだけの人員がいたか。それはまさにこの軍鑑の最後に「右の者は阿弖流為配下の将軍たちである。挙兵すれば、そのたびに皆勇猛に戦う。その数は二万三千人である」と述べられている。彼ら一人一人が千人近くを束ねるリーダーだったと考えられる。この名簿に出てくる名前は、阿弖流為配下の胆沢とその周辺の兵士のそれではなく、荒覇吐王国から結集した軍事的リーダー(将軍)の真実の名簿である。
将軍は東日流、荷薩體、閉伊、飽多、宮城、伊具、米澤など、東西南北の王国から結集したものであり、前述のように地名は比較的広い地域の二つから三つの地名を連ねて書かれてある。これでリーダーの出身地がわかる。
それらの地名のほとんどは、延暦年間当時のものが、そのまま使われたと考えられ、一部は再書の段階で明治以降のものに、再書者である末吉や長作によって書き換えられた可能性も否定できないが、万一そうだとしても、それによって偽書ということはできない。
偽書派は文書の筆跡が和田喜八郎のものだと述べているが、彼の筆跡と明治写本の力強い筆跡はまったくの別物である。それは明治写本を書写した和田長作の筆跡であろう。ダイナミックであり、達筆である。偽書派は「末吉は文盲であり、長作は字を書けなかった」などとデタラメを述べているが、とんでもない思い違いである。彼らもまた、庶民の中の英傑である。
[阿弖流為軍鑑]の地名は『日之本文書』の真実性を証明する
最初に「櫻河磐具驛(さくらかわいわとものうまや)」と出ているが、「櫻河」はおそらく現在の水沢地区の四丑村、茄子川村、安土呂井村からなる佐倉河(さくらかわ)村の旧名ではないかと考えている。ここに胆沢城が造られたほどの要衝であった。驛(うまや)というのは、少なくても延暦年間に先立つ天平宝宇年間(八世紀中頃)には、すでに奥州各地に設けられていた驛(当時の幹線道路の要所に設けられた、人や馬の休憩地であろう)のことである。[阿弖流為軍鑑]に二つの地名を合わせた「櫻河磐具驛」という地名がでてきても何の不思議はない。
「伊具津保化山」という地名が出てくるわけがないと彼らは主張しているが、伊具は宮城県南部の伊具郡の地名であり、津保化というのは東日流に限られた言葉と考えられているが、奥州のかなり広い地域で津保化という言葉、地名が使われていたので、いずれも古代からあった地名、言葉である。実際にこの地名は、現在も伊具郡にツボケ山として残っている。『總輯 東日流六郡誌 全』には「津保化族が居住する地は、東海(奥州の太平洋沿岸)にも伸びていって、亘(わたり)郡のツボケ山まで至った」と述べられている。また『東日流外三郡誌大要』[安倍安東秋田氏遺跡八十八景図]の五十七番には「ツボケ山亘荒覇吐神社」の図が掲げられている。亘とは亘理、和多里とも表記した。
その他「巣丑(すうし)」は四丑(しうし)ないしは巣伏(すぶし)、「亜吐呂井(あとろい)」は跡呂井(あとろい)、「伊津沼」は伊豆沼(宮城県栗原郡)、「安日山」は安比山(岩手県八幡平市)、「北鵜貴」は北鵜ノ木(水沢市黒石町)、「魹崎」は魹ヶ崎(宮古市重茂(おもえ)半島)、「日高見川」は北上川、「江尻子」は江釣子、「飽多」は秋田に変化したと考えられ、疑義を差し挟む余地はないだろう。
江刺、衣川、米澤、和賀、生保内(おぼない)、田茂(山)、膽澤(いさわ)、荷薩體(にさたい)、高清水(秋田県秋田市 秋田城のあったところ)などは、一部簡略体となって現在でもそのまま使われている。
[阿弖流為軍鑑]の人名「磐井」は九州王朝の勇者から来ている
[軍鑑]の人名も本物であろう。そこに「磐井土基」という名前が出ており、「磐井」という名前が、偽書派は、九世紀のはじめに立県されたとされるので疑義があるとしているが「磐井」の地名がなぜ使われるようになったか、まったくわかっていない。「磐井」の由来について納得できるかたちで説明している偽書派は一人もいない。
岩手県の南部に西磐井郡、東磐井郡という地名が残っているが、これは六世紀の継体天皇に反抗した「磐井の乱」で有名な九州の王族であった磐井氏が敗北し、日高見国の磐井地方に亡命したという記事が『日之本文書』に載っているように、磐井という地名は当地に亡命してきた九州の磐井氏から名付けられたことは間違いないだろう。
「丑寅風土記 第全六ノ四」[丑寅日本国奇談]には「安倍一族をして筑紫、磐井一族と親交があり、磐井一族が敗れたときは、その郎党一族を奥州に招きいれたのは陸州磐井郷なり」と述べている。「磐井土基」という人物も当地へ亡命してきた磐井一族の流れと考えられる。
荒覇吐一族のものは、姓のないものが多く、丸や奴や彦がつくものが多く、現代人が勝手に付けたものではない。安倍姓も当時から使われていたのであろうが、清原姓については当時から使われていたかは、まだ判断がつかない。阿弖流為の大墓は「たも」と読み、田茂からきているだろう。このように[阿弖流為軍鑑]の名簿は『日之本文書』の真実性を表現しているのであり、偽書派の何の根拠もない批判にさらされても、少しも揺らぐものではない。
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