1、田道将軍が鹿角に
•仁徳天皇(約千六百年前:331年)鹿角に住んでいた人達は、蝦夷と云われていて、天皇の命令を聞かない人 達が住んでいたのです。
•それで、仁徳天皇は都でも一番戦の上手な、田道将軍と云う偉い大将を「蝦夷征伐に行って来い」と言って都から攻めて来らせたものでした。
•田道将軍は、米代川を遡って、古真木の処の石野と云う処に上陸して、鹿
角に攻めて来ました。
・ その時、鹿角に居た蝦夷達は、丸館の近くの軍森に集まって、田道将軍の兵隊を
迎えた
2、田道将軍が鹿角で死亡
•田道将軍は石野から段々軍森に近付いて来たが、それで蝦夷の兵隊達は将軍の兵隊達
に負けられないと思って、寺坂カの下の方の鹿角沢の処で待ち構えていて、
両方の兵隊の戦が始まりました。
•初めは、戦の上手な田道将軍の方が勝っていましたが、けれども、段々田道将軍の方
は人数が少なかったために、蝦夷の兵隊達に負けそうになりました。そのうちに、田道 将軍は蝦夷の射った毒矢に当たって死んでしまいました。
る 、悪戯な若者が猿賀さまの墓石を掘って見たら、本当に大蛇が出て、大蛇 に噛まれ た若者は死んだと云います。
4、津軽の猿賀神社
•青森県南津軽郡尾上町猿賀の猿賀神社の社伝によれば、
•その2百年後に洪水があった時、白馬に跨った田道が流木を舟にして当地に流れ着いたとのこと。
•さらに2百余年後に坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐で苦戦に陥った時に、田道の神霊が現れ大勝に導いたので、此の地に祠を造って祀った。それを桓武天皇の奏上し、勅許により大同2年(807年)奥州猿賀深砂(しんしゃ)(神蛇)大権現として勧請した。
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