秋田孝季
当時第一級の知識人であった秋田孝季は長崎の出島などで最先端の洋学を学んだ
『日之本文書』編纂の中心人物である秋田孝季は、江戸末期にあって、なぜ、宇宙史的、地球史的、人類史的文献をまとめることができたのか。孝季は長崎出島目付役の橘左近将督の子どもとして生まれ、隆将(たかまさ)といった。父親は洋学を学んだことで失職し、孝季が青年期に死去した。母親は久世隠岐守広敦の娘紀で、夫が亡くなった後、三春藩主秋田倩季の側室となり、隆将は秋田孝季と改名する。
その後、孝季は父の縁で長崎に学び、学問を修めていたのである。彼は父親の影響で外国語にも堪能で、出島に来航していたオランダ人、イギリス人などの学者、駐在公司などから、当時最先端の洋学を学んでいた。彼はロシア語、オランダ語、中国語、ラテン語に通じていたとされる。孝季は長崎外藩目付け、平戸商館の通訳をするが、アジア通商の中心地であったマカオにオランダ船で密航し、イギリス人学者に学んだために職を解任され、秋田土崎に戻っていた。
その後、老中田沼意次と三春藩主から命を受けて三度のユーラシア探訪、四十年近くの間に、日本列島探訪を繰り返した。このため当時において、稀に見る広い知識を身につけることができたのである。それなくしては『日之本文書』(『和田家文書』)は成立しえなかった。
北方、シルクロード、オリエント視察のきっかけを作った田沼意次
「北鑑 第四十九巻」「記」は『日之本文書』の来歴を次のように述べ、「丑寅日本の宝書となるであろう」と述べている。しかし、その価値は人類史的なものと成り始めた。
「本書(北鑑)を書写する方法は、秋田土崎(現在の秋田市)において焼失した原書の控えの書であり、原書に入っていなかった雑記も、ことごとく記述したものである。よって原書より諸史、諸雑話、諸伝の玉石の混淆(ぎょくせきのこんこう)した綴(つづ)りとなったが、歴史を尋ねた幾十年の旅に続けた諸国の縁(えにし)によって、皆、記入したものである。
失われゆく故事来歴を、丑寅日本国(うしとらひのもとこく)にとどまらず、田沼意次(たぬまおきつぐ)殿の特別の許可によって、山靼(さんたん)、古代オリエントの諸国に出掛け、歴史の根元を探ることができた。われらが永きにわたり、まつろわぬ化外地(けがいち)の蝦夷といわれて、先祖から開化を止められてきたが、本書は必ずや丑寅日本の宝書となるであろう」
なぜ、『日之本文書』は、江戸幕府の鎖国政策のなかで、シュメールやシルクロードの情報を収集できたのか。なぜ、このような探訪が可能になったのか。江戸末期には、江戸幕府はロシアによる極東における南下政策に危機感をいだいていた。時の老中田沼意次の指令によって、三春藩主導の北方探検が行われたのである。
「日本北鑑 全」の[丑寅日本鑑證]によれば、天明元年(一七八一)年七月、田沼意次が、三春藩藩主、秋田倩季(千季 ゆきすえ)に北方地域や山靼国の視察を依頼し、倩季が秋田孝季に禄を与えて、この大旅程に旅立たせた。三春藩は石高こそ多くはないが、安倍一族以来の大陸交易などで蓄積した隠し財産があったようである。
秋田孝季は、一七七〇年代、八〇年代に合計三回の山靼探訪、シルクロード、オリエント探訪を行っている。シベリアからステップ・シルクロードを通って、メソポタミア、エジプト、ギリシアにまで出掛けている。この間、多くの地図や書物を手に入れ、書き記した記録は数十巻にもなっている。この三度にわたる山靼探訪が、『日之本文書』をしてインターナショナルな文書になさしめたのである。山靼探訪をおおまかに振り返ってみよう。
第一次山靼探訪。安永三(一七七四)年、秋田孝季ら八名。田沼意次の直命。土崎→サガリイ→モンゴル→満達→北京→揚州→日本。中国の古書を購入。
第二次山靼探訪。安永九(一七八〇)年から天明二(一七八二)年まで。田沼意次の直命。秋田孝季ら二十二名。サガリイ→モンゴル→天山→トルコ→ギリシア→エジプト→イスラエル→シュメール→天竺→西域→揚州→松浦。田沼意次への報告書もまとめる。
第三次山靼探訪。天明六(一七八六)年から天明八(一七八八)年まで。松前藩、渡航準備。幕府(田沼意次)公金三千両三春藩に賜り、孝季に下領。意次失脚。渡島→樺太→黒竜江→チタ→ラシュト(カスピ海)→バグダッド→黒海→イスタンブール海峡→エーゲ海→トロイア→ギリシア→エジプト→シナイ半島→紅海→天竺→中国→帰途。極秘裏の偵察旅行であったが、幕府公認の大事業であった。幕府は公金三千両を三春藩を通じて孝季に下領されたという。
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