2010年3月20日土曜日

01228■大噴火の様子(開聞岳の事例)



十和田湖の噴火を追求するにあたって、鹿児島の開聞岳の大噴火の様子が秋たさきがけに掲載されていました。参考資料として。

記事
「大地を灰で覆い尽くす火山の噴火は、時に集落や農地を復興不可能な状態にした。・・・・・
天皇の命で編纂され901年に成立した歴史書「日本三代実録」によると、噴火は874年3月25日夜に発生した。『開聞岳の山頂に炎が立ち上がり、噴煙が天を覆った。夜が明けても光が差さず、昼間も夜のように真っ暗だった。細かく黒い砂が降り続けた』 約10km北東の遺蹟周辺では、火山灰がわずか一日で0.5~1mほど積もったとみられる。」
































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(まとめ)
・これほど大きな噴火は正式な記録として残っているのですね(874年)。

・大変参考になる資料です。
十和田湖の噴火(915年)が同じころなのに、地元に記録がなく、地域の地質学者も考えたこともないと言っているのに・・・です。

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2010年3月15日月曜日

04016■東北縄文の歴史を深く耕す




秋田さきがけ新報に石川好さんの「秋田の歴史を耕そう」が掲載されています。

1、秋田の歴史を耕そう









































■要旨は
①横手市の大鳥井山の山城発見が素晴らしいものとニュースとなった。
②文書に残らなかった歴史が東北にはあった。歴史についての見直しが必要でしょう。
③「遅れている」と無自覚な秋田県民はどう理解し、生かして行くか。
④秋田県内の歴史遺跡を耕してみれば、可能性としての秋田の未来が現れる。
秋田に自信と誇りを蘇らせよう!!

2、児桜町内子ども会「児桜貝塚跡調査」
なぜ児桜町内会は(子ども会中心ですが)縄文時代の児桜貝塚跡調査を行ったか。
それは行政の発掘調査は天平時代の秋田城址が目的です。中央政府がわれわれ蝦夷(エミシ)つまり縄文の昔からここに住んでいた人々を征服した頃の調査なのです。だからわれわれは、我々の住む児桜の丘に、縄文時代にすでに集落があり生活していたことを深く調べたくなったものです。



























3、刻字作品「耕してやまず」











私の巡堂工房作品に「耕不尽」(たがやしてやまず)があります。
その前の大館市の実業家Kさんには「深耕」を希望され彫って差し上げてあります。

石川さんと同じく、すべてのものを今より更に深く掘り下げて行けば、必ず原点に立ち返ることが出きて、今ある壁を突き抜けることができるのです。
そして、その継続です。耕してやまず!!

4、東北縄文文化研究会も同じ目的です
私のもう一つの顔は「東北縄文文化研究会」主宰です。特に鹿角市のストーンサークル、クロマンタが中心です。東北の縄文時代は律令国家が国をあげて歴史を封印したものです。たとえば「田村麻呂伝説」というのがあります。岩手県でアテルイと10年戦争をしてついに捉えた大将軍ですが、実は岩手県真でしか来ていないのに、山形県にも、秋田県にも、青森県にも来た事になっています。しかも来てない各地に神社が一杯建っています。

教え込まれている常識というのは本当にアテにならないのです。歴史を深く耕すことで、その常識の壁を突き抜けて良ければ明るい未来がひらける、と石川好さんは言っているのですね。

ますます、「東北縄文文化研究会」もやる気がでてきました。

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2010年3月8日月曜日

03028■四道将軍とは(wiki)











ウイキで四道将軍を確認しましたら、なんと鹿角に遺跡のある「田道将軍」は入っていませんでした。


四道将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

四道将軍(しどうしょうぐん)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、
大彦命(おおびこのみこと)、
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、
吉備津彦命(きびつひこのみこと)、
丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。


『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、

西道、丹波に派遣された。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと

将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させ

て凱旋したとされている。なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀

人物とされている。概要

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古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して
取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦
命は別名で記載されている。
また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命
の父である彦坐王が記述されている。
四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル
伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト
王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解があ
る。事実その平定ルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重な
っている。

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(まとめ)
・なんと鹿角に来た田道将軍がいません。
・秋田市の古四王神社に四道将軍の一人「大彦命(おおひこのみこと)」
が越の国から遠征したことになっています(大いに疑問に思いますが)
(古四王神社 はりつけ)
社伝では、崇神天皇の時代、四道将軍大彦命蝦夷を平定するため
陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(「あぎ
たのうらのかみ」は日本書紀に記載されている。

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