2011年11月14日月曜日

■渤海国とは

秋田城と外交があった渤海とは



渤海国
【WIKIより】

渤海(ぼっかい、698年[1] - 926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシア沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹)によって滅ぼされた。
新唐書』に、渤海は本来粟末靺鞨であり高句麗に従属していた、姓は大氏である(渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏」)と記す。
旧唐書』と『新唐書』では渤海靺鞨の指導者大祚栄に関する記述は異なる。『旧唐書』では渤海靺鞨大祚栄は出自は高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也「渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり」)としているが、『新唐書』では粟末靺鞨の出としている。
『大金国史』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。
渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。
渤海の名は本来、遼東半島山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである(→「渤海 (海域)」)。初代国王大祚栄が、渤海沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。
以下、本項では歴史上に存在した国家としての「渤海国」を扱う。民族としての「渤海民族」については、別項渤海人を参照。




満州の歴史
遼西郡箕子朝鮮東胡粛慎濊貊
遼東郡
遼西郡
遼東郡
前漢遼西郡衛氏朝鮮匈奴
遼東郡
漢四郡夫余沃沮高句麗
後漢遼西郡烏桓鮮卑挹婁
遼東郡
玄菟郡
昌黎郡公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋平州
慕容部宇文部
前燕平州
前秦平州
後燕平州
北燕
北魏営州契丹庫莫奚室韋勿吉
東魏営州
北斉営州
北周営州
柳城郡靺鞨
燕郡
遼西郡
営州松漠都督府饒楽都督府室韋都督府黒水都督府渤海国安東都護府
上京道
中京道
東京道
女真東丹国
定安国
東京道
東京路
上京路
東遼後遼大真国
遼陽行省
遼東都司奴児干都指揮使司
建州女真海西女真野人女真
清朝満州

東三省
ロシア帝国東シベリア総督府
沿アムール総督府
中華民国
東三省
極東共和国
ソ連
極東
満州国
中華民国
東九省
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区
朝鮮半島を中国とみなす記述
Portal:中国
Portal:朝鮮

目次

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歴史 [編集]

690年に即位した武則天が執政した時期は羈縻支配地域に対する収奪が激しくなり、唐によって営州都督府の管轄下にあった松漠都督府(現在の遼寧省朝陽市)の支配地域に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、粟末靺鞨人は指導者乞乞仲象の指揮の下で高句麗の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で「渤海郡王」に冊封された。
国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。これに対し大仁秀は北方諸部の攻略と郡県の設置を行った。特に渤海に対し独立した勢力を保有していた黒水部を攻略することに成功し、黒水府を設置した。これにより黒水部が独自に唐に入朝することはなくなり、その状態は渤海の滅亡直前まで続いた。他にも鉄利府、定理府、安辺府、懐遠府を設置し、遼東半島などをのぞいて旧高句麗の領土をほぼ回復し、「海東の盛国」と称されるようになった。


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これだけでは何がなんだかよくわかりません

大韃靼人を御覧ください



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