2010年10月7日木曜日

03034■古四王神社と齶田浦の神と恩荷




なまはげの郷、秋田県「男鹿(おが)」の語源にもなった肉食習慣のある蝦夷「恩荷(おんが)」が信奉していたのは、『日本書紀』によって「齶田(あぎた)浦の神」であることがわかります。

 この齶田(あぎた)浦の「アギタ」もまた、秋田の語源になっているようです。
 つまり、)とのこの両者の関係は、秋田県が秋田県たる所以とも言うべき重要なキーワードなのです。

 新潟県から秋田県を中心にみられる古四王(こしおう)の神は、秋田県秋田市寺内の古四王神社の由緒によれば、元々はその齶田浦の神の住まいに大彦(おおびこ)なり武甕槌(たけみかづち)なりが同居せられたものであるとのことでした。

 さて、そのような由来を持つ古四王神であるにもかかわらず、ウェブの百科事典『ウィキペディア』によれば、近年まで氏子には肉食を忌む風習があったとのこと・・・。
 不思議なものです。そもそも肉食習慣を公言する者の信奉する神であったものが、何故に肉食を忌まれる神に変質しなければならなかったのか・・・。おそらくは四天王が習合(?)されて長い年月を経るうちに、氏子にすらその本質が忘れ去られていったのでしょう。

 かと思えば、明治の神仏分離を経た現在の境内案内には逆に仏教的要素が消滅しており、当然ながら四天王の面影自体など微塵も見えず、ますますもって肉食が忌まれた理由の根幹が見えなくなっております。

 つまり、全ては古四王神社に内包された多重人格性――多重神格性(?)――がこのような矛盾の歴史を生んでいるということでしょう。私の仮説に則っていくならば、福島県田村郡三春周辺に集中しているミワタリ信仰にも同様な傾向があっておかしくないということになります。

 三春周辺においてミワタリという名称で呼ばれることが多いこの謎の神は、管見では旧陸奥国全域とこれに隣接するエリアにしか確認できておりません。そして、前に触れたとおり特に最も集中している旧仙台藩領内においてはニワタリという名称が大多数となっております。
 日本地名研究会の三文字孝司さんが確認した70社のうち、「ミ」系は28社、「ニ」系は42社でした。つまり、単純に「ミ」:「ニ」の比率は2:3ということになります。




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恩荷(おが、おんが、生没年不明)は、7世紀半ばの飛鳥時代に日本の秋田地方にいた蝦夷(えみし)の人物である。現在の秋田市周辺の蝦夷の長であった。658年阿倍比羅夫の水軍を齶田(秋田)で迎え、倭国の朝廷への服属を誓い、小乙上冠位を与えられた。


恩荷は『日本書紀斉明天皇4年4月条の阿倍比羅夫の北航の記事中にだけ現れる。この月に阿倍比羅夫は、180隻の船団を率いて本州日本海岸を北上した。齶田と渟代の二郡の蝦夷はこれを眺めて怖れ、降った。比羅夫の軍が齶田の浦に船を連ねると、齶田の蝦夷恩荷が、「自分たちは官軍と戦うために弓矢を持っているのではない。肉を食べるためである。もし官軍のためであれば、齶田の浦の神が知るだろう」云々と朝廷に服従を誓った。比羅夫は恩荷に小乙上を授けた。比羅夫はさらに北上し、渟代と津軽の郡領を定め、有間浜渡島蝦夷を集めて大いに饗応して帰った。
事績
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――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』より――
夏四月、阿倍臣が船軍百八十艘を率いて蝦夷(えみし)を討った。秋田・能代二郡の蝦夷は、遠くから眺めただけで降伏を乞うた。


比羅夫の侵略に対し、蝦夷は戦わずして降伏しております。そしてこの時、秋田の蝦夷の恩荷(おんが)は不戦降伏の理由について次のように言上しております。


――引用:前述書――
「官軍と戦うために、弓矢を持っているのではありません。ただ手前どもは肉食の習慣がありますので、弓矢を持っています。もし官軍に対して弓矢を用いたら、秋田浦の神がおとがめになるでしょう。清く明らかな心をもって、帝にお仕え致します」


 恩荷は齶田(あぎた)浦――秋田浦――の神の神意に基づいた決断をとったと見られますが、古四王神社の前身はこの齶田浦の神であったと考えられております。
 さて、前述秋田市内の古四王神社の境内案内板では、齶田浦神とはオオビコが奉斎した武甕槌(たけみかづち)のことであるとされておりました。
 そこにオオビコの裔である阿倍氏によってオオビコ自身が合祀され、それが古四王社であるとされておりました。



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2010年10月5日火曜日

030291■行基は渡来人の末裔

今日のNHKBS2の奈良時代総集編で行基は渡来人の末裔、および聖武天皇との関係が興味深く見ました。

文太郎の施行DNAさんにすべてが載っていました


第30回 渡来人 757 渡来人に姓をの詔

2010.04.09 第30回 渡来人 757 渡来人に姓をの詔

・45日間奈良一周

45日間奈良時代一周 第30回 757年 渡来人 渡来人に姓をあたえる詔


この年、
757年、武器や馬の所有制限がなされた。不穏な権力闘争を牽制するため。きな臭い戦乱の幕が開けようとしていた。
57年、渡来人に姓を与える詔。高麗・百済・新羅の人たちで望む者には姓を与えよ。
日本の人口の30%に達するという説もある。





「行基」
行基は、渡来人の末裔。行基の出身というのが分かって、その家が渡来人の末裔だった。行基が渡来人の末裔であることは、間違いない。
「行基」は、聖武天皇の時代、大仏建立に協力した僧。その素顔はどんなだったのだろうか?奈良時代に最も活躍した渡来人だ。

「続日本紀」

「小僧 行基」といわれ、よくない僧だった。仏教は国のもの、と「僧尼令」で、僧侶は寺の外で庶民に仏法を説いてはならない、と禁止されていた。
行基の民間布教は、重大な違法行為だった。行基は、国の秩序を乱す危険人物とみなされ、警戒されていた。

<飛火野>(とぶひの)

ここで行基は数千、数万の人を集めた。

<妖言>
行基は、民衆のカリスマ。どのような人々が集まったのか?当時の納税台帳。「逃」という文字が多い。重い税に耐えきれず、土地を捨てて平城京に逃げてきた人。地方から税を平城京に持ってきて、お金が尽き果て帰れなくなり、そのまま平城京に残った人。こういった人々の支持を集めたのが行基だった。
恵まれない人たちに仏の教えを説いて救済していた。

行基は大坂で生まれた。大阪。
行基は、近畿一円を歩き回った。
<堺市>
行基の開いた寺がある。土で作った塔。全体が瓦で覆われている。土で作ったという。高さ8.6m。土で出来た仏塔。

「土塔」

土の十三重塔。2009年に復元完了。一辺が53m。かつて、この頂上にはお堂のようなものが建てられていた。
土塔は、高度な土木技術で作られていた。行基は優れた土木技術を持っていた。
当時の僧侶は知識階級。仏教だけでなく、様々な学問に通じていた。
行基が土木技術に長けていた理由の一つには、渡来人が多く住んでいた場所に生まれ、そこには技術と知識が一杯詰まっていた地域だった。

<土塔の瓦>
行基がいた頃の瓦で、本物だ。
皆で行基を助けて、皆が瓦を出し合った。狭山池、堤防などを作った。その堤防は今でも活躍している。木津川に掛けた橋、「泉大橋」。
行基をバックアップしたのは渡来人だ。

橋の全長、383.6m。
行基の存在の大きさ。行基の元で働くことは徳を積むことだと信じる人が力を合わせた。その結果、行基が率いた工事は驚異的な早さで進んだ。

<喜光寺>
大仏の造立が始まった。
行基が認められるようになった。様々な社会事業を行う行基に、国造りに協力して欲しいと、聖武天皇は考え始めた。
聖武天皇は行基に「大僧正」の位を授けた。
行基は大仏建立の立役者。行基の協力なしでは、大仏の造立は不可能と考えた。
人望・実力・技術・人気。国民的なお祭りとなった大仏造立。庶民も仏教に近付いた。

行基は、大仏の完成を見届けることなく、この「喜光寺」で81年の生涯を閉じた。

<竹林寺>(奈良)
行基の墓。

行基が後世に残したもの。

寺        49
橋         6
ため池      15
無料宿泊施設    9
船着き場
堤防
用水路
等々

生前から菩薩と慕われていた行基。今、行基像は、待ち合わせの場となっている。行基像の視線の先には、完成をその目で見ることが出来なかった「東大寺の大仏殿」。


2010.04.09
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(まとめ)
・やはり行基は渡来人
・もっとも日本人の30%が渡来人であった???
・日本全国に行基開設のお寺がある・・・・田村麻呂伝説と同じです


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