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•7世紀の中頃には、朝廷の勢力範囲は日本海岸沿いでは新潟まで達しておりました。そこから北は蝦夷地です。この頃、阿倍比羅夫は北陸の越国の国司をしておりました。
•658年(斉明4年)4月、阿倍比羅夫は、船180艘を連ねて日本海岸を北上しております。武力偵察としては規模が大きすぎます。
•半島で百済と新羅とが戦火を交えている時にしては、よくもこんな大軍を奥州に派遣できたものです。
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白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦のことである。
この戦いは、唐・新羅連合軍の勝利に終わった。大陸に大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。この敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革が起きた。この結果、倭国から日本に脱皮するようになるなどの大きな影響を日本にもたらした
- 第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫(父)、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊。661年5月出発。
- 第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。662年3月出発。
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•今の秋田県の雄物川の河口のアギタ浦(今の秋田市)に着いた時、アギタ蝦夷の首長の恩荷(オガ)は安倍比羅夫に恭順しました。阿倍比羅夫はこの恩荷に、小乙上という官位を与えております。
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•660年(斉明6年)三月には、阿倍比羅夫は第二次遠征に出発しております。この時は200艘の大船団を引き連れております。
•ある大河の河口に来ると、渡島(ワタリシマ)の蝦夷が1000人ほど集まっておりました。この中から二人の蝦夷が走り出してきて、「ここに突然粛慎(ミセハシ)の船が襲ってきたので助けて欲しい。」と、安倍比羅夫に懇願しました。
•阿倍比羅夫は粛慎と接触しようと思って、浜辺に布・武器・鉄などを置きましたが、粛慎は逆に攻撃してきたので、両軍は矛を交えることになりました。
•粛慎の内49名を捕虜としましたが、比羅夫の側も能登臣馬身竜が戦死しております。
•この粛慎という部族は、大陸から来たのか、北海道・樺太から来たのかは分っておりません。少なくとも、この地方に住んでいる蝦夷とは違った種族だったようです。
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蝦夷征討・粛慎討伐 [編集]
- 斉明天皇4年(658年)4月 - 蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。同年、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。
- 斉明天皇5年(659年)3月 - 蝦夷国を討つ。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
- 斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎を討つ。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。
- 斉明天皇6年(660年)5月 - 夷50人余りを献じる。また、粛慎の37人を饗応した。
白村江の戦い [編集]
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•今度は、陸地に柵戸を作って徐々に北進を開始していくのです。
•何れにしても、この阿倍比羅夫の後、8世紀になっても蝦夷の騒動が続き、
709年、720年、724年、・・・と蝦夷征討の軍を次から次と繰り出しております。
•記録に残っている初期の頃の蝦夷征討の将軍として、阿倍比羅夫はその名を現代に残しているのです。
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